キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ヨシュア記 第9章

9章2~3節

…集結してヨシュアの率いるイスラエルと一致して戦おうとした。 ところがギブオンの住民は、ヨシュアがエリコとアイに対してしたことを聞き、

アイが攻略されたと聞いたカナンの沿岸地方の各住民はイスラエルの強さに驚き、同盟を結び一致団結して戦おうとしていました。しかし、その中のギブオン人は、周りの民と歩調を合わせず、全く反対のことを考えていました。

悪魔は人を攻撃する時に、初めは「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と真理を疑わせ、次に「決して死ぬことはない」と否定し、さらには「神のように…なる」と神へ反逆させます(以上創3章参照)。悪魔は嘘・敵意・脅し・迫害などの方法を用います。しかし、それ以上に恐ろしい攻撃は、ここに登場するギブオン人が用いる「同盟」という策略です。

彼らはイスラエルを欺き、敵ではなく味方であるかのように振る舞います。人はこのような相手に対しては、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方」(マコ9章40節)とのみことばを思い出し、敵をいとも簡単に受け入れてしまうものです。これは、見えない敵の攻撃です。

神に聖別されて生きる友よ。ギブオン人はあなたの中にも住んでいます。それは、肉を温存するために良い行いを差し出して罪を隠し、神に自分を認めさせようとすること、すなわち自分でつくり出す救いです。「姦淫、偶像礼拝、魔術、敵意…」などの肉の実は見えやすいものですが、自分の良い行いによって神と同盟を結ぼうとすることは、見えない恐ろしい敵になるものです。

9章4~5節

賢く立ちまわった。彼らは使者を装い、古びた袋、使い古して繕ってあるぶどう酒の革袋をろばに負わせ、…継ぎの当たった古靴を履き、着古した外套をまとい、

ギブオン人の使者たちのパフォーマンスは実に見事です。「役者」と「偽善者」は同義語だと聞いた記憶がよみがえります。

神が人に与えたいのは「聖絶」の恵みです。「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12章14節・新改訳)。神を「見る」とは、「交わる」でもあります。神が「アコルの谷(聖絶)」を用意したのは、神と人が交わる「希望の門」に導くためでした(ホセ2章17節)。

神と人の同盟は、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ1章20節)とあるように、十字架による聖絶を抜きにしてはあり得ません。ギブオン人は、遠い国から来たかのように振る舞いますが、偽善者でした。神の前における最大の偽善は、十字架抜きの救いを作り出す律法主義です。

友よ。あなたはすでに神に向かって「アバ・父よ」と呼べる神の子なのに、ギブオン人になっていませんか。むしろ、胸を打ち、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18章13節)と言った徴税人のように、神の前で恥じずに心を裸にしましょう。古びた袋や継ぎの当たった古靴や着古した外套で偽る必要はありません。

9章6節

彼らは…、「わたしたちは遠い国から参りました。どうか今、わたしたちと協定を結んでください」と言うと、

遠い国からイスラエルを慕い、仲間に加わろうとやってきた、と思わせるにふさわしい身なりと言葉に、だれもがだまされそうです。彼らの欺き方に注意してください。

「遠い国から来た」
「遠い国から」とは、神が滅ぼせと命じた中に入らない者である、との主張です。しかし聖書は、「義人は一人もいない」と言い、すべての者は罪の中に、神の怒りの中に入っている、と告げます。原罪を抜きにした人間賛歌は危険です。
「同情を求めた」
繕った靴、古びた袋や外套、努力と熱心の強調など、どんな人間的な同情も熱心も、天国に入る条件にはなりません。「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです」(ロマ9章32節)。
「主の名を恐れていると言った(9節)」
罪の本性を知る者だけが神を「恐れ」、罪を赦していただいた者が神を「畏れ」ます。彼らは実際には神を「恐れ・畏れ」ているのではなく、罪と滅びを恐れているだけです。

 友よ。キリスト教とは、心の慰めではなく霊の命の回復を与える教えです。その命については、「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」(Ⅰコリ15章36節)と語られています。主イエスと共に死ぬ者だけが、主と共に復活するのです。

9章8節

彼らはヨシュアに、「わたしたちはあなたの僕でございます」と言うと、ヨシュアは尋ねた。「あなたたちは何者か、どこから来たのか。」

ギブオンの人々は実に善良に見え、神を否定するどころか、仲間に加わろうと必死です。彼らの態度を見て、ヨシュアたちは彼らを仲間に加えることにしますが、それは正しかったのでしょうか。

ルツ記では、飢饉のために一つの家族がモアブへ移住しました。そこでナオミは夫を失い、さらに二人の息子をも失います。仕方なく故郷に帰るナオミに、二人の嫁たちもついて来ました。ナオミの説得によって嫁の一人オルパは帰りますが、もう一人の嫁のルツは姑から離れませんでした。

なぜオルパは帰ったのでしょうか。彼女がナオミについて来た理由は、この家の嫁としての義務感、三人とも夫を失ったことによる痛みと悲しみの共有意識、人間愛でした。しかし、「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。」(Ⅰコリ15章50節)。

友よ。ギブオンの人々に対するイスラエルの博愛でも、オルパの素晴らしい家族愛でも、神の国に入ることはできません。それは、イエスを主と信じる信仰によってのみ可能です。オルパは帰りましたが、ルツは、「あなたの神はわたしの神」(ルツ2章16節)と告白しました。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」(ヨハ6章63節)とのみことばを、オルパとルツに見ることができます。今日も「イエスは主」と告白しましょう。

9章8~9節

彼らは言った。「僕どもはあなたの神、主の御名を慕ってはるかな遠い国から参りました。主がエジプトでなさった一切のことも、…ことごとく伝え聞きました。

ギブオン人たちは、イスラエルの歴史に働かれた神の御業を知っていました。すると、ますます彼らを信用したくなりますが、気をつけねばなりません。彼らはイスラエルの過去の歴史については言及していますが、つい最近のエリコとアイの出来事については語っていません。

聖書に書いてあることは、アブラハムなどの大昔のことであっても、今の私たちへのメッセージです。それをただのアブラハム個人の出来事として受け取ることは、イスラエルの過去の罪を語っても、神の前に自分が罪人であり、裁きの中に入っていることを無視するのと同じです。そして、キリスト教の教理や歴史を語っても、自分と神との現実的な関係である罪・裁き・悔い改めなどを無視することとも同じです。

エリコとアイの出来事を、自分自身への神の啓示として受け止めて神の前に出て行かねば、批評家にはなれても、信仰によって生きる人にはなれません。

信仰の友よ。信仰者とは、神と自分の関係を見る者であって、教理や歴史を知り、キリスト教について理解している者ではありません。ペトロの、「主よ、この人(ヨハネ)はどうなるのでしょうか」との質問に対して、「あなたは、わたしに従いなさい」とだけ主は言われました(ヨハ21章22節)。他者のこと以上に、神の前にいる自分の姿こそが最も大事です。

9章14節

男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった。

イスラエルの指導者たちは、多少の警戒心を持ちながらも、結局ギブオン人の偽善を見抜くことができず、彼らの差し出す和解の食糧を受け取ってしまいました。

「一人も滅びず永遠の命を得ること・御国が来ること」が天の父の御心ですが、そこには、「主イエスの十字架によって」「神の霊によって」という、決められたプロセスがあります。

教会の歴史を辿ると、ローマ帝国の迫害の中で宣教を続けた初代教会でしたが、三百十三年に公認され、三百八十年ごろに国教になり、ローマカトリックの時代へ入りました。

ここで起こった教会の悲劇は、その国に生まれた者はすべてクリスチャンとされるために、幼児洗礼を行ったことでした。やがて千年の「暗黒の中世」の後、宗教改革が行われ、信仰の光が復活しましたが、その中でもあるグループは幼児洗礼を施し、「主の指示を求めなかった」を繰り返しました。その結果、主が備えた道を通らずに神の国(教会)に入ってしまった人々であるギブオン人が、神の命に生きるクリスチャンよりも多くなりました。

友よ。「だれでも水(信仰の告白)(ロマ10章9節)と霊(神の御業・十字架と復活)とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハ3章5節)のです。 私たちは、この世の現実だけを見て判断するのではなく、「主の指示を求め」、それに従ってこの世を判断すべきです。

9章15節

ヨシュアは彼らと和を講じ、命を保障する協定を結び、共同体の指導者たちもその誓いに加わった。

エリコもアイも滅ぼし尽くした神の民でしたが、ギブオン人の暖かくソフトな攻撃に魂を抜かれ、ついに彼らと同盟を結び、神の国の住人として受け入れてしまいました。

サタンは、初代教会時代の迫害のように、初めは暴力・中傷・政治的権力を用いて外側から攻撃します。それで倒せないと見ると、今度は教会の中に入って来ます。そして、似て非なる教理や指導者への人格的攻撃などを用いて内側から崩そうとします。その最たる方法は、復活を強調して十字架を隠すことです。幼児洗礼などはまさに、十字架(悔い改め・罪の赦し)を隠し、復活(神の子・永遠の命)を持っていると見せかけることです。サタンは十字架を抜きにした神との和解(救い)を私たちに示しますが、それは偽りです。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出てきているからです」(Ⅰヨハ4章1節)。その見分け方は次のみことばが教えています。「イエス・キリストが肉となって来られたこと…。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません」(同2~3節)。

友よ。主イエスが人(肉)となられたのは罪の代価を払うため、十字架は復活させるため、復活は三位一体の神との交わりに入れるためでした。神が人となる→ 十字架→ 復活と命→ 三位一体の神との交わり。この順序が大切であり、一つも欠けてはなりません。

9章19節

指導者たちは皆、共同体全体に言った。「我々はイスラエルの神、主にかけて彼らに誓った。今、彼らに手をつけることはできない。」

協定を結んで三日後に、ギブオン人は遠くの民ではなく、神が滅ぼせと命じたカナンの民であることが分かりました。もし気づかずに共同体に入れ、共に歩んだならば、どうなったでしょうか。

  • 神の国の真理や愛が、人の道徳や常識や愛に代えられる
  • 救われるためには、神の働きだけでなく人間の良い行い(律法)も必要、と考えるようになる
  • 世間の常識から外れないように生きようとする
  • 聖書が語ることだけでなく、特定の指導者の教えも同等に重んじるようになる
  • 献身もせず、魂の飢え渇きを持たない神の子になる

サタンが神の子と教会から奪いたいものは福音の「高さ・深さ・鋭さ」です。ギブオン人を受け入れる寛容さは一見神の愛のようですが、実際には人間愛に過ぎません。高さ・深さ・鋭さを失うと、サタンを退けることができず、神の子たちは成長することができなくなります。

友よ。あなた自身と教会に福音の力はありますか。福音の力は、主イエスの十字架の血の力です。なぜなら、十字架の裏側には復活があり、この二つは一体だからです。復活の命が神の力であり、それはイエスの血がつくり上げる力です。あなたの中の、イエスの血を通さないギブオン人を、主に示していただいてください。「彼の受けた傷によって,わたしたちはいやされた」(イザ52章5節)。

9章21節

指導者たちは続けた。「彼らを生かしておき、共同体全体のために柴刈りと水くみをさせよう。」彼らはこうして、指導者たちの告げたとおりになった。

ギブオン人を受け入れた原因は、「主の指示を求めなかった」(14節)ことにありました。原因と気づかず進む結果も分かりました。

そこで、ヨシュアとイスラエルの指導者たちがとった対処は、
彼らを生かしておいた
彼らには「嘘も方便」以上のもの、「あなたの神、主がその僕モーセに…」(24節)と、イスラエルの神を信じ恐れていると述べた事実があった
ギブオン人と神の民を分けた
彼らを受け入れるが、霊の中心部分には置かなかった。
彼らに水汲みと薪割りの仕事を与えて管理した
ヨシュアの判断は正しいものでした。普通、ギブオン人に対しては三つの行動があり得ます。
  1. 間違いが分からず信じる…彼らの熱意を神の御心と信じ、取り返しのつかないことになる
  2. 間違いに気づいてもそのままにする…1.よりは良いが、後に必ず問題は出てくる
  3. 問題を知って、それに正しく対処する

迷う友よ。私たちはいつでも完璧な判断によって行動できるわけではありません。むしろ問題に悩まされてから気づくものです。だからこそ、聖書とみことばから神の基準を教えられ続けねばなりません。ただただ、「私を正しい道に導いてください」(詩23・3参照)と、羊飼いである主に求め、みことばを聞き続けましょう。

9章25節

「御覧ください。わたしたちは、今はあなたの手の中にあります。あなたが良いと見なし、正しいと見なされることをなさってください。」

主の御心を聞かずにギブオン人を受け入れたイスラエルには問題がありましたが、当のギブオン人たちは称賛に値します。現実的に、未信者と結婚した場合などはどうすれば良いのでしょうか。

パウロはこのことについて、「ある信者に信者でない妻(夫)がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女(彼)を離縁してはいけない。…なぜなら、信者でない夫は、信者である妻(夫)のゆえに聖なる者とされているからです」と述べました。

ただし、夫(妻)と主イエスは分けねばなりません。主は、「わたしよりも息子や娘(夫・妻も)を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタ10章37節)と言います。これは、「夫や妻を愛してはならない」という意味ではなく、「イエスの次に夫や妻を愛しなさい」という意味です。さらに聖書は、「妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか」(Ⅰコリ7章16節)と続けます。

友よ。現実を変えられなくとも、現実を聖なるものとして用いることは可能です。それは、神の介入を求め続けることです。神はイザヤ書五十五章の中で、ひたすら神を求めよ、と語り、「茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。これは、主に対する記念となる」(13節)と励ましてくださいます。

9章27節

ヨシュアは、その日、彼らを共同体および主の祭壇のため、主の選ばれた所で柴刈りまた水くみとした。それは今日まで続いている。

ヨシュアはギブオン人を受け入れますが、彼らとの間に一線を引きました。そして彼らを、柴を刈って薪を集め、水を汲む奉仕につかせました。

聖書のテーマは、神の発見でも人間の成長と完成でもなく、「回復」です。初めに神が存在し、神が万物を創造したその目的は「人間」でした。しかし、人は神を離れ、園の間に身を寄せ(自然界を神とし)ました。

人生の命とは、自分の救いをつくることではなく、むしろ、アダムとエバが神と交わっていた場所、神の国へ帰ることです。神の国は、初めは「あなた方のただ中」に、次に「あなた方が互いに愛し合う」ところに、そして「全世界に出て行き…弟子とする」ところにあります。ギブオン人の姿は、まさに私たち異邦人の姿です。彼らは神の民でありませんでしたし、偽って神の国に入ろうとした偽善者でもありました。しかし今、神は、奉仕する者として彼らを用いてくださいました。

かつてギブオン人だった友よ。主は、私たちを御自分の民の中に受け入れ、「柴刈り・水汲み」の役目を下さいました。芝を刈って薪を集めるのは、幕屋の庭にある祭壇で贖いの動物を燃やすためであり、これは主イエスによる罪の赦しの十字架に直結する奉仕でした。水を汲むのは、人々を清める「清めの水」を整えるためでした。「芝刈りと水汲み」の奉仕を、感謝して受け取りましょう。

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