キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第8章

8章1節 ①

主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。…アイの王も民も町も…あなたの手に渡す。」

神は、アイとの戦いでの敗北の原因であったアカンの罪が解決された後、再び戦いに出て行くようにと、ヨシュアと民に命じました。カナン征服のラッパが再び吹かれました。神の言葉に人々は勇気を得ましたが、それ以上に勇気を得たのは神御自身だったのでは。

神は、「神の子であるこの人を用いて、あの人を救おう」との計画をお持ちです。神に不可能はありませんが、神の全能を束縛するのはただ一人の罪です。神は、罪を持った神の子にも働きますが、マイナス(罪)をゼロ(神の子の正しい姿)にし、ゼロをプラス(福音を伝える者)にすることが、最初に必要です。

神の倉庫には一人ひとりへの溢れる神の恵みが蓄えられ、神はそれをいつ届けようかと待っておられます。それには、「わたしを遣わしてください」(イザ6章8節)と、主に従う者が必要です。

友よ。主の御声を聞いたなら、恐れずに進んでください。失敗を恐れ、自分を点検してばかりいるのは、プラントの植物の生育を調べるためにそれを引っこ抜くようなもので、かえってそれを弱らせます。「主よ、私は進みます。もし間違ったら引き返しますから教えてください」と、今、達し得たところから進んでください。「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」(フィリ3章16節)。

8章3節

ヨシュアは全軍隊を率いて行動を起こし、アイへ攻め上った。ヨシュアは三万の勇士をえりすぐって夜の間に送り込み、

先の失敗を心に刻んだイスラエルの、この度のアイ攻めに高慢はありません。イスラエルは全ての兵士を差し向けて、全力でアイに向かって行きました。

神を信じる神の子たちは、それなりに神に頼って生活しますが、すべての面で神に自分を明け渡しているとは限りません。今回は全軍隊を向かわせましたが、前回はたったの三千人でした。「全軍隊を率いて」とは、「全てを神に献げ・全てのことで依存して」とも読み取れます。

日本では、「献身者」と「信者」という分け方をします。献身者は神にすべてを献げた人、信者は日ごろ自分の生活をし、必要な時は神に奉仕する人……とイメージしがちですが、これは間違いです。聖書は皆に、「こういうわけで、兄弟たち…自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ12章1節)と勧めます。

友よ。「三千人」ではなく「全軍隊」、ここに信仰の姿勢を見ます。十分の一献金は良い神の子の務めですが、前のみことばにある「いけにえ」とは、自分の命を献げることです。命に十分の一や中途半端はありません。主イエスは、あなたのために全焼のいけにえとなられました。命には命をもって応えねばなりませんから、十分の一(三千人)ではなく十分の十(全軍隊・あなたの全て)を献げましょう。

8章3~4節

「…全軍はわたしと共に町に近づく。…我々は退却する。…あなたたちは待ち伏せしている所から出て、町を占領しなさい。…主は町を…渡してくださる。」

アイへの再攻撃です。今度は全軍で戦いますが、隊を二手に分け、一隊が敗走する振りをして敵をおびき出し、別の一隊が攻め込む作戦でした。知恵をもってアイに勝利する、見事な計画でした。

最初の時は、自分で計算し、自分たちの方法で戦って失敗しました。この度は、神に授かった知恵をもって勝利できました。人生の戦いも同じです。

聖書は、生きるための知恵に満ちています。聖書においては、「知恵」は神に関すること、「知識」は人間に関すること、と言うことができます。「主を畏れることは、知恵の初め」(箴1章7節)とは、「神を愛する(畏れる)ことが人間の知恵」とも読めます。

さらに、「初めに言があった」の「言」とは主イエスのことを表し、「言」なる神は「言葉」によって御自分を表します。それを、「言(知恵)」は「言葉(知識)」となって人に伝えられる、と言うこともできます。従って、「知恵(神についての知識)」によって「知識(この世で生きる知識)」がコントロールされるとき、人は命を持ち、正しく豊かに生きることができます。

神の知恵・主イエスを信じている友よ。まずは、主イエスについてもっと知ってください。知恵は人格であり、知識は考えや経験や思いなどです。人格が正しければ知識は正しく用いられ、豊かな実を結びます。

8章9~10節

ヨシュアは翌朝早く起きて民を召集し…長老たちと共に、その先頭に立ってアイに向かって上った。

アイへの最初の攻撃は「自分たちで」でしたが、今回は「神によって」でした。また、最初の攻撃と今回の攻撃には二つの違いがありました。それは、ヨシュアが先頭に立ったことと、朝早く起きて攻撃したことです。

ヨシュア記の後に続く士師記は、イスラエルが祝福と呪いを繰り返した原因を、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいことを行っていた」(士21章25節)から、と教えています。「ヨシュア」という名は、新約の「イエス」に通じる言葉であり、それは「律法・旧約(モーセ)」を完成する「福音・新約(イエス)」を表していました。

ダビデ王のバト・シェバとの姦淫事件は、「王たちが出陣する時期になって、…しかしダビデ自身はエルサレムにとどまり」(Ⅱサム11章1節)、自ら戦いの先頭に立たず王宮の屋上で夕涼みをしていたことから始まりました。後にダビデは詩編23篇を著わし、羊飼いのリーダーシップの重要性を強調しました。

友よ。主イエスがすべてのリーダーですが、その次のリーダーはあなたです。人がリーダーとして先頭に立つということは、教会や兄弟姉妹の批評をすることではなく、「みことばを実践」することです。みことばを実践しようとする時こそ、主イエスがあなたの本当のリーダーになってくださいます。主イエスは、「自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く」(ヨハ10章4節)お方です。

8章10節

翌朝早く起きて民を召集し、イスラエルの長老たちと共に、その先頭に立ってアイに向かって上った。

最初の戦いと今回の戦いのもう一つの違いは、「朝早く」起きて戦ったことでした。聖書において「朝早く」という言葉には、物理的時間を超えた大切な意味が含まれています。

アブラハムが、「あなたの息子、あなたの愛するイサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい」との神の声を聞いた時、「次の朝早く、アブラハムは…息子イサクを連れて…行った」(創22章1~3節)とあります。もし、次の朝早くではなく二~三日後に出発するならば、その間に周りの人々の声や世の常識、肉の親としての感情も交じり、「神は人を殺すなと命じ、愛せと言っているのだから、『イサクを殺せ』とはサタンの声なのでは?」と判断してしまい、神に従うことができなかった可能性もあります。

「朝早く」とは、人の考えよりも神を優先することです。前回ヨシュアは、アイを探った斥候の意見を聞いて失敗しましたが、今回は「朝早く(神に聞き)起きて」行動し、勝利しました。

しかし友よ。神の言葉に従うには、まず神の声を正しく聞くことが必要です。みことばは「ロゴス(普遍的神の言葉)」ですが、それが「レーマ(あなたに語られた言葉)」になるまで、聖書を読み、メッセージを聞き、身の周りの出来事、自分の課題などを総合的に受け止める霊的能力が必要です。しかし、すべてを知ってから行動できる人はいません。達し得た所で実践してみてこそ、さらに正しいレーマを受け取れます。

8章25~26節

その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民を…滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。

神は完全な勝利を与えてくださいました。「見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かる」(ヘブ11章1節)とありますから、この勝利は霊の世界から始まりました。

ヨシュアの勝利は、滅ぼし尽くすまで「投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった」ところにありました。それは、「神に手(投げ槍)を上げ続けた」とも読めます。

信仰の勇者たちも同様でした。かつてイスラエルがアマレクと戦った時、「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、アマレクが優勢になった」とあり、さらに、この戦いはモーセ一人のものではなく、「アロンとフルはモーセの両側に立って、彼の手を支えた。その手は、日の沈むまで、しっかりと上げられて…」(出17章11節)ともあります。 

霊の戦いは主が戦うので、人は戦わなくてよいのでしょうか。否、人も戦います。それは、両手を主に上げ続ける戦いです。その左手は自分の降参を表す手、右手は祝福を求める信仰の手です。

戦いの中にいる友よ。次の二つのみことばに心を留めてください。「天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう」(哀3章41節)。「嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます」(詩28・2)。友よ。勝利とは、主に両手を上げて泣くことです。

8章28~29節

ヨシュアはこうしてアイを焼き払い、…アイの王を木にかけて夕方までさらし、太陽の沈むころ、命じてその死体を木から下ろさせ、町の門の入り口に投げ捨て、

「クリスチャンなのだから、敵とはいえもっと優しく取り扱うべきではないか」との声も聞こえますが、果たしてそうでしょうか。容赦も妥協もないヨシュアの行動は、神の子たちに求められている姿です。もちろん、アイの住民とアイの王は、罪とサタンに例えることができます。

やがて登場するサウル王は、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもロバも打ち殺せ。容赦してはならない」と主に命じられました。「しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」。

その後、主は預言者サムエルに言いました。「『わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。』サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ」(Ⅰサム15章3~11節)。

友よ。サウル王が滅ぼさなかったのは、アマレクという他者ではなく、自分の中に巣食う「肉」というアマレクでした。見えない内的なアマレクが、見える姿のアマレクを残してしまったのです。罪とサタンを滅ぼす方法は、自分自身を主の十字架につけ続けることです。

8章30節

そのころ、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために祭壇を築いた。

アイを征服した民は、50㎞ほど北上したエバル山まで上って祭壇を造り、主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげました。ここで「主のために祭壇を築いた」との言葉にメッセージが秘められています。

「ノアは主のために祭壇を築いた」(創8章20節)「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12章7・8節・13章18節)とあり、モーセも神から「わたしのために土・石の祭壇」(出20章25・26節)を造れ、と命じられました。いずれも、祭壇は「主のために」築かれました。祭壇は民が神を礼拝するために必要なものですが、神にとっても必要だったのでしょうか?

祭壇は、「主のために」が大切です。祭壇を築くのは、礼拝のためです。そして礼拝こそ、神が「主」とされることでした。主のために祭壇を築き礼拝することは、神に主権を取っていただくことです。反対に、人が自分のために祭壇を築くならば、それは自分の利益のためであり、人間中心の礼拝となり、ひいては「人のための神」になります。それは偶像の神以上にはなり得ません。

友よ。あなたの礼拝は主のためですか、それとも自分のためですか。「神を礼拝せよ」とは、「神に主権者となっていただきなさい」ということです。自分のための礼拝は神を殺しますが、神のための礼拝は自分が生かされます。主日の礼拝も、日々の祈りも祭壇です。全ての礼拝、集会、祈り会、家庭礼拝が、主のための祭壇とされますように。

8章31節

この祭壇は、主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの教えの書に記されたとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた。

重厚な石造りで高い塔を持つ、歴史的な古い教会堂も数多くありますが、エバル山の祭壇は、鉄の道具を使わず自然のままの石で造るように命じられました。 これは今に始まったことではなく、「もしわたしのために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない。のみを当てると、石が汚されるからである」(出20章25節・27節)とモーセの時代から命じられていたことでした。

「祭壇の石を加工しない」とは、「神の教えに手を加えない」「人が勝手に解釈しない」ということです。現実に、豪華絢爛な会堂であるほど、国や教団や教派、地位や組織、人の思惑、伝承や継承などの人の手が加わり、神の教えの基本である原石の形を変えてしまいがちです。

また、人から見た神についての聖書の教えと理解も、加工された石となり得ます。「『主よ、主よ』と言う者が天国に入るわけではなく、わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタ7章21節)とあるように、「神の御心を実践しようとすること」が原石の祭壇となります。

友よ。あなたの祭壇・教会・礼拝・霊の交わりは、原石で造られているでしょうか。そして、さらなる原石とは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタ18章20節)とあるように、「人ではなく神を中心とすること」です。

8章32節

ヨシュアはこの祭壇の石に、モーセがイスラエルの人々のために記した教えの写しを刻んだ。

ヨシュアは神の祭壇を鉄の道具を使わず自然のままの石で造り、そこにモーセに与えられたみことばを刻みました。

「キリスト教の御本尊は?」と聞かれますが、もちろんそんなものはありません。しかし見える形のものとしては、「契約の箱」があります。それは拝む対象ではなく、神がどのようなお方で、神が人に何をしてくださるかを表すものでした。

箱の中には、石に刻まれたモーセの十戒がありました。十戒は、「初めに言があった」の「言」が「言葉」とされたもので、それこそ「聖書」と言えます。「主なる神(ヤーヴェ・エロヒーム)」は、聖書によって顕(あらわ)されます。さらに契約の箱には「贖いの蓋(ふた)」があって、大祭司が年に一度雄牛の血を注ぎました。これは、霊なる神と罪人が、主イエスの十字架の血を通して継がりを持てるようになることを教えます。さらに、箱の上に一対のケルビムが置かれました。ケルビムは、単なる天使を超えて、聖霊を象徴するものでした。契約の箱こそ、三位一体の神の表現でした。

モーセに啓示され、石に刻まれた神の教えである「聖書」を与えられている友よ。それに鉄を当てて自分に都合よく変えてはなりません。聖書を、「…墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙…」(Ⅱコリ3章3節)とせねばなりません。聖書を自分で解釈するのではなく、聖書に自分を解釈していただくのです。

8章34節

その後ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。

エリコを攻め落とし、アイも滅ぼしたイスラエルは、エバル山で祭壇を築いて礼拝し、律法を読み上げました。

その中で、「律法の言葉すなわち祝福と呪い」とあります。律法は神と人との「継がりと交わり」、すなわち命の関係を示す祝福の言葉であるはずなのに、なぜ呪いも含まれているのでしょうか。

神は人に人格・自由意志を与えています。自由な人格があるからこそ愛が存在し、自由を持っているからこそ戒めが必要です。戒めは、神が人を束縛するためではなく、自由にするためです。

「あなたを愛します」と言う時、その裏側に、「あなた以外の人を愛しません」がなければなりません。主は十戒において、第一戒では主が唯一の神であることを、第二戒では偶像を造ってはならないことを戒めました。祝福は第一戒にあり、呪いは第二戒にあります。律法の祝福と呪いは表裏一体です。

友よ。「祝福」を受けるには、その裏にある「呪い」も知らねばなりません。どちらを受け取るかは、あなたの責任です。主の恵みの法則は、「神を愛し→自分自身を愛し→隣人を愛せよ」であり、すなわち恵みは「神の愛」から始まります。「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロ3章14節)。

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