キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第20章

20章1節

イスラエルの人々は皆出て来て、ダンからベエル・シェバ、またギレアドの地まで、一団となって一人の人のようになり、ミツパで主の前に集まった。

レビ人が、暴徒に犯された側室を十二に切り裂き、各部族へ送りつけてベニヤミンのギブアの罪を告発した時、民は一人の人のように団結して集いました。王がなく一致できなかった各部族が、ここで一気に一つになりました。この後の記事にも、「一人の人のように」が二度も繰り返されます(8・11節)。この一致の出どころは、「罪を告発して罰を下す」ためでした。

皆が一致することは難しいが、集団でも一つの国でも、誰かを悪人に仕立てる時は一致するものです。 それは、自分を義としたい者が、しかも他者や多数によって保障されて義とできるからです。「この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである」(ルカ23章12節)。

歴史において、独裁者の横暴から守る多数を優先する民主主義、それを代表する三権分立は人類の知恵でした。しかし、一人の人を王とするも、多数を王とすることも正しいとは言えません。 

友よ。この世界は、「初めに神は…」から始められました。この方に従う時、罪を告発し裁くためではなく、罪を許し復活させる愛による一致が与えられます。事を計画し始められる神こそ王の王、主の主です。この愛の神によって愛による一致を求めてください。

20章4~5節

女の夫…はこう答えた。「… ギブアの首長たちが私に向かって来て、夜、私の泊まった家を取り囲み、私を殺そうとし、側女を辱めて死に至らせたのです。」

レビ人なのに側女を持ち、暴徒に自分の代わりに女を差し出し、女の体を切り刻んだ罪は隠し、他者の悪を大げさに取り上げる姿に罪人の本質を見ます。

レビ人は、「ギブアの首長たちが私に向かって来て、夜、私の泊まった家を取り囲み、私を殺そうとし、側女を辱めて死に至らせた」(5節)と皆に伝えました。

彼の告白から、他者の罪を大きくすることで自分の罪を小さくする罪人の心理が読めます。加害者は自分の罪をなるだけ小さくして隠し、一方の被害者は自分が受けた罪をより大きくして自分を守ろうとします。彼は、側女を差し出した罪は隠し(加害者)、(被害者となったので)ギブアのならず者たちの行為を、「ギブアの首長たち」と事実を曲げて受けた罪の大きさを主張します。ギブアのならず者が、ギブアの首長たちに曲がられたことで、この後、イスラエル全体を巻き込む戦いへと進みました。

罪を隠すと、隠された罪はその人の中で成長し、さらに大きな罪を生み出します。そのことを聖書は、「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴28章13節)と警告します。 

友よ。罪から燃え上がる小さな火を消すのも、大きな火を消すのも、それは主の血潮だけです。

20章8~9節

すべての民は一人の人のように立ち上がり、こう言った。「我々はだれも自分の天幕に帰らず、だれも家に戻らない。…まずくじを引いて攻め上ろう。」

12に切り裂いた女の体を送りつけ、それを証拠に自分が受けた罪を誇張した男の意見に人々は興奮し、感情のままに「ギブア討伐」の決意を固めています。

自己中心な人間は、自分に利益となる「利」を共有し、自分を損なう「害」は共有できません。ここで民が一致するのは、自分に「利」があるためです。その「利」とは、誰でも自分を正しいと信じたいものです。そこに表れたギブアの罪を見た時、その罪を罰することで自分が義人であると証明できるからです。人が他者の罪を責めるのも、自己義認のためです。またその「害」とは、「一人の人のように」皆と同じに立ち上がらねば、皆の中で存在を失うし、正しくない者であることを示すことになるからです。

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハ8章32節)という真理とは、神の基準のことです。逆に、人の「利」と「害」を真理(基準)とするならば、人を不自由にします。

友よ。事実、この後の彼らの行動の結果、両者とも大きな傷を得ただけでした。「私が・皆が」は真理ではなく、「わたしは『道・真理・命』」という主イエスだけが真理です。また、真理とは、イエスの教えを超え、イエスという御人格に結び付いていることです。

20章11節

こうしてイスラエルの者が皆、一人の人のように連帯を固めてその町に向かって集まった。

悪人と決めつけたベニヤミン族に立ち向かうイスラエル連合軍の団結力は、「一人の人のよう」でした。集団を「一人のよう」にするのは、人々の罪の共有だけではなく、神によっても作られてきました。

民がバビロン捕囚となったのは、神への罪を悔い改めないからでした。しかし、「バビロンに七十年の時が満ちたなら(悔い改めたなら)、私はあなたたちを顧みる。私は恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレ29章10節)と主は言われました。

バビロンの七十年は、罪を悔い改め、十字架で赦され、復活の命に生きるためでした。その時が来た時、「第七の月になって、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」(エズ3章1節)。さらにネヘミヤ記では、「彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた」(ネヘ8章1節)と記しました。

友よ。これらは人の罪による一致ではなく、神による聖なる一致です。それは、主の十字架と復活による私とあなたと皆の一つです。それには、主の教えを聞き、受け取り、それを頑張って生きる一致を超えて、キリストという御人格を共有するゆえに生まれる一致です。それが、一人の人=キリストの体なる教会です。

20章28節

兄弟ベニヤミンとの戦いに…出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか。」主は言われた。「攻め上れ。明日、私は彼らをあなたの手に渡す。」

イスラエルとベニヤミンとの戦いが始まります。ベニヤミンは兵士25,000人とえり抜きの兵士700。イスラエルからは40万の兵士が戦いに加わりました。

士師記の17章から、「そのころイスラエルに王がなく」がテーマになり、さらに終章までに主の言葉はこの個所と「主は、「『ユダが最初だ』と言われた」(18節)の二個所だけに記されます。

しかし、愛の神はどうして戦えと言うのでしょうか。もちろん「殺すな」と自ら言われるお方が許す訳がありません。神は、「…私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する」(イザ46章10節)お方です。神はすべての人を救う第一の計画をお持ちでした。

しかし、人に与えた自由意志を無視して御自分の計画は実行できません。そこで、人が神の御心に反する時、神は第二の計画を許されますが、それは第一の計画…「皆が救われる」…に戻すための計画です。

友よ。この場面でも、神自ら戦えと命じたのではありませんが、人の決断を無視することもできません。そこで神は、「心の欲望…をするに任せられ」(ロマ1章24節)、民の行いを見守り、結ぶ実を刈り取らせ、そこから悔い改める時を待っています。「 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。

20章46~48節

この日、ベニヤミンの全戦死者は剣を携える者二万五千人で、彼らは皆、軍人であった。…残らず彼らを剣で撃ち、どの町にも見つけしだい火を放った。

神の民は、モーセに導かれてエジプトを出て荒れ野へ、ヨシュアを先頭にヨルダン川を渡り、神の国カナンの地に入りました。それから200年が経ちました。ここに至り、神に贖われた神の子同士が何万人もの死者を出す戦いを繰り広げる悲しい記事に出会います。

それは、三千年前の歴史のみか、近代でもキリスト教国も含めての戦いで何千万人の人々の命が失われました。「王がいない」とは、神不在ではなく、民の方が「王から離れてしまった」結果でした。紅海を渡ってエジプトを離れ、シナイ山で十戒を授けられ、ヨルダン川を渡ってカナンの地を得たことは、神から離れていた民が神に近づいた記録でした。

旧約は神が人となって来る日へ向かい、新約に入ってからは御子イエスの十字架と復活へ戻る歴史となります。それは、時間的に二千年戻ることではなく、「イエスを主」とする日々の歩みです。 

友よ。神は、ヨルダン川の底に十二の石を沈め、神の国カナンでの生き方を教えました(ヨシュ4章9節)。ヨルダン川は、「肉に死に霊に生きる」ところでしたが、イスラエルの民の争いは、そこに戻らず先に進もうとしたからでした。神の子たちは、いつでもヨルダン川に横たわり続けねば肉が生きて争います。

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