キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第15章

15章14~15節

そのとき、主の霊が激しく彼に降り、…縄目は解けて彼の手から落ちた。…彼は…ろばのあご骨で、ひと山、ふた山、ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。

サムソンは主の霊を受けてロバのあご骨で千人を殺したとの記事から、主の霊を受けると大きな働きができ、そうでないと何もできないと考えてしまいます。

主が天に上げられる直前に、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム…ユダヤの全土…地の果てに至るまで、私の証人となる」(使1章8節)と弟子たちに語られました。ここからも、聖霊が降った時に受ける力を、奇跡や癒しや悪霊の追い出しなどとしがちです。

しかし、聖霊が臨んで受ける力とは、神の愛を受けた者が、自分を愛してくださった神を愛したいと願う力です。この力こそ、実際に行動を起こす力以上に必要な力です。愛する力なくて行動に進むと、サムソンが千人を撃ち殺したように、相手を踏みにじり、魂まで傷つける行動となります。そのために聖霊の助けが必要です。「『霊』も弱い私たちを助けて…私たちはどう祈るべきかを知りませんが、『霊』自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(ロマ8章26節)。

友よ。聖霊の願いは、大胆な力を与えること以上に、あなたが神をもっと愛し、自分自身を愛し、隣人を愛することです。愛がなければすべては空しいからです。

15章17~20節

彼は手に持っていたあご骨を投げ捨てた。…彼は非常に喉が渇いていたので、主に祈って言った。…彼は…二十年間、士師としてイスラエルを裁いた。

味方に縛り上げられ、敵に引き渡されるが縄を切り、ロバの顎骨で千人を殺したサムソンは、これで何度「主の霊」が降って助けられたことでしょうか。

ここでやっと彼の行動に変化が生じました。「骨を捨て・喉が渇いて・水を求めて祈った」の言葉です。彼は、これほど大きな憐れみにより、全てが神の御業であることを覚えて悔い改めへ導かれています。

骨を捨て
自分の力を捨てた。
喉が渇いて
神を求める霊の渇きが出て来た。
祈った
「あなたは…勝利を…僕の手に…お与えに…」と神へ栄光を帰してから「水」を求めた。

すると、「神は、レヒのくぼ地を裂き、水が湧き出るようにされた。彼はその水を飲んで元気を取り戻し、生き返った」と記します。さらに、「彼は二十年間、士師としてイスラエルを裁いた」の言葉も、悔い改めがなければ20年間も民を裁く(指導)ことも、決してそれまでの彼にはできなかったはずです。 

サムソンである友よ。彼が神の守りを受けて主の働きができたのは、「髪の毛」を切らなかったからです。それは、神の権威の下にいる…信仰…を捨てなかったからです。神は信仰に手がかりを持たれます。どんなに小さな信仰?でも、決して捨ててはなりません。

ページトップへ