キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第3章

3章1節

カナン人とのいかなる戦いも知らないイスラエルとそのすべての者を試みるために用いようとして、主がとどまらせられた諸国の民は以下のとおりである。

神は全能であり、イスラエルに立ち向かうどんな敵であっても一蹴できますが、それをせずに見守っているのはなぜでしょうか。それはハンナを選び、長年彼女の胎を閉ざし、彼女の苦しみを通して知らせたい御計画があったことと似ています。

神が全ての人に持つ最も根本的な御心は、御自分を求めてもらうことです。十戒の第一戒は、「わたしの他に神があってはならない」です。それは、「偶像を造るな」と一つとなってこそ成り立ちます。

神がハンナの胎を閉ざし、イスラエルが直面する敵をすぐに取り除かなかったのは、苦しみを通して御自分を求めさせるためでした。

ハンナはそのことから、「男の子を与えて下さい」と祈りました。その男の子こそ、「彼(男性単数・後に来られる救い主)は、おまえ(サタン)の頭を砕く」と救いの宣言がされ、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」と預言された救い主イエスそのお方でした。

愛する友よ。あなたを悩ます様々な問題、隣人、家族について、それがすぐに解決できないのは、あなたが男の子を求めるためです。救いは、諸々の問題の解決に在るのではなく、「男の子」なるイエス・キリストを持つこと(共にいること)にあるからです。

3章4節

彼らはイスラエルを試みるため、主がモーセによって先祖に授けられた戒めにイスラエルが聞き従うかどうかを知るためのものであった。

神は、ペリシテの5人の領主、カナン人、シドン人など全土に渡って敵を置かれました。それらは「イスラエルを試みるため」であると記します。

聖書では、「試み」と「誘惑」を分けて考えねばなりませんが、それが難しいのは、「同じ出来事」の中にあるからです。人の営みは常に試みと誘惑の両方を受け続けます。それは神が存在し、サタンも存在するからです。それぞれが自分の方に引き寄せようと働きますが、大切なキーポイントは人が握っています。

それは、出来事(問題)を見て、そこから神を見上げると試練となり、神以外のものに目を注ぐと誘惑になります。試練はその人を神に引き上げ霊の人とし、誘惑は神から離し肉の人とさせて死に至らせます。

神が与えられる試練は、
  • 罪を知るために必要です(善悪を判断する)
  • 自分の限界を知るために必要です(自分から離れる)
  • 神に依り頼ませるために必要です(神に依存する)

友よ。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる…」(ヘブ12章6節)を忘れてはなりません。自分の過失の罪で倒れていたとしても、神に目を上げるとき(悔い改める時)、その時から試練となり、神に近づく良きことに変えられます。

3章5~6節

しかし、イスラエルの人々はカナン人、ヘト人、…エブス人の中に住んで、彼らの娘を妻に迎え、自分たちの娘を彼らの息子に嫁がせ、彼らの神々に仕えた。

士師の時代に、ベツレヘムにエリメレクとナオミが住んでいました。飢饉のためモアブに移住しますが、そこで夫を失います。さらに息子たちもモアブの女と結婚しますが彼らも死んでしまいました。

この家族の不幸は、有力な親戚(ボアズ・贖い人)が身近にいたのに、彼により頼まず、世(モアブ)に頼って行ったことでした。それは神(有力な親戚・贖い人)から離れ、世に頼る罪人(自力で生きる者)の結末(夫なる神を失い、息子たち=永遠の御国の跡継ぎ=永遠の命を失う)を啓示しています。

イスラエルの民も、モーセとヨシュアから教えられた神を離れ、異邦人であるカナン人の中に入って行きました。そして、彼らの娘たちを妻に迎え、自分の娘を異邦人に嫁がせ、彼らの神々に仕えました。

今も同じ道を進む神の子たちが多くいます。ボアズなる親戚((力ある贖い人イエス)よりも、モアブ(世)に頼り、モアブの女を妻にすることは、さらに世と一体化することで永遠の命を失います。

友よ。信仰の先人が、「神の子もこの世の中で生きねばならないが、世を自分の中に入れてはならない」と言いました。どこまでも、力ある贖い人・主イエスに頼り、イエスの中で生きてください。

3章9節

イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、…人々のために一人の救助者を立て、彼らを救われた。これがカレブの弟ケナズの子オトニエルである。

これより「士師」が登場し、いよいよ士師記となります。登場する士師たちはそれぞれ個性的に振舞いますが、士師記のストーリーは同じパターンです。

  • 「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い」(7節)
  • 「主はイスラエルに対して怒り…八年間…敵に…仕えねばならなかった」(8節)
  • 「人々が主に助けを求めて叫んだので」
  • 「主は…一人の救助者を立て…オトニエルである」、となります。

ある解説者が、「士師記は我々に何でも伝えてくれるが、何も教えてくれない」と言いました。はたして士師記から何を読み取ればよいのでしょうか。 「神を信じたら救い主が現れ勝利を得る」、「オトニエルや他の士師たちの勇気や賢さ」、「神に必死に叫ぶこと」などでしょうか。

何よりも知るべきことは、罪の本質で「主の目に悪」とされる罪です。それは、道徳的な行いの罪ではなく、命の罪です。命は、まことの神との「継がりと交わり」ですから、罪は「断絶と孤独」です。これが人の命と死の基準で最も大切なことです。

主に在る友よ。イスラエルは罪を犯しているとは思わずに罪を犯していました。それは、罪の基準が「主の目」でなく「自分の目」になっていたからです。

3章12節

…人々は、またも主の目に悪とされることを行った。彼らが主の目に悪とされることを行ったので、主は、モアブの王エグロンを強く…イスラエルを脅かされた。

イスラエルは、オトニエルが士師として治めた40年間は平穏に過ごしました。しかし彼が死ぬと、またもや冒頭のように前に戻ってしまいました。

人間の「義=生」と「罪=死」は、「正しい方(神)との正しい関係か、正しくない関係か」によります。  

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1章17節)とある信仰とは、神との正しい関係のことです。

「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」(ロマ1章17節)とある信仰とは、神との正しい関係のことです。

人が求める救いは、「罪の結果からの救い(病気・家族問題…)」であり、「罪そのもの」からでないことが多くあります。罪の結果からの救いを求める者は、「またも主の目に悪とされる」ことを繰り返します。

苦難に悩み、解放を願って主に願い叫び、オトニエルが与えられて敵から防いでくれた。それは、罪から解放されたのでなく、罪の結果から救われただけですから、オトニエルが居なくなると元に戻りました。

信仰の成長で悩む友よ。その原因は、罪を良く知らないからではないでしょうか。「罪」は神への「的外れ」ですが、罪に対しての的外れもあります。それは結果の罪に目が奪われて、罪の核心が見えなくなることです。結果の罪は、核心の罪に目を向けさせるためです。

3章7~12節 4章1節

イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、彼らの神、主を忘れ、バアルとアシェラに仕えた。

士師記の3章から16章まで、「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い」が何回も繰り返されますが、18章からは、「そのころ、イスラエルには王がいなかった」の言葉が登場し繰り返されます。

そこから、「主の目に悪」という罪は、「王がいない」ことを示します。それは、神が神とされてないことで、神との正しい継がりと交わりのない状態です。具体的には「イエスが主」とされていないことです。

聖書は、生まれつき目の見えない人のことで、「だれが罪を犯したからですか」の質問に、主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えました。

ここで民が問題にしたのは人(誰)の罪でした。しかし主は、人に対する罪(結果の罪)ではなく、神に対する罪(本質の罪・原罪)を取り上げています。 冒頭のみことばも、人々が「バアルやアシュラに仕えた」ので神に罪を犯したのではなく、神に対する罪(本質の罪)を犯しているからバアルやアシュラに仕える罪(結果の罪)を犯したのです。

友よ。原因と結果を間違えないでください。神に対する罪の解決に最初に心を向けてください。神に対する罪を解決できると、諸々の問題の解決は決して難しくはありません。「真理はあなた方を自由にします」。

3章14節

こうしてイスラエルの人々は、十八年間、モアブの王エグロンに仕えなければならなかった。

オトニエルの死後、民は18年間もモアブに支配されます。神はエフドに知恵を与え、敵の王に近づき左手に握った剣により倒します。その後、イスラエルの民は80年間平穏に暮らせました。

人は、何事もなく自分の願いが適えられる生活を平和と考えます。しかし、聖書の“平和”は、“外面的な平穏”とは違い、“霊の領域から始まる平和”です。

主の来臨の目的は、「私の平和を与える」ためだと言われました。ただし、続けて「私はこれを、世が与えるように与えるのではない」(ヨハ14章27節)と加えました。それは平穏無事な生活とは違うとの意でした。

そのために主は、「私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。(ルカ12章51節」とまで言いました。 平和は、神と人の正しい関係のことです。それを邪魔しているのが罪です。その罪が解決されてこそ、神との正しい関係を持てます。主は人に必要な本当の平和を作るために、十字架へと進まれました。

友よ。神の民に18年の苦難の後80年の平穏が与えられました。それは、日本の戦後の70年の平穏に似ています。しかし、平穏はやがて主の日には大嵐になり全てが吹き飛ばされます。でも、信仰の戦いの嵐を過ごした者は、やがて主の平和に包まれます。

3章15節

イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。

神は士師としてオトニエルを立て、今回の国難に対してはエフドを用いてイスラエルを救いました。

ある人が、「私は病気を癒されて信仰を持ちました」と証したら、その場にいた別の人が、「私は病気が治らないので信仰を持ちました」と言いました。

中国で40~50年前に一人の青年が「だれも行ったことのない所へ出て行きませんか」と主の声を聞き、「私はあなたの罪のために死にました。あなたも私のために命を捨てませんか」とも。彼は泣き崩れたが「主よ、私はあなたのために命を捨てるなど相応しくないものですが、どうぞ主よ、この者を遣わしてください」と。 

満州から新疆ウイグルへ、彼の妻と何人かの兄弟姉妹で向かいました。交通手段もなく徒歩の旅の途中で命を召される者も。到着し一年伝道し、30年間捕えられ、妻は死に、友人たちも…。その彼が詩を残しました。

「…花園もなく、墓標もない。だれ一人としてその屍を探す者もいない。だれ一人、自分の名を残してゆく者すらいなかった。残されたものは、ただキリストの香だけであった。十字架から送られたキリストの香りだけだった…」(命の水計画機関紙より)。

主の死を受け取った友よ。救いはなんですか。ただ十字架の主イエスと共にいることではないですか。病気の癒しや死も超える、主と共にいることです。

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