キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第4章

4章1節

エフドの死後、イスラエルの人々はまたも主の目に悪とされることを行い、

民が「主の目に悪」を繰り返すように、日本人も「主の目に悪」を繰り返すのはなぜでしょうか。

(以下は和辻哲郎著「風土」参考) 「モンスーン気候の国々(インド・東南アジア・日本)では、高温多雨多湿に悩まされるが、それ以上に恵みとなる。それは、高温と多雨は自然界を豊かにし、その恵みである作物を実らせてくれるからである。

沙漠気候の国々では自然は死であるが、ここでは生である。死はむしろ人の側にある。ゆえに、人と自然との係わりは、対抗的でなく受容的となる。 また、自然災害は大きな力であり、人に対抗を断念させる。そして、人は忍従的になり、嵐の後の恵みを待つ。 沙漠では忍従は死となるが、湿気の世界では生への忍従となる」。

そこから神に対する態度は、「砂漠では絶対服従となるが、モンスーンでは恵み(自然界)に甘える関係が作られる」と著しました。

モンスーン気候に住む日本人にとって、人格を持つ絶対者なる神を認めることは至難の業です。ゆえに日本人が心に慕うのは自然崇拝となります。さらにそれは、人が生きるのは「自然(命)との同化」へと繋がります。仏教でも神道も行き着くところは自然に還り仏・神となると信じるのです。

友よ。命は、神との人格的交わりだけにあります。

4章2~4節

主は…カナンの王ヤビンの手に、彼らを売り渡された。…イスラエルの人々は、主に助けを求めて叫んだ。…女預言者デボラが、士師としてイスラエルを裁く…。

4章も士師記の定型文といえます。

①罪を犯す → ②敵に踏みにじられる → ③苦しみから神に叫ぶ → ④士師が興されて救われる、のパターンが繰り返されています。

カナンの王ヤビンに打ち負かされた理由を、ヤビンが原因ではなく民が主の前に罪を犯したからだ、と記します。彼らは、なぜいとも簡単に主なる神から離れてバアルなどの偶像へ向かったのでしょうか。

そのことをパウロは、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と嘆きました(ガラ3章)。

そこで、罪が十字架で赦されることを信じても、その罪の本質が何であるかが不明瞭だと、「許された」のであって「赦された」とはなりません。

  • 「許し」は、罪がそのまま認められる許し
  • 「赦し」は、死の代価が支払われた無罪

民の考える罪とは、「結果の罪」であって「原因・本質の罪」ではないので悔い改めができません。

友よ。罪は、悔い改めるなら赦され、悔い改めねば赦されません。悔い改めた罪は、神を主としなかった本質の罪ですか、他者や自分の欲などの「結果の罪」ですか。神から離れた本質の罪を悔い改めてください。

4章8節

バラクはデボラに言った。「あなたが共に来てくださるなら、行きます。もし来てくださらないなら、わたしは行きません。」

神は、女預言者デボラを士師として立てます。彼女は女性なので、自らカナンの王との戦いに出られません。そこで戦いの将にバラクに頼みました。

デボラが、「イスラエルの神、主がお命じになったではないか」と言い、戦いの勝利を確信し送り出そうとすると、バラクは冒頭の言葉をもって断ろうとします。そこでデボラは、私も一緒に行きますが、「あなたは栄誉を得ることができない」(9節)と言います。

《以下・榎本保郎著・一日一章より》

バラクが…誉れを得ることができなかった…その理由はどこにあったのであろうか。それは、バラクは神の命令に従いながら、やはり人に頼ろうとしたからであると思う。  「あなたが共に来てくださるなら、行きます」と言ったこの言葉の中に、人に寄り頼もう、見ゆるものにその確かさを求めよううとするバラクの思いが明白である。  信仰とは、神のお言葉以外の何ものにも頼らないこと、「神はその約束されたことを成就すること事ができると確信」(ロマ4章21節)して生きることである。その時に神の誉れに与かることができるのである」

友よ。前記の師は続けて、「信仰とは、お言葉以外のものの助けを求めようとする不信仰との闘いです」と。

4章14節

「デボラはバラクに言った。「立ちなさい。主が、シセラをあなたの手にお渡しになる日が来ました。主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか。」

「信仰とは、お言葉以外のものの助けを求めようとする不信仰との闘いです」と、先人の言葉でした。神だけに頼れず人にも頼ります。その結果、たとえ勝利を得たとしても自分の栄誉にならないと預言されます。

ここでバラクは、神を信じていないわけでは決してありませんが、人も頼ってしまいました。デボラとバラクの違いはどこにあるでしょうか。

バラク(神より自分が先に出て行く人)
不安になり人の助けも求めるようになる。
デボラ(神の後に自分が着いて行く人)
この人の信仰こそ冒頭の言葉、「「立ちなさい。…主が、あなたに先立って出て行かれたではありませんか」です。

神のための建物を建てるのに必要な土地を得るため、地主の婦人と何度も交渉するが不可能。真剣に祈りに祈った時、地主の婦人が捕らわれているものが示された。それは、神だけに解放できることとわかった。その時から、地主婦人の協力を得ることではなく、ただ神に先に出て言っていただくことを祈った。その後、婦人はそこを未練なく手放すことに同意した…。

(バシリア・シュリンク「神の現実」より)

友よ。信仰は私が決断して出て行くのではなく、神が決めたことに、着いて行く決断をすることでは。

4章21節

へベルの妻ヤエルは天幕の釘を取り、槌を手にして彼のそばに忍び寄り、こめかみに釘を打ち込んだ。

デボラの言葉に従い、バラクを将としたイスラエル軍は大勝利を得ました。敵の将シセラは命からがら逃げ延びたが、ハベルの妻ヤエルの手で殺されました。

カナンの王ヤビンの二十年間の抑圧からイスラエルを解放したのは、実に二人の女性たちでした。勿論、彼女たちの知恵や力によったのではなく信仰でした。

信仰は、人の力を強めるのでなく、神の働きを強めるものです。信仰は、神への「同意書と許可書」です。先ず、神が人に御心を啓示します。その時、自分が持つ考えよりも、神の御心を受け取ることが同意です。

次に、同意からもっと積極的に許可を出す必要があります。それは、「あなたの御心を私に行ってもいいです」というものです。男性と女性が結婚の約束をすることは同意です。そこから進み結婚は、相手が自分と一つとなることの許可です。

デボラは、神の御心(敵への勝利)に同意しただけでなく、バラクを立てて戦に進みました。ヤエルがシセラを家に入れてこめかみに釘を打てたのは、神が彼女を用いてなせた神御自身の御業です。

友よ。多くの神の子たちは神に同意しても、神が自分に自由に働く許可は出しません。同意は消極的な信仰であり、許可は積極的な信仰と言えます。神はあなたと言うデボラとヤエルを必要としています。

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