キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第14章

14章1節

「サムソンはティムナに下って行ったが、…ペリシテ人の娘に目をひかれた。彼は父母のところに上って行って、「…彼女をわたしの妻に迎えてください」と言った。

サムソンの父母は、ナジル人として生活して子どもを育てしました。彼らは、息子もナジル人としての人生を歩むように教え諭したに違いありません。しかし、その子・サムソンは頭の髪の毛こそ切っていませんが、濃い酒も飲み(世に支配され)、死人(異邦人の女)にも近づき結婚まで決意します。

そこで、ナジル人(聖い者)になることに注意が必要です。それは、ホーリネスは神の力を得る手段ではなく、神の力・恵みを保つ手段です。サムソンの両親がナジル人の道を歩んだのは、神に委ねられたサムソンを育てる使命を守り抜き、息子サムソンも神に与えられた使命を果たせるようになるためでした。

パウロは、「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。」(Ⅱコリ4章10~11節)と言いました。

友よ。自分の十字架を負って主に従うことも同じです。自分に死ぬことで神の力を得るなら律法主義と変わりません。聖別は、神が私に働けるようになるためです。神の力を得るのは信仰で、自分を神に委ね・賭けることです。その力を保ち続けるのが聖別です。

14章3節

父母は言った。「…無割礼のペリシテ人の中から妻を迎えようとは。」だがサムソンは父に、「彼女を私の妻として迎えてください。私は彼女が好きです」と願った。

サムソンが異邦人の女を好きになり、結婚を求めることに両親は苦悩しています。彼はナジル人の道を外れてどんどんこの世に入り込んで行きます。

聖別は、神の恵みを得る手段ではなく、恵みを保つためでした。また、酒を避け、死人に触れず、髪を切らないことで聖別されるのでもありません。それらを避けるように勧める戒めは、その人が神に近づき、神と交わるために必要なことだからです。

「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」(Ⅰヨハ2章15節)。さらに、「二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。神と富とに仕えることはできない」(マタ6章24節)。

誰かを愛してその人と継がり交わるには、その人以外の人を避けること。神を愛することは、偶像(神以外のもの)を造らないことと同じです。 

友よ。主が「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言うのは、「髪を切って(主という権威を捨て)、酒に酔い(この世に支配され)、死人に触れ(命のないものとの一体化)るならば、私(神)のもとに来ることができなくなる」と言っているのです。

14章4節

父母にはこれが主の御計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。

冒頭のみことばを単純に読むと、「神はペリシテからイスラエルを解放するために、サムソンをペリシテに遊びに行かせ、異邦人の女を好かせ、そのことを通して目的を達成しようとしている」と受け取る危険性があります。ここは、聖書全体から理解せねばなりません。

それは同じく、イスカリオテのユダにも通じます。「神の御心は、御子イエスが十字架にかかり、罪人の罪のために死んで救いを与えることであった。それを実現させるために、イスカリオテのユダを裏切り役として選んだ」と。これも同じ間違いを犯します。神の御心は、ペリシテから解放するために、マノア夫妻を選び、聖い生活を求め、サムソンにもナジル人(聖い者)となることを求めました。

聖書で示す「聖い人」とは、罪を犯さず神の力を持つ人でもなく、「神の力を受け取れる人」で、「神が自由に用いることのできる人」のことです。サムソンにもイスカリオテのユダにも、神は聖い者となってもらい、御自分の御心を遂げさせたかったのです。

友よ。「実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(Ⅰテサ4章3節)こそ確信です。聖い者は、神の御心を行うに喜びがあり、長く神の器となり続け、いつも共に神と歩むことができます。

14章5~6節

サムソンは…ティムナに…行った。…一頭の若い獅子がほえながら向かって来た。そのとき主の霊が激しく彼に降ったので…子山羊を裂くように獅子を裂いた。

この記事を幼子に話す時、「サムソンにライオンが襲いかかって来た。でもサムソンは神さまの力によってライオンをやっつけた。サムソンは怪力だね?」と。しかし、ここで大切なことは、獅子の出現の目的です。

獅子は、彼の武勇伝のためではなく、神の御心(酒飲を飲まない・死人に触れない)に反し、暴走するサムソンの足をとどめて引き返させるためだったのでは。しかし、「神が罪を止めようとするのであれば、なぜここで『主の霊』を激しく注いで獅子を裂き、彼がダメージを受けなかったか」と次の疑問がわきます。それに対しては、「それでも神は、守り、助け、御心を遂げようとされる愛の神だから」が答えです。 

それは、神が御自分の力を彼に知らせるためでも、ただ命を助けるためでもなく、彼の罪をもカバーし、彼を立て直そうとする神の愛の御業です。だから神は、御自分を「不思議」と紹介していました。パウロはそのことを、「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(ロマ2章4節)と。

友よ。罪を犯し続けるのを制止され、助けられたのは、悔い改めるための神の慈愛と寛容と忍耐だったのです。その神の愛という富を軽んじてはなりません。

14章14節

サムソンは言った。「食べる者から食べ物が出た。強いものから甘いものが出た。」

ある人曰く、「サムソンほど面白くて不可解な人はいない」と。信仰の親に育てられるが世を愛し、異邦の女へ通う途中に獅子を裂き、帰り道に獅子の中の蜂蜜を見て謎をかけて争いになり、ペリシテ人30人を撃ち殺します。この不可解な出来事の理解は、主人公をサムソンではなく神におくと手がかりをつかめます。

神の御心は、40年間のペリシテの支配に弱った信仰を立ち直らせ、民を救い出して礼拝する者へ戻すことです。その時に神が用いる人は、常識的な人よりも特異な人物であることが度々あります。

だから神はサムソンを常識外れの人格に造ったのではありません。彼の破天荒な行動は彼自身の肉が聖別されないところから出ています。しかし神は、人格が整い十分な訓練を受け、能力を身に着けた人しか用いないかというならばそうとも限りません。「…彼らは神の言葉を委ねられたのです。…彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方である…」(ロマ3章2~4節)。

友よ。あなたにサムソンは、「異質」それとも「同質」ですか。行動ではなく肉を見るならば同質では!神が主人公だから、神の誠実が人の不誠実を超えさせます。

14章17節

宴会が行われた七日間、彼女は夫に泣きすがった。彼女がしつこくせがんだので、七日目に彼は彼女に明かしてしまった。彼女は同族の者にそのなぞを明かした。

士師の「師」は霊的指導者であるはずですが、ことサムソンに関しては反面教師の「師」のようです。

神の子の中にはすでに聖霊が住んでおられます。しかし、聖書は「聖霊に満たされよ」と命じます。それは、聖霊が内住していても肉で生きてしまうからです。聖霊の満たしは、何よりも罪に打ち勝つために必要です。パウロは、主イエスと出会い救われますが、その後の肉との戦いに何年も費やしました。「私は自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする…。(それは)もはや私ではなく、私の中に住んでいる罪なのです」(7章7~25節参照)と。

ここで言う罪とは、原罪(神を信じない罪)ではなく、内住の聖霊を得ながら自分の肉で生きる罪のことです。たとえ聖霊という神であっても人の許可なくして自由に働けないのでこのような現実が起こります。「これが「聖霊の悲しませる」ことです。

友よ。そのパウロは「…イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した…。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを神はしてくださった」(ロマ8章2~3節)と言いました。サムソンも私たちも、最初に取り組まねばならないことは、肉ではなく霊に支配されることです。

14章19節

そのとき主の霊が激しく彼に降り、彼は…そこで三十人を打ち殺し、彼らの衣をはぎ取って、着替えの衣としてなぞを解いた者たちに与えた。

自分がかけた謎が解かれた時、彼はペリシテの別の地に行って三十人を殺し、上着をはぎ取って謎を解いた者たちに与えました。このようなサムソンの姿は、神の子たちの一人ひとりをも表します。

サムソンは不妊の両親の元に生を受けました。神の子たちも同じく、子(神の子)を産めない不妊の両親(罪人)の下に生まれました。99%が異教徒である日本で神の子とされたことは奇跡の出生です。そして、神の子たちは教会という神の家族の中で、ナジル人(聖い者)となるように育てられてきました。それは、「私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずその私に限りない忍耐をお示しになり、私がこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした」(Ⅰテモ1章16節)。

しかし現実は、濃い酒を飲み(ペリシテの町を好み)、死んだ者に触れ(異邦人の女と一体となり)などとサムソンと変わらない生活をし、神の願いとは違う道を進んでいます。にも係らず、神はその者をも用います。

友よ。罪の中にいるのに守られるのは、唯一「髪の毛を切らない」からでは! 肉に負けていても、イエスを主とするその信仰に注がれる神の憐れみです。「憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコ2章13節)。

14章6~19節 15章14節

その時、主の霊が激しく彼に降り…獅子を裂いた...その時、主の霊が激しく彼に降り…三十人を殺し...その時、主の霊が激しく彼に降り…縛っていた縄は

「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取る」(ガラ6章7節)の通りに、次々にサムソンに危機が迫りますが、そのつど主の霊が降り彼は救われます。

最初は、ペリシテの女へ通う途中で獅子に出会った時。次は、ペリシテの若者たちに麻の衣と着替えの衣三十着ずつ差し出さねばならなくなった時。さらに、味方の怒りを買い二本の縄で縛りあげられてペリシテに突き出されて殺されかけた時でした。

彼に主の霊が注がれたのは、主の働きをした時ではなく、罪を犯し命を失いかけた時でした。「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(Ⅱコリ4章7節)。

主の霊の注ぎは、人の罪を示し神の恵みの業をあらわにします。それは、人を遜らせより正しい信仰者に導くためです。兄弟たちに売られたヨセフが兄たちと再会した時、「あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え…民の命を救うために、今日のようにして…」(創50章20節)と言いました。

友よ。あなたも「その時、主の霊が…」があったからこそ、今も神の子とされているのです。遜って、「誇る者は主を誇れ」を実践したいものです。

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