キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第19章

19章1節

イスラエルに王がいなかったそのころ、エフライムの山地の奥に一人のレビ人が滞在していた。彼はユダのベツレヘムから一人の女を側女として迎え入れた。

士師記は17章より、イスラエルに王がいない時のことが記されます。先に登場したミカもダン族も、そしてここに登場するレビ人もベニヤミン族も、全てが常軌を逸しています。まさに、王がいないからです。この19章からは…レビ人が得た側女が実家に逃げ、迎えに行った帰りに宿泊した家で、土地の男たちに襲われ…と21章まで続く記事も愚かさの連続です。

コヘレトが、「死んだ蠅(ハエ)は香料作りの香油を腐らせ、臭くする」(コヘ10章1節)と記します。人は神の香りを放つ香油となる存在でしたが、一匹の死んだハエが入り臭いにおいを放つ者となります。この死んだハエこそ罪です。「人から出てくるもの…つまり人間の心から悪い思いが出て…盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意…これらの悪はみな中から出て…人を汚すのである」(マコ7章21~23節)。

死んだハエ(罪)に汚れた心は、神に仕える者であっても側女を得、襲われた時は自分を守り側女を差し出します。まさに姦淫、貪欲、悪意の悪臭を放ち、係る者たちの悪臭と合わされ更に強烈な悪臭となります。

友よ。人間の問題の解決は一つです。それは、あれこれの改善でなく、腐ったハエを取り出し捨てることです。それは、主の十字架だけができます。

19章1~2節

イスラエルに王がいなかったそのころ。…レビ人が…側女を迎えた。…しかし、その側女は主人を裏切り、そのもとを去ってユダのベツレヘムの父の家に帰り…。

何度も繰り返される、「王がいる・王がいない」という聖書の世界とはどのようなところでしょうか。もちろん、「王」とは神であり、神の支配を表します。

聖書では、「右」と「左」に特別な意味を与えています。右を「神の世界(王がいる)」、左を「人の世界(王がいない」)と定義しています。「主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す」(詩118:16)。

復活の主に出会ったペテロでしたが、「私は漁に行く」と出て行き一晩中漁をするがなにもとれませんでした。夜明け頃、イエスが岸に立っておられ、彼らに、「舟の右側に網を降ろしなさい」と声をかけます。彼らが網を打ってみると、百五十三匹もの魚がとれました(ヨハ21章1~11節参照)。

すると、それまでの彼らは左側で漁をしていたことになります。しかし、小さな舟ですから左と右は2mも違いません。これは、物理的距離のことではなく、人の側(左)と神の側(右)の違いを教えます。 主は、帰って来た弟子たちに、「パンを取って弟子たちに与え」と聖餐の恵みに与からせました。

友よ。あなたが何者であるか以上に、あなたが「右」と「左」のどちらに身を置いているかがより重要です。神が働かれる右側・王と共にいてください。

19章1~4節

イスラエルに王がいなかったそのころ。…そのしゅうと、娘の父が引き止めるので、彼は三日間そこにとどまり、食べて飲み、夜を過ごした。

側女に逃げられたレビ人が、女の実家に迎えに行き歓待されている様子が記されています。しかしそれは喜べません。左側(王がいない)のことだからです。

アブラムが飢饉からエジプトに下り、妻サライを妹と偽ったにも関わらず、神の憐れみによって多くの財をいただいて帰されました。多過ぎる財産が甥ロトとの間に争いを起こし、分かれることになりました。アブラムは、「あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう」と提案します。ロトは目を上げて…ヨルダン川流域の低地一帯、ソドムとゴモラの町を選びました。

ロトと別れたアブラムは、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」との神の言葉を受け取り、神に目を上げ、神を選びました(創13章参照)。ロトは自分の判断で肉の目を上げてこの世なる左側を選び、アブラムは霊の目を上げて神が支配する右側を選び、ロトは滅びをアブラムは永遠を得ました。

友よ。あなたの日常の平安は、右側にいる神の平安ですか。それとも、ソドムとゴモラからの気なぐさめですか。苦しくても右側の平安を選んでください。

19章1~14節

イスラエルに王がいなかったそのころ。…彼らは旅を続け、ベニヤミン領のギブアの近くで日は没した。

レビ人が側女を連れ帰る途中、日が暮れ宿泊する所を探しています。なかなか宿を提供してくれる者がいません。やっと親切な老人が彼らを家に迎えてくれましたが、そこも左側(王がいない)でした。

主は再臨される時のことを語られました。その時、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」と言われました。そして、羊の者たちには神が用意した祝福が与えられ、山羊の者は永遠の滅びの火へ追いやられます。羊と山羊に分けられたのは、「小さい者」にした行為に依りました。小さい者とは、自分から奪っても与えてくれない嫌な者のことです。しかし、嫌な者へ与えていたのはどうしてでしょうか。

マザーテレサが与えるためには三つの条件があると言いました。「①持っていること ②自分のために得たものでないこと ③与えても無くならないこと」と。そして、「私が持つものは、神により与えられ、与えたらもっと与えられる」と言いました。

羊の者は、右側(神の命で生きる)で歩み、山羊の者は左側(自分の命で生きる)で歩んできたのでした。

友よ。羊は羊飼いに依存して生き、山羊は自分の角で戦って生きる者を表します。羊は羊飼いから恵みを得ていたので小さい者に与えることができました。

19章1~22節

イスラエルに王がいなかったそのころ。…町のならず者が家を囲み、戸をたたいて…老人にこう言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」

舟の右側と左側…ロトは左(世)、アブラムは右(神)…羊は右、山羊は左へ…と分けられました。実は、神を信じるクリスチャンにも右と左があります。

神の子は、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされ」た者ですが、生き生きした神の子とは限りません。命の質は、原罪から救われた人のその後の歩み方によります。神の子の生活には、「義(聖別)・真理(戒め)・愛(命の交わり)」の大切な要素がありますが、順番を間違うと律法的神の子となります。それは、義(原罪から義)とされたから、私も聖い者に、と自分の行いに走ることです。その人の歩みは、義→真理→愛へと進もうとします。これは、左側の信仰生活を作ります。 

モーセの十戒の前に、「愛(私は主・神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神)」があります。その愛に留まり続けるために「戒め(真理)」を守りなさい。すると「義(肉と世からの聖別)」とされて神と生き生きとした愛の交わりを持てます。

友よ。神の愛に留まるために、肉で歩む歩みが戒め(真理)られねばなりません。その戒めに導かれて自分の十字架を負う(服従)と、義(聖別)とされます。いつも神との豊かな交わりの右側を歩んでください。

19章22節

彼らがくつろいでいると、町のならず者が家を囲み、戸をたたいて、家の主人である老人にこう言った。「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい。」

士師記は、人の愚かさをさらに書き続けます。宿を得たと思いきや、好色にまみれた男たちに襲われます。それに対し、女を差し出して自分を守り、その女も死んで、それを機に部族間の争いへと進みます。後に士師記の作者は、「このことを心に留め、考えて語れ」と加えます。それは、王なる神を無視した世で人が起こす出来事の正しい意味を知れとの忠告です。

パウロはこの現実を、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現わされる」(ロマ1章18節)と言いました。

しかし、人を愛する神が罪人を地獄へやろうとするのではありません。神の怒りは人を救うために現わされます。それはまた、人が気づいて自分の意志で神に帰りたいと願わねば、神であっても何もできません。 まず神は、人の罪を現わにします。そのためには、「彼らが心の欲望のままに…するにまかせられ(同24・26節)…無価値な思いに渡され(28節)」ます。

友よ。神が人の罪を現わすのは、「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です」(ヘブ12章24節)の言葉が教えます。アベルの血は兄の罪を告発しますが、イエスの血は告発された罪を贖うアベルの血よりも強力な救いの血です。

19章30節

「イスラエルの人々がエジプトの地から上って来た日から…このようなことは決して起こらず、目にしたこともなかった。このことを心に留め、よく考えて語れ。」

神に仕えるべき男が側女を得た…側女が実家に逃げた…迎えに行った帰り道暴漢に襲われた…男は側女を差し出した…彼女はなぶり者にされ息絶え絶えに帰された…男は女を家まで運び刃物で女の体を十二に切り離し、イスラエルの各部族へ送った…。

これを、「このようなことは今までなかった」と記しますが、人間社会はこのことの繰り返しでした。元をただせば一人の男の罪に起因するのに、彼は悔い改めず、ギブアの強姦者たちに責任転嫁します。

王(神)を持たない人は、自分で自分の命を作らねばなりません。それには自分が王となることです。 冒頭のみことばから、他者の罪を責めるか、自分の姿を見つめるか、の二つの解釈が出てきます。「…エジプトから…上って来た日からこのようなことが決して起こらず…」は、他者の罪を責める人の言葉です。 しかし、自分も含めて神を王としないなら、このような愚行へ走ると理解する人は、「このことを心に留め、よく考えて語れ」をより強く受け取ります。

友よ。自分が王になると、裁判官と責任転嫁する者となります。しかし、真の神を王とするならば、他者が起こした罪の中に、自分の中にも同じ罪があることを認め、へりくだって悔い改める者にされます。

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