キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第17章

17章1節

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。

士師記にはここまで十二人の士師たちが登場し、サムソンが最後の士師でした。この章から終章まで士師は出現せず、冒頭のみことばが四回繰り返されます。「王がいない」とは、民を導く神がいないことです。

民は、神の僕モーセによりエジプトから脱出しました。モーセが神の声を聞いて民を教え、彼の従者ヨシュアに導かれてカナンに到達しました。その後は、神が立てた士師たちにより、敵の攻撃からかろうじて守られ存続してきました。そして、その士師(王)たちもここから姿を消してしまいます。

この世界には王が必要です。真の王、とりわけ神の子たちの王は、「この者どもは小羊と戦うが、小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」(黙17章14節)とあるイエス・キリスト御自身です。そして王なる主イエスには、「小羊と共にいる者、召された者、選ばれた者、忠実な者たちもまた、勝利を収める」(同節)とある主の僕たちが必要です。モーセもヨシュアも士師たちもこのような者たちでした。

イエスを主とする友よ。王は主イエスであり、主は今も生きて働いておられます。それなのに「王がいない」とすれば、「王に導く者がいない」と受け取ることはできないでしょうか。日本でイエスを主とする者が少ないならば、「主に導く人が少ない」からでは!

17章2節

母に言った。「銀千百シェケルが奪われた…。その銀は私が持っています。実はわたしが奪ったのです。」母は言った。「私の息子に主の祝福がありますように。」

エフライム山地にミカという人がいた。ある時、大金が奪われたが犯人は息子であった。彼が正直に告白すると母は息子を祝福した。さらに、ミカは自分の神殿を持ち、息子を祭司としていた…これらの記事どれも的外れです。その原因こそ、「そのころイスラエルに王がいなかった」からです。

神はアダムとエバをエデンの園に置いた。園には中央があり、「命の木」と「善悪の木」が置かれた。命の木はイエス、善悪の木は戒めでした。人は神の姿(自由意志を持つ存在)として造られたので、「命の道=神と継がり交わる」と「死の道=神と断絶・孤独」を最初から教える必要がありました。

戒めは、初めは「養育係」でしたが、人が神から離れ罪人になった時から、「裁判官」になりました。そして、罪を指摘し、死に至ることを告げます。しかしそれは、命の木に再び繋ぐためでした。そこで、裁判官なる戒めを受け入れると、戒めは再び「養育係」となります。「こうして律法は、私たちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。私たちが信仰によって義とされるため」(ガラ3章24節)。

友よ。イエスという王は、善悪を知る木=戒めによってミカの家の無秩序から救い出してくださいます

17章7~10節

…一人の若者がいた。彼はレビ人で…旅を続けてエフライムの山地にあるミカの家まで来た。…ミカが「わたしの家に住んで、父となり、祭司となってください。

母の息子への溺愛?自分で神殿を造った?自分の息子を祭司に?そしてレビ族の青年が来たので息子に代えて祭司とした。「?」連続の記事が続きます。

主がサマリアの女と会い、飲み水から霊の命の水へ、礼拝へと会話が進みました。女が「礼拝すべき場所はエルサレムで…」と言うと、「神は霊であるから…霊と真理をもって礼拝せねば…。それは、あなたと話している私である」(ヨハ4章)と主が言いました。

ミカは、「そのころイスラエルの王(神)」がいなかったので神と出会う体験がなく、本当の礼拝が分かりません。そこで、自分で神殿を造り、自分の祭司を雇い、形式を整えて礼拝しようとしています。まことの礼拝は、建物や制度や祭具や人でもなく、神との人格(神格)と人格・霊と霊・命と命の継がりと交わりのことです。しかし、神との生きた交わりが無い時、神と交わる手段が礼拝の対象になります。

ミカのやっていることを、現代の教会は行っていないでしょうか。生きた主イエスへの信仰ではなく、教会堂信仰、教団信仰、教職信仰、教理信仰…と。

友よ。あなた自身がミカになっていないでしょうか。会員信仰、礼拝信仰、献金信仰、奉仕信仰など、生きた主との交わるための手段を信仰していませんか。

17章12~13節

…若者は祭司となり、ミカの家にとどまった。ミカは、「レビ人が私の祭司になったのだから、今や主が私を幸せにしてくださることが分かった」と言った。

自分の神殿に、自分の息子を祭司としたミカですが、そこに現れた青年がレビ族で仕事も持っていないことを知り、神殿の祭司として雇い礼拝を司らせます。

彼らの礼拝は、「神は霊であるから…霊と真理をもって礼拝しなければならない」」(ヨハ4章)とは大きく違います。「霊と真理」とは聖霊とみことばのことで、二つが現わすお方は主イエス御自身です。さらに教会は、シモン・ペテロが「あなたこそメシア、生ける神の子です」と告白した時、「この岩(ペテロ)の上に私の教会を建てる」と主が言いました。ただしこの「岩」は複数形で、石が集められた岩のことです。この岩こそ信仰告白で、信仰告白した人々が教会であると言われたのでした(マタ16章13~20節)。

礼拝は、イエスを主と告白し、聖霊とみことばによって神に継がり交わり、さらにキリストの体として兄弟姉妹が集うところです。ミカが造った教会は、キリストの教会ではなく、ミカの教会となってしまいました。

友よ。教会はつの間にか「ミカの教会・教団の教会・開拓者の教会…」となり、神は建前で人の教えと都合と願いが命となりかねません。教会の基本は以下の二つです。「①イエスを主」とし、兄弟姉妹が「②愛にあって真理を語り合う」ところが教会です。

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