キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第11章

11章1~2節

ギレアドの人エフタは、勇者であった。彼は遊女の子で…ある。「あなたはよその女の産んだ子だから…」と言って、彼を追い出した。

民が異国の神々を一掃し主に仕えたので、神は民を愛しエフタを士師に立てました。しかし彼は遊女の子で異母兄弟たちに追い出されトブの地に逃げます。

人は自分で自分の存在を作れず、親や他者に作ってもらわねばなりません。他者に愛されてこそ自分を愛せる者になり、自分の存在が他者にも大切で、他者を信頼できる人格を持てます。 

エフタは、「存在するな・お前であるな・近寄るな・属するな・成長するな…」などの禁止令を受けて育ちました。否定され続けた者の願いは、「認められること」ですから、自分自身で他者に認められる者にならねばなりません。エフタは、備わったカリスマ性と能力を用い、逃亡地でならず者たちを集め首領となります。しかし、後にその劣等感が娘を死に追いやります。 

全ての人が認められることを求めるのは、愛に生きるように神に造られたからです。そして、その愛こそ人の命ですが、それは最終的には人によって満たせるものではありません。

孤独の中にいる友よ。だからこそ、あなたには人ではなく神に出会う道が開かれているのです。神を求め、神に満たしていただける恵みです。劣等感を自分で満たすのでなく、神によって満たしてください。

11章3節

エフタは兄弟たちから逃れて、トブの地に身を落ち着けた。エフタのもとにはならず者が集まり、彼と行動を共にするようになった。

「類は友を呼ぶ」の言葉通り、追われてトブの地に逃げたエフタの元にならず者たちが集まりました。また「友は類(人の質)を作る」も然りです。

① 遺伝

人種、性別、体質、気質などは、自分を超えた所で備えられ、多大な影響を及ぼします。

② 成育歴

胎内にいる時から子供は親や大人から受け取るだけで、自分の意志はありません。特にエフタはマイナスを受け取って成長しました。

③ 出会い

誰と出会うかは①と②を乗り越える上で一番大事です。出会いは新しい「継がりと交わり」を持つので、親からの遺伝子と成育歴を超えさせます。

④ 決断

③の出会いを得ても、その人とどのような関係を持つかによって自分の方向が違ってきます。

ガリラヤ湖の漁師であったシモン(ペテロ)とアンデレ、ヤコブとヨハネも漁師でしたが③イエスとの出会い、④「網を捨てて…舟と父親を残してイエスに従った」(マタ4章18~22節)。彼らの①と②以上に、③と④が彼らを神の子とし、主イエスの弟子としました。

友よ。どんな親か、どんな成育か以上に、主イエスとの出会いは、「この親の子から、神の子」へと変えます。主に日々従い(④決断)続けてください。 

11章15~16節

アンモンの人々が戦争を仕掛けてきたとき、ギレアドの長老たちは…エフタに言った。「帰って来て…私たちの指揮官になっていただければ…戦えます。」

エフタは、人に認められようとならず者たちの首領になりました。そこに、自分を追い出した者たちから、アンモンとの戦いの長を要請され、彼の心は躍りました。さらに戦いに勝利した暁には、ギレアド全体の頭になる約束も得ます(8節)。彼は、ここからイスラエルの士師とされての任に就くことになりました。

彼はアンモンに使者を遣わし、出エジプト後の200年に及ぶ周辺国との関係を説明します。その中での彼の主張は、「イスラエルの神、主が…」と繰り返します。そして「審判者である主が、…アンモンの人々を裁いてくださるように」(14~27節)と結びました。このことから彼は、彼を追い出した家族や世間に対する反抗心だけでなく、神への信仰があり、心の底では神への救いを求めていたことが分かります。

多くの神の子たちの中にも、本心は神に満たされることを願いながら、現実(教会・教職者・兄弟姉妹・組織…)に失望し、この世の人々の中に入って反抗しているエフタが多くいます。

しかし、友よ。たとえそれが自分からではなく、他者の罪によって造られたものであっても、それにとどまったならあなたの罪となります。それは、解決主がいるのに、その方に寄り頼まないあなたの罪です。

11章29節

主の霊がエフタに臨んだ。彼はギレアドとマナセを通り、更にギレアドのミツパを通り、ギレアドのミツパからアンモン人に向かって兵を進めた。

エフタの説得を、アンモンの人々が聞き入れません。これを機にいよいよ戦いが始まろうとします。 この時、イスラエルの将として立てられたエフタに、「主の霊がエフタに臨んだ」と記します。父なる神が御子イエスに、御子イエスが聖霊に御自分の権威と力を与え、聖霊は人に御自分の力を与えます。 ゆえに、皆が神の霊の臨在を求めます。聖霊の賜物である、使徒、預言者。教師、知恵や知識、信仰、癒し、奇跡を行う力、預言、霊を見分ける力…」(エフェ4章・Ⅰコリ12章)などはどれも魅力的です。

エフタは聖霊の力によって敵を打ち負かしました。それは、ギデオンにもサムソンにも、新約に入っても多くの弟子たちが聖霊の力を体験しました。

ここでエフタは、聖霊の「賜物」を与えられたのであって「満たし」を得たのではありません。賜物は能力であり、満たしは人格の支配です。賜物は一時的であり、満たしは永遠に続きます。しかし人は、聖霊の満たし以上に聖霊の賜物が魅了的に見えます。

友よ。ギデオンやエフタやサムソン、彼らは長く幸せな生涯を歩んだでしょうか。否、彼らは大きな賜物ゆえに誤りました。神が与えたいのは「満たし」です。偉大な働き人よりも、キリストの御形になることです。

11章30~31節

エフタは主に誓いを立てて言った。「もしあなたがアンモン人を私の手に渡してくださるなら、…私を迎えに出て来る者を…焼き尽くす献げ物といたします。」

エフタは戦いを前にして神に自分の決意を宣べています。大きな課題や特に生死を掛けた戦争であれば、だれでも神に自分の決意を伝え助けを得ようとします。

しかし、それが神の恵みによって芽生えた決意と、自分を神に認めさせるための決意とがあります。彼の決意は、人の命を掛けるほど堅いものですが、結果からもわかるように間違っていました。

彼の決意は、「あなたが…勝利させてくださるなら…(だれか)を焼き尽くす献げ物とします」でした。彼がこの戦いに勝つことは、神の栄光のためでも、イスラエルの民の幸福のためでもありません。自分を虐待した家族や人々に自分を認めさせ、さらに彼らをして自分に謝らせること…すべて自分のためでした。

だれでも神に願いを申し上げ、それが取引であることは往々にあるものです。しかし、その取引にも、良い取引と悪い取引があります。悪い取引の典型がエフタで、「(他者)を捧げます」です。良い取引は「私自身を献げます」です。

友よ。主は、「父よ。御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)と祈りました。その御心こそ「私を献げます」でした。

11章32~33節

…エフタは進んで行き、アンモン人と戦った。主は彼らをエフタの手にお渡しになった。彼は…二十の町とアンモン人を徹底的に撃ったので、…屈服した。

エフタの指揮の下、イスラエルから集まられた兵士たちは大勝利を得ました。イスラエルの民衆は喜び、それ以上にエフタが喜んだことでしょう。しかし、この大勝利はエフタの信仰やイスラエルの信仰深さから得たものではなく、神の憐れみでした。神の御業は、人の完全さによって成就するのではなく、神の完全さによって不完全な者でも用いられて、神の御心が成就することを忘れてはなりません。

神の完全さは、神の愛の中にあります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハ4章10節)。

神は、イスラエルもアンモンも愛し、両者に御自分の愛(命)を与えるため、わずかの信仰も、自己中心な信仰でも、罪人の罪さえも用いて救いの御業を現わそうとしています。ゆえに大きな神の御業を行った偉大な使徒パウロ自身が、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリ1章31節)と記します。

友よ。あなたも神の大きな御業を受け、見ることがあったはずです。その時、完全な信仰を持っていたわけではないのに、不完全な者を完全にしようとする万軍の主の熱心であったことを思い返してください

11章34節

エフタがミツパにある自分の家に帰ったとき、自分の娘が鼓を打ち鳴らし、踊りながら迎えに出て来た。彼女は一人娘で、彼にはほかに息子も娘もいなかった。

「勝利の暁には、最初に出会う人を献げます」の誓約をもって戦い、勝利して帰った時に最初に出て来たのは自分の唯一の子である娘でした。聖書の悲しい記事の中の一つがここにあります。

なぜこのような悲劇が起こるのでしょうか。神は人の正しい生き方を、「神を愛し、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と言いました。ところが多くの場合、「隣人に愛される自分になり、神にも愛されよう」となってしまいがちです。

それはまさにエフタの行動でした。彼は、親からの傷を人に認められることで癒そうと死に物狂いで戦いました。そしてそれが、神にも認められることと考えました。その時はいつも、他人の犠牲をもって自分の功績、名誉、存在を作ることになります。  エフタが全力を傾けて自分の命を得ようとした結果は、自分の娘を犠牲にせねばならなくなりました。主は、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、私のために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタ10章38節)と言われました。

主に熱心な友よ。あなたの熱心はどこから来ていますか。自分を救う熱心ですか、主の愛に感動しての熱心ですか。主の愛の中に入ってそこから始めて下さい。

11章35節

彼は娘を見ると…「ああ、私の娘よ。お前が私を打ちのめし、お前が私を苦しめる者になるとは。私は主の御前で口を開いてしまった。取り返しがつかない。」

主の霊によって戦い、勝利を得たエフタを待っていたのは一人娘でしたが、その娘を献げねばなりません。

人が誓うのは、自分の力で生きようとするが本当は貧しく不真実であることを知っており、それを埋め合わせるところから出てきます。主は人の弱さを知っているからこそ、「一切誓いを立ててはならない」と言われました(マタ5章34節)。

戦う前に、「主の霊がエフタに臨んだ」のですから、彼が誓いまで立てて自分の力で戦う必要はなかったはずです。主の霊に満たされたのですから、どこまでも主の霊によって進めば十分だったはずです。

神の子たちも「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12章3節」から始まりました。その時に受けた聖霊は完全なる神の内住でした。しかし、その霊によって歩まずに、自分の肉で歩み始めるならエフタと同じになります。

神の命を持っている限りその人は神の救いの中にいます。しかし、神の霊を持つ人が肉によって歩むときに失うのは自分の家族です。神を用いて自分を通そうとする姿に家族は失望するからです。

友よ。「あなたがたは…霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章3節)。

11章39~40節

二か月が過ぎ、彼女が父のもとに帰って来ると、エフタは立てた誓いどおりに娘をささげた。…イスラエルの娘たちは、ギレアドの人エフタの娘の死を悼んで…。

エフタ物語は、「なぜこんなことが」、「他に方法はなかったのか」と言うやるせなさを残します。

エフタが娘を殺さねばならなかったのは、彼が自分を救おうとした動機から出た誓いの罪でした。しかし、愛の神が本当に彼の娘の血を求めるでしょうか。娘を献げて救われるでしょうか。否、「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない」(詩49・8節)からです。

しかし、「もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義から私たちをきよめて下さる」(Ⅰヨハ1章9節)との約束があります。それには一つの方法があります。それは、娘に代わり父エフタが死ぬことです。それこそが悔い改めです。悔い改める時、主イエスがその罪を引き受け、十字架で自分の命と引き替えて処分してくださいます。

イザヤ書には、「あなたを贖う主(方)」という言葉が8回記されます。そしてエゼキエルは、「『私はだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(18章32節)と告げます。

友よ。自分の命を得ようとせず捨ててください。それが悔い改めであり、自分の十字架を負うことです。

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