キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第18章

18章1節

そのころ、イスラエルには王がいなかった。…ダンの部族は住み着くための嗣業の地を捜し求めていた。

ヨシュアの時代に、各部族はくじで嗣業の地を得ました。ダン族は、ユダ族の北西を得ましたが、南側は当時勢力を張るペリシテの地でした。そこでこの部族は、もっと平和な地を探して移ろうとしていました。しかし、同じ条件の嗣業を得たユダ族はペリシテと戦いました。そのためにペリシテは勢力を拡大できず、結果として他部族が守られていました。しかしダン族は戦わず逃げ出そうとしています。

ダン族を導いた神は、そこで生きる知恵と力を与えずに送り出すことはないはずです。その知恵と力は、武力でも人間的知恵でもなく、「王なる神御自身」です。

主は、「御名によって彼らを守って下さい」(ヨハ17章)と言い、さらに「御名を彼らに知らせました」と。「御名」とは、単なる名前というものではなく、その人の存在(立場・能力…)全てです。さらに、神がそこに置いたのは、その人にその場が必要だからです。そこで得る勝利とは、武力で敵を追い払うことでも、豊かな平和を得ることでもなく、キリストを得ることです。人生の戦いは、キリスト御自身を得る戦いです。

友よ。あなたは戦うユダ族ですか、逃げるダン族ですか。困難と闘っていますか、自分の生き易い所を探していますか。どうか、神に置かれたところで、御名によって戦い、キリストをさらに豊かに得てください。

18章2節

ダンの人々は土地を探り、調べるために、…勇士五人を…遣わして言った。「行って、土地を調べよ。」彼らは…ミカの家まで来て、そこで一夜を過ごした。

ダン族は新しい地を探すために勇士五人を送ります。彼らが一夜を求めた所がちょうどミカの家でした。神の場所から逃げる者は、ダン族がミカの家に辿り着いたように、自分に都合の良い所を見つけるものです。肉は肉の人を呼び、霊は霊の人を探します。

アダムとエバが園の中央(霊の世界)から追い出された時、そこに帰るべく用意された道(皮の着物=動物犠牲=神の小羊の贖い)を選ばす、園の木の間に身を隠しました(隠す…守られる・神とする)。それにより、「永遠を思う心(思い)」なる信仰を自己満足させ、一時的罪からの解放を作り出します。

肉の欲求の最終の終着点は、自分を神とすることです。その前段階として、ミカのように「自分の肉を満たす神」を作り出そうとするものです。

霊の激しい戦いをした人にルターがいました。真面目に修道生活を送る中で、「神は義である」の言葉に怯え、自分を責め続けます。ある時、修道院長に「自分ばかり見つめず、キリストという方を見つめなさい」と助言され、「信仰のみ」の勝利を得たと言われます。

友よ。自分の願いを満たす人でなく、自分を神の前に押し出す人を探してください。肉を満足させるのでなく、肉を切るメッセージを探してください。

18章5~6節

「彼らは言った。「我々の進めている旅がうまくいくかどうか…神に問うていただきたい。」…「安心して行かれるがよい。主は…見守っておられる」と答えた。

新しい嗣業の地を探しに行くダン族の人々は、ミカの家で雇われ祭司を見かけ、自分たちの先行きについて神に尋ねさせました。彼は、神の嗣業を放棄する者を、主の御心であるかのように祝福しました。それは「…皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く。彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレ6章13~14節)とエレミヤが指摘する偽預言でした。

もし、この祭司が、後にエレミヤに出会ったならば、「(祭司よ)よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ」(同28章15節)と言ったことでしょう。

神の人とは、「…罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」(ヨハ16章8節)します。厳しく罪と裁きについて語るのは、神以外に逃げ道がないことを示す本当の愛の人です。

友よ。あなたが求めている預言者(みことばを語る人)は、「あなたのなすこと全て祝福されます」という人ですか。それとも「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼と民に仕えよ」(エレ27章12節)と言うお方ですか。真理は、十字架を経ての復活であって、十字架なしの復活に惑わされないでください。

18章24節

ミカは、「あなたたちは私の造った神々と祭司を、奪って逃げた。私にはもう何もない。…」と言った。

ダン族の偵察隊は、最適な土地を見つけて地元へ帰り報告した。そして六百の兵と共に上る途中に再びミカの神殿に寄り、エフォドやさらに祭司までも奪って行きます。その時、ミカが「私の造った神々と祭司」と口から出た言葉こそ、真理?でした。「そのころイスラエルに王がなく」と何度も繰り返される言葉が告げるメッセージこそ、「王を持て」に他なりません。ミカの行い、ダン族の行動すべては王がいないことからくる陳腐さと言えます。

人生の幸福論についての目の錯覚があります。それは、賜物の「量」と「質」をイコールにすることや、「不自由」と「不幸」を一緒にすることも同じです。

多くの讃美歌を作詞したファニークロスビーは、幼少の頃目医者のミスで失明しました。後に彼女は、「私は失明してよかった。神と出会い、神を見、神の働きができた」と言ったそうです。 神の子という命、イエスを王とする「命の質」は、障害・病気・性別・病・貧富・人種・家庭など、ありとあらゆる「量・出来事」を超えさせます。

友よ。あなたは量の多い少ないで幸不幸を測っていませんか。人の幸福は量でなく質で作られます。「いかなる場合(量)でも対処する秘訣を授かっています。私を強めて下さる方(質)のお陰で」(フィリ4章)。

18章27節

彼らはミカが造った者と彼のものであった祭司を奪って、ライシェに向かい、その静かで穏やかな民を襲い、剣にかけて殺し、街に火を放って焼いた。

ダン族は、ガリラヤ湖の北三十㌔ほどに住む民を襲って占領して住むようになりました。彼らはそこで神と偶像の中庸礼拝?を続けることになります。

まことの王を持つことは、人には一番難しいことです。なぜなら、自分が王でなければならないから。

ヘロデ…王の位にしがみついた人
ローマに媚びてユダヤの王に。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は…」との博士たちの言葉は受け取れない…二歳以下の男の子たちを殺した。
マリア…王の位を捨てた人
「みごもって男の子を産む」を受け入れることは、ヨセフに捨てられ、姦淫罪に。しかし、「お言葉どおりこの身になりますように」と、自分が王であることを捨てた。

ヘロデは王を守り、マリアは王を捨てましたが中間もあります。それは、イエスを神と認め「助言者・教師・顧問・弁護士」の立場に置くことです。困った時に助言を求め、迷った時だけ「助言」してもらい、わからない時だけ「教え」てもらい、自分の立場を通す時だけ「顧問」を願い、天国へ入りたい時だけ神に「弁護」していただく??

友よ。イエスを「助言者・教師・顧問・弁護士」にする中庸信仰を捨て、イエスを王としてください。

18章30~31節

ダンの人々は、自分たちが拝むために例の彫像を立てることにした。…こうして、神殿がシロにあった間、ずっと彼らはミカの造った彫像を保っていた。

自分の土地を得、途中で得た神殿の彫像と仕えていた祭司までも奪ったダン族は満足そうです。しかし、偽物(偶像)を掴まされたとはまだ考えていません。

人はなぜ偽りの神(偶像)を造るのでしょうか。それは、命の神から離れた人は、自分で自分を救わねばならないからです。ゆえに、まことの神を神としない人間は、生きている限り偶像を造り続けます。自分で自分の命を作ることが偶像礼拝です。

しかし、だれも自分で命を作れませんし、他者からも、それが血の繋がる家族からも得られません。人の命は、神からのみ与えられます。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」という「息」は、物理的な空気ではなく「交わり」のことです。人格と人格の交わり、これが人の命で、命は愛(交わり)そのものです。従って、命はだれと交わるかにより質が違ってきます。人と人の交わりは人の命を作りますが、人は罪の中にいますから自己中心の命しか生まれません。

友よ。人生で一番重要なことは、「わたしが道であり、真理であり、命である」と言われる主イエス・キリスト御自身と継がり交わることです。それが礼拝です。毎週、毎日、毎時間、礼拝の中で生きてください

ページトップへ