キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第2章

2章1節

主の御使いが…「わたしはあなたたちをエジプトから導き上り、あなたたちの先祖に与えると誓った土地に入らせ、こう告げた。わたしはあなたたちと交わしたわたしの契約を、決して破棄しない」

人生には3つの「人生論」があります。そして、それは「三つの時計」として表すこともできます。

「ギリシャ的人生論」
地中海気候は乾燥し住み易い所ですが、雨が少なく収穫は少ない。そこで生きるには、人よりも自分を磨き強くして生きる。
「自分時計」を持つ
自分の計画、能力、自己中心という時計を持って生きる人の姿
「東洋的人生論」
雨が多く多湿の地域は自然界が食物を備えてくれる。自然に逆らわず、むしろ自分の力を超えた自然を命(神)として生きる。
「世間時計」を持つ
自分よりも世間に合わせる。究極は自我を捨てて自然に同化して生きる。
「へブル的人生論」
「初めに神が」が全ての根源であり、自然界でも人でもない。神に対してどう立ち向かうかが人の生と死を左右する。
「神の時計」を持つ
この時計は物理的時間を刻むのではなく、「人生の意味と意義」を刻む。

友よ。神は、「わたしがあなた方に計画し、導き、約束したことは必ず実行する」と宣言されました。自分時計と世間時計を優先してはなりません。神の時計に自分時計と世間時計を合わせてください。

2章2節

あなたたちもこの地の住民と契約を結んではならない、住民の祭壇は取り壊さなければならない、と。

「この地の住民と契約を結んではならない」との神のみことばは、聖書の中のありとあらゆる箇所に出てきます(創世記だけでも25回)。そもそも聖書が、「旧約聖書・新約聖書」と呼ばれている、旧・新の「約」は、契約の「約」です。聖書は神と人の契約の書です。

全知全能の神が、人と契約を結ばねばならないのは、人に「自由意志(人格)」を与えたからです。自由意志を持つ二人が、一つのことをする場合、そこに必要なことは「契約」です。従って、男女の結婚も「契約」です。大勢の中から、「私(男性)はあなたを」「わたし(女性)もあなたを」をいう契約です。

人格と人格の「継がり・交り」の中に「命」が派生します。ただし、人の命はアダムから引き継いだ自己中心ですから、人同士の継がりと交わりで作られる命は、自己中心同士の継がりと交わりなので本当の命とはなりません。完全な人の命は、「真の神」との継がりと交わりによってのみ持つことができます。

神に召し出された友よ。神があなたと結ばれた契約は、主イエスの十字架の「血=命」(レビ17章11節参照)によるものでした。その契約をどこまでも大切にしてください。神を愛することは、神以外のものを愛さないことです。それは、「他の……と契約を結ばない」ことから始まります。

2章2~3節

「しかしあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。わたしは彼らを追い払って、あなたたちの前から去らせることはしない。彼らはあなたたちの罠となろう。」

ヨシュアから離れて生きねばならない民に対する神の忠告が記されます。そこで、上のみことばから、「神は、不従順な者たちには罰を与える」と単純に受け取ってはなりません。神の罰とは、「神が人に手出しできなくなること」と理解するとよくわかります。

それをパウロは、「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするに任せられた」(ロマ1章24・26節)と言いました。不潔なことを神がさせているのではなく、人が不潔なことをすることを神は止めることができない、との意です。

なぜなら、神は人を、「我々に似せて(自由意志を持つ独立した存在)」造られたからです。ですから、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる「(ロマ10章10節)となります。「心」は、「知性・感情・意志」の三つの統合で、その人自身です。

一人の人の決断を、神といえども曲げることはできません。神は愛なるお方で、愛は自由意志による決断を受け入れねばならないからです。それはまた、人が神を信頼して自分を委ねるならば、神はその人に御自分の御心を自由に実行することができることになります。

友よ。あなたを誰に委ねるかは、自分がどんな人間であるか以上に大切であることを覚えてください。

2章5節

主の御使いが…これらのことを告げると、民は声をあげて泣いた。こうしてこの場所の名をボキム(泣く者)と呼び、彼らはここで主にいけにえをささげた。

神が民に、「あなたたちが不従順なので、敵を退けない。だから彼らはあなた方の罠となる」と告げると、民は泣き、そこでいけにえを主にささげました。

動物は肉体的苦痛から泣くことでしょうが、人は様々なことで泣きます。固い友情で結ばれたダビデがヨナタンと別れる時、彼らは…泣いた。ダビデはいっそう激しく泣いた(サム上20章)と記されます。

ハンナも泣いて主の前に立ち続けました。夫と自分の間に子がなく、後妻ペニナには次々と子が与えられます。ハンナは嫁に入って何年も苦しみ続けますが、それが彼女を神の前に出させ続けました。

ハンナの悲しみの原因は、「主はハンナの胎を閉ざし」(同1章5節)たからでしたが、神が与える悲しみには目的があります。その悲しみが神とハンナを一体化し、やがてハンナは、「神も子(イスラエルを救う者)がなくて悲しんでいる」とわかりました。それからハンナは「男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげします」(同11節)と祈りました。

愛する友よ。人には肉体的な痛みからの涙、ダビデとヨナタンのような心の痛みからの涙、そしてハンナの神の御心によって流す霊の涙もあります。みことばに真剣に向かう者は、霊の涙を流し続けます。

2章6節

ヨシュアが民を送り出したので、イスラエルの人々は土地を獲得するため、それぞれ自分の嗣業の地に向かった。

士師記は、ヨシュアのリーダーシップに導かれてカナン入りし、各部族にくじで割り当てられた「嗣業の地を獲る」ことがテーマでした。そしてここから、部族ごとに嗣業の地を獲得するための戦いが始まることになります。

主イエスが人として来臨し、三年半にわたり弟子たちに言葉と力と生活を通し、神の国を教えられました。そして、神の国を実現するための罪との戦いを十字架上で終え、復活し、昇天し、神の右の座に着かれ、そこから助け主の聖霊を送ってくださいました。 

これは、ヨシュア(イエス)に導かれてカナンに入ってエリコで勝利し、そこから部族ごとに嗣業の地を獲ることの予型です。ペンテコステの後、弟子たちがそれぞれの場に派遣され伝道し、そこを神の国にしていくことを教えています。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼を授け…。すべてを守るように教えなさい」(マタ28章18~)。

友よ。あなたにも嗣業の地があり、そこに遣わされています。何よりも家族であり、周りに居る人々です。しかし自分の力で獲るのではありません。罪を滅ぼし死に打ち勝ったイエスの御業と聖霊の助けによってです。

2章7節

ヨシュアの在世中はもとより、ヨシュアの死後も生き永らえて、主がイスラエルに行われた大いなる御業をことごとく見た長老たちの存命中、民は主に仕えた。

イスラエルの民は、ヨシュアと共に歩んだ長老たちの存命中は主に仕えたが、彼らが居なくなると主に仕えることが難しくなりました。

ヤコブの時代に飢饉でエジプトに移住した神の民は、ヨセフの功績により優遇されますが、王が代わるに及んで奴隷の民とされました。そこにモーセが遣わされた時、ヨシュアは40才でした。

モーセとの出会いが彼の人生を変えました。紅海を渡って間もなくカナン偵察に遣わされた時、彼とカレブは、神によって敵を見て報告しました。モーセはヨシュアを自分の従者とし、シナイ山で十戒を授かる時も、彼だけを山の中腹まで伴うほど信頼しました。

民もヨシュアも共にエジプトからモーセに導かれ荒れ野で生活しましたが、両者の決定的な違いは、民の目が「モーセを通して神」を見ていたことにあります。ですから、モーセの下山が遅れると、モーセに代わる金の子牛を造り出す始末でした。しかし、ヨシュアは「モーセを超えて」神を見ることができました。

主の民となった友よ。あなたの目もモーセやヨシュアに(牧師・教会・教団・教理…)留まっていませんか。それらは必要ですが、それらを超えて、神に目を釘付けにしてください。

2章10節

その世代が皆絶えて先祖のもとに集められると、その後に、主を知らず、主がイスラエルに行われた御業も知らない別の世代が興った。

ヨシュアとその時代の長老たちが召天した後の世代は、主を知らず、主の御業も知らなかったと記されます。それは“前の世代が信仰の継承に失敗した”と、言うことになります。

親としての最大の仕事は、子に神を教え、「神と共に生きる人生」を歩むように模範を示すことです。そのために、ある人が次のように記しました。

  • 自分の模範によって
  • 言葉によって
  • 祈りによって 
  • 共に時間を過ごすことによって
  • しつけることによって
  • 訓練することによって
  • 慰め、励ますことによって
(子育ての四角形より)

旧約聖書は、出エジプト記以降、律法・幕屋・大祭司・種々の儀式などについて、微に入り細に入り読む者に嫌気を与えるほど繰り返し記します。 

それら全ては、神がどのようなお方で何をするか(御業)、神と人の継がりと交わりについて見える形で教えました。「繰り返しと微に入り細に入り」があったからこそ、新約までの1300年も伝え続けられました。

友よ。子孫に残すもので信仰以上のものはありません。前記した7つのことに心を留め、自分自身こそ、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださる」(ヤコ4章8節)という基本に立ちましょう。

2章11~14節

イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、…彼らは主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えたので、…周りの敵の手に売り渡された。

イスラエル民族ほど子孫に厳しい宗教教育を課した民はありません。しかし、それにもかかわらず、世そのものであるバアル(主・主人・地主)やアシュトレト(豊穣多産の女神)に心を奪われるのはなぜでしょうか。それは、

  • 人は神に永遠を思う思いを与えられたので、自分の力を超える神の存在を求める(コヘ3章11節)
  • しかし、自分が主人となり、自分の願いを満たす神を求める(ロマ1章18~23節参照)
  • 本物の神との出会いを知らないと、知識(律法)よりも現実(衣食住や快楽)をより強く求め、バアル(この世の主)や豊穣多産の神と称されるものの方が神のように見え、崇めたくなる

そのような者に神を求めさせるには、偶像礼拝の空しさを知らせるために「周りの敵の手に売り渡す」ことでした。しかし、神自ら敵を招くのではありません。偶像礼拝する者に神が手出しできなくなり、その結果、民は敵に踏みつけられるのです。それをパウロは、「神は、彼らの心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ…」(ロマ1章24・26節)と表現しました。

友よ。「心の清い者」とは、神に近づく者ではなく、神に近づいていただき、神に戦っていただける者です。

2章16~18節

主は士師たちを立てて、彼らを略奪者の手から救い出された。…主は…士師と共にいて、敵の手から救ってくださったが、

士師記の最初から3章6節までは、士師記全体をまとめたメッセージです。カナン定住と嗣業の地の割り当て、部族ごと戦って獲る約200年の歴史です。

彼らは、時に勝利しますが、多くの期間は敗北の中にいました。勝利と敗北のカギは、「士師」が存在したか否かでした。これから登場する、オトニエルやギデオンやサムソンなどがいた時は敵に勝利し、彼らがいなくなると敗北の生活へ戻って行きました。

昨日も今日も変わりなくイスラエルを愛する全知全能の神がおられるのに、神の愛するイスラエルが敗北の連続を経験するのはなぜでしょうか。それは、神は御自分に献げた人を用いて働くことができるからです。愛なる神は、御自分のかたち(人格を持つ存在)に人を造られましたから、人の同意なく、自分勝手に人を動かすことができないからです。

イザヤはこのことを、「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が…隔てる(59章)」と言いました。

友よ。主に向かって真剣に叫び、自分を献げていますか。叫ぶ声に、献げる者に、神は必ず応えられます。「あなた」と言う「士師」がいないので主は働けないのです。神はあなたを求めています。

2章19節

その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、

イスラエルの歴史は、やがて士師記からサムエル記に移ります。その頃の神の民はペリシテの隆盛により滅亡寸前でした。そこから回復に導いたのは、サムエルという主の器でした。さらにそれは、サムエルを産み育てた一人の女性・ハンナの信仰から、とも言えます。

エルカナの妻ハンナには子がなく、やがて夫は別の女ペニナを家に迎え、次々と子が生まれてきます。聖書は、ハンナに子が与えられない理由を「主はハンナの胎を閉ざしておられた」と記します。

悲しみのハンナは神殿に行き、何年も主に祈ります。祈り続けるハンナに、神は御自分の心を示されます。「ハンナよ。あなたは子がなくて苦しんでいるが、私も子がなくて苦しんでいる(著者推測)」と。

神も民を救うにも、働き人がいないのです。神の御心を知ったハンナは、「男の子を与えて下さい。あなたに捧げます」と祈り、やがて男の子を生み、「サムエル(その名は神)と名付け、乳離れ(6~7歳)するまで自分の手で育て、その後エリに仕えさせました。

友よ。彼が神殿で仕えていた時、「サムエルよ…」との神の声を聞き、「しもべ聞きます」と応えたのは、母ハンナの信仰により育まれていたからでした。神は男の子(主の器となる人)を求めています。そのためのハンナとサムエルこそ、あなたです。

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