キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第6章

6章1節

イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。

砂漠は、人にとっての敵です。そこには人間という敵も現れ、わずかな草、そして一本(基)の井戸のために戦いが繰り広げられます。だからこそ、そこでは唯一の神だけが神とされ、妥協は許されません。

その世界で他者と共存するには、信仰の戦いが伴います。戦いに負け、そこで殺されずに生きるには、相手の神に跪かねばなりません。まさに「コーランか死か」の戦いが繰り広げられます。

この頃、イスラエルはミディアン人よりも弱く、山の洞窟や洞穴に隠れつつ生きていました。さらに、ミディアン人は作物の収穫時期になると、陣を敷いて作物を奪い去りに来ました。その中で生きるためには、相手の主張や欲求に応えねばならない妥協が生れてきます。

今日でもこの戦いは、職場で、学校で、家庭の夫婦の中で、親族の中で、地域の中で起こり続けています。

これだけ明確にエジプトから救い、荒れ野でマナを与え、岩から水を飲ませたお方がいるにも関わらず、民はここでも「主の目に悪」とされることを行いました。

戦いの中にいる友よ。「主の目に悪」とは、殺人や姦淫や貪欲などでもなく、神に自分を委ねないこと、すなわち不信仰です。ミディアンより力がないことが罪ではなく、神に委ねないので神が働けなかったから隷属させられているのです。信仰は神との直結です。

6章4節

彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。

イスラエルの人々が種を蒔き作物を育て、羊や牛も育てる。すると武装したミディアン人が来て奪って行き、多くのものを失い民は貧しくされます。

この不幸は、「主は彼らを7年間、ミディアン人に渡された」からでした。それは、「あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、と私は告げておいた。だがあなたたちは、私の声に聞き従わなかった」(10節)からでした。

民がアモリ人の中に住んだことが罪ではなく、神の声に聞き従わないことが罪です。日本社会はどこでもミディアン人の圧力と偶像に満ちていますが、その中にいることが罪ではなく神に従うか否かの問題です。

ヨセフはエジプト王の側で、ダニエルは奴隷先のバビロンで、パウロはローマの獄中で神に従い続けました。神が敵に渡されたのは、イスラエルに対する罰ではなく、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ロマ12章2節)との愛の忠告でした。

友よ。神が許す苦難の目的は、あなたを一日も早く御自分の元に取り戻したいからです。

6章6~8節

イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので…主に助けを求めて叫んだ。…主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。

ここでも士師記の4パターン、

①罪を犯す → ②敵に踏みにじられる → ③苦しみから神に叫ぶ → ④士師が興されて救われる

、が繰り返されます。なぜ過ちを繰り返すのか、3つの原因をあげることができます。

人格の未熟
理解力をまだ得ていない。
弱さ(未成熟)
理解しても実行できない。傷や習慣や反感から服従できない
罪を認めない
理解も実行力もあるが、自分の考えを正当化し、どこまでも自分を通す。

ただし、未熟と未成熟は人の目からも見分けられますが、“罪を認めない”は、人の理解力を超えています。罪は神の御前に立って初めて理解できるものです。

「聖書」は「聖なる書物」の意ではなく、「差し金(大工が持つ定規)」の意です。人が持つ善悪の基準は、相対的なものですから定規(基準)には使えません。聖書こそ、善悪・尊卑・角度…などを正しく測り、全てを明らかにします。正しい定規(基準)があってこそ、人の正しい考えと正しい行いが出てくるものです。

同じことを繰り返す友よ。先ずは正しい基準を持ってください。方向が正しければ、たとえ“未熟”であり、“弱さ(未成熟)”であっても、主の取り扱いを受けながら、少しずつでも前に進むことができます。

6章8節

預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。

民が苦境の中から助け祈り求めると、神は預言者を遣わし、過去の霊的清算をさせました。過去を正しく理解しない者に本当の未来はありません。

終戦後から最近までも、日本の指導者たちの反省の弁は、「過去の不幸なこと」以上には進みません。その言葉には罪意識はなく偶然の惨事扱いです。

一方、1985年5月8日、ドイツの敗戦から40年の記念の日、「荒れ野の40年」と題するメッセージをバァイツゼッカー大統領(当時は西ドイツ)が行いました。そこでは、ヒットラーが云々ではなく、国と自分たちの悔い改めの表明でした。

その中で、「塵に口をつけよ。望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ。十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる…」(哀歌3章28節~)のみことばを引用しました。

それを聞いた当時の日本の首相は、「どうしてあの人はここまで言えるのか」と驚嘆したと聞きます。それに対して、「彼はクリスチャンだから」と答えたとか。

友よ。過去の罪を悔い改めてこそ福音を受け取れると言うことではないでしょうか。過去の罪に口づけする者は、同時に、主イエスに口づけすることです。

6章9節

わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。

神は神の民にあらゆる配慮をして下さっていました。

《以下、荒野のいずみⅡより》

…私は注意深くあらゆる計画を立てた。…私の望みと夢は、高くそびえて夜の痕跡は見えなかった。そんな時、一日を閉じるにあたっていつものようにひざまずき、そして祈った。「愛する主よ、私の全ての計画を祝福して下さい。私が望み、挑もうとするすべてを」。

しかし、日毎に私の計画は、みな失敗し、望みは転げ落ち、あらゆる野望は消えて、失敗だけが私の冠となった。…中略… そんな時、夜の静けさと一面をおおう暗がりの中から私は甘味な声を聞いた。それは、私を神のみそばに呼び出した。

『なぜあなたは私に計画を立てさせないのか。私は以前にその道を通ったことがある。私の手に将来のことを委ねてごらん。何度でもあなたの手引きをしてあげよう』。私は恥じて頭を下げた。私の心は低くされた。 …中略… もはやかつてのように私は祈らない。「愛する主よ。すべての計画を祝福してください」と。しかし今は、「主よ、私のために計画してください。将来はあなたの御手にあります」と祈るのだ。…

愛する友よ。エジプトからだけでなく、あらゆる悪から守るのは、主の御計画です…主に委ねよ。

6章10節 ①

わたしがあなたたちの神、…アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」

神は民の罪を指摘します。「戦争で原爆投下は大罪だ…それではピストルで殺されたらよいのか」の議論は、暗闇の中でより黒い方を探すことと同じです。罪は、戦争をしたことで、それは神を神としない罪からです。 

神が民の罪を何度でも指摘するのは、人に自分の罪を自覚させる以上の目的があるからです。諸々の宗教では教祖はもちろん、信者たちの間違いさえも教団の恥になるのでひた隠しにします。

しかし聖書は、神は民を導き守った→ しかし、民は神を信じず失敗した→ それでも神は民を愛し、次の導きと守りを備えた→ でもしばらくすると、民はアモリ人の神を拝むようになり…と赤裸々に告白します。

…子供の問題のために親がカウンセリングに来る時、自分のことは隠し、子供の弱さや罪を言いまくる親の子は回復できない。親が子供のことを自分の罪や弱さとして吐露し、泣き崩れる家庭の子は回復する…と。

神が人の罪を露わにするのは、御自分の元に引き寄せたいためです。ただし、自分の義を証明するためではなく、むしろその恥と罪を御自分が引き受け、御自分が罪人として裁きを受け解放するためです。

友よ。神は、愛する子どもたちに最後の敵・死に勝たせるために子の罪を指摘します(Ⅰコリ15章26節)。

6章10節 ②

「わたしがあなたたちの神、…アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」

神は、収穫になると全て奪われるその原因を教えるために、イスラエルに預言者を遣わしました。現実の苦しみを神のみことばから聞くことは重要です。

神はその原因を、ミディアン人たちの罪、横暴さ、ずる賢さについて一言も記しません。さらに、敵から奪われないための戦い方も記しません。さらに、あなたは自分自身をしっかり守りなさいとも言いません。

なぜなら、それらは出来事であって問題の原因ではないからです。出来事の解決に向かうと、他者と自分に向かい、罪をもっと大きく広げます。

神は、あなたとミディアンの問題ではなく、あなたとわたし(神)の問題だと言い、それは「あなたがわたしではなく他のものを神としているからだ」と。

ブルームハルト(1800年中ごろ活躍)親子がおり、特に息子フリードリッヒは、霊的な賜物に優れたリバイバリストとして活躍しました。しかし、彼は途中から聖霊の賜物を用いる働きを止め、ひたすら主の前に自分が死ぬことを強調し始めました。なぜなら、人々が求めるのは、信仰の結果の「出来事」であったからでした。

友よ。“豊かな実りを収穫する”とは、祝福された健康や経済や家族でもありません。収穫せねばならないのは、「神御自身」です。すべてを満たすお方です。

6章11~12節

ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた。 主の御使いは彼に現れて言った。「勇者よ、主はあなたと共におられます。」

ここからギデオンが登場します。ギデオンの名は、「打ち壊す・たたき壊す」の意でしたが、ミディアンの襲撃を恐れ、酒ぶねに隠れて小麦を打っていました。

小心者、弱虫と見える彼に、主の使いは「勇者よ、主があなたと共におられる」と呼びかけました。

それに対し彼は、「私の主よ…神が私たちと共においでになるのでしたら、なぜこのようなことが…。先祖が…語り伝えた、驚くべき御業はどうなってしまったのですか。今、主は私たちを見放し、ミディアン人の手に渡してしまわれた」(13節)と反論します。

彼の反論の言葉に、神が彼を勇者と呼んだ根拠を見ることができます。反発するのは、神に期待したからです。かつて彼は、神を信じてミディアンと戦ってもみたけれども、神からの助けをいただけず、逃げる他なかった敗北の経験があったからです。

さらに彼は、神の祝福を得られない原因の偶像礼拝とも戦ったでしょうが、それもダメでした。彼は敗北者になっていましたが、神は彼を知っていました。

友よ。ギデオンは戦いに敗れましたが、神は姿かたちではなく心を見られます。彼の中にある、神への求め、罪への挑戦、その2つがあれば「主はあなたと共におられる」お方が、あなたを勇者にすることができます。

6章14節 ①

主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。…ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

神がギデオンを勇者と呼んだのは、皮肉でも、単なる期待でも、セルフイメージを高めるものでもありません。神の目は、彼の力を見抜いていました。

神が「あなたのその力」と言った「力」は何のことでしょうか。これまでの彼は、ミディアンにも偶像礼拝にも勝てない弱い者で、恐れて酒ぶねの中に隠れる力のない者だったはずです。

実に神は、人の力を「弱さ」とみなし、人の弱さを「力」と見るお方です。それは、神に対する「強い・弱い」です。神は人の力を必要とせず、人が神の力を必要としています。神の力を得るのは、人の弱さであり、神の力を無力にするのが人の力です。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリ12章10節)。

主は、「心の貧しい者、悲しむ者は幸いである」と言いました。両方とも人間的弱さのことですが、この弱さが本当の心(神の霊)を受け取り、悲しみ(罪)を消していただける神の力を受け取ることができます。

弱いと思う友よ。弱さこそ神の力を受け取らせます。その弱さが家族と民を救う力となります。

6章14節 ②

主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。…ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

ギデオンが神に応えると、神は彼の方に顔を向けて語りかけました。 神は、「顔を向け・顔を背ける」お方です。

「お前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、…」(イザ59章2節)。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる」(Ⅰペト3章12節)。

すると神の顔は、罪人に向けられ、また義人に向けられます。悪人へ向く顔は困惑の顔であり、義人に向く顔は期待に満ちた顔といえます。神が顔を向ける義人とは、「神に顔を向ける人」のことです。

ギデオンは打ちひしがれていましたが、神に顔を向けていたので、主は彼に顔を向けることができました。そして「勇者よ」と呼びかけ、「私があなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる」(16節)と告げます。

神に見つめられる友よ。その顔は困惑の顔ですか希望に満ちた顔ですか。困惑の顔であれば、あなたにもっと顔を向けて欲しいと願うからです。神に顔を向けることこそ「信仰」です。罪と弱さの中でも努力して顔を向けてください。これは律法ではなく、信仰です。

6章17節

彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたが私にお告げになるのだというしるしを見せてください。」

ギデオンは神の声を聞き、しるしを求めましたが、それは不信仰なことでしょうか。「しるし」を求めることには2種類の意味があります。

  • 神の御臨在を確かめるため
  • 神の御心を確かめるため

ギデオンがここで求めたのは、“御臨在を確かめる”ことでした。それは、「あなたが本当の神であることの証明でした。2番目のしるしは、後に羊の毛に降りる露によって確かめようとしました(36節以下)。

本当の神か否かを確かめることで、ギデオンは最も間違いない方法を選びました。それは、「子山羊1匹、麦粉1エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ」御使いに差し出します。

彼が求めたのは、病の癒しでも、自然現象や奇跡でもなく、「罪を赦すことができる神か否か」でした。これらの供え物こそ「罪祭」という、イエス・キリストによる十字架の罪の赦しでした。

御使いは、その中の肉とパンとを岩の上に置かせ、その岩から火を燃え上がらせて焼き尽くしました(21節)。罪を赦す神、これこそ本当の神です。

友よ。このしるしを受け取っていますか。神である確信は罪の赦しと復活の命からきます。それを求めてください。それには、必ず神は応えてくださいます。

6章21節

主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。

ギデオンが備えた肉とパンは、岩から燃え上がった火に焼き尽くされました。それは、人の罪を引き受けた岩なる主イエスに、神の怒りの火が降され、岩が焼けたその熱によって人の罪が焼き尽くされたかのようです

ある時、主を試そうとして天からのしるしを求めた時、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタ16章4節)と言いました。真の神のしるしこそ、主イエスの十字架の赦しと復活の命です。

主の最後の晩餐は、パンとぶどう酒を用いた聖餐式でした。そして、「わたしの記念としていつもこのように行いなさい」と言い残しました。礼拝の中心は、賛美やメッセージをも超えて聖餐に与ることです。それは、主の十字架(流された血・ぶどう酒)と復活(命のパン)に戻ることです。

その時ギデオンは、「ああ、主なる神よ。わたしは、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」(22節)と言ってひれ伏しました。

友よ。イエスが神である確信は、主の十字架と復活を求める人に与えられます。神の御心の是非を求める前に、もっとイエスが主である確信を得てください。

6章22~23節

ギデオンは…「ああ、主なる神よ。私は、なんと顔と顔を合わせて主の御使いを見てしまいました。」主は…「安心せよ。恐れるな。あなたが死ぬことはない。」

神は義であり聖なるお方です。「義」は罪を裁き、「聖」は汚れを受け付けません。不義と汚れの中にいる者が、義と聖なるお方に触れることは死を意味しました。しかし、義と聖なる神は、「愛」の神です。愛は、相手のために自分を犠牲にします。「恐れるな、あなたは死ぬことがない」とは愛の神だから宣言できます。

人は親から受けた命ではなく、神から新しい命を受け取って生きねばなりません。そのことを主は「己が十字架を負い我に従え」と言いました。それは、自分の罪や弱さや傷を自分で乗り越えるのでなく、主イエスに代わって受け取っていただくことです。

それは、主の言葉に服従して(自分の考えを捨て・置いて)、カルバリの主の十字架の元へ行くことです。そこで主の十字架にタッチして、主に自分を委ねることです。自分の罪も問題も、主に委ねるタッチです。

すると主は、人から委ねられたことに対して、御自分の権威を持って係わることができます。それが罪であれば…十字架に引き受けて身代わりに死にます。弱さであれば、助け主聖霊を遣わします。高慢であれば、真理を知らせ遜りくだることを教え導きます。

友よ。神は義と聖を御自分で満たす方です。だから、愛の神です。神はあなたが生きることを喜びます。

6章25節

主はギデオンに言われた。「あなたの父の若い雄牛一頭…七歳になる第二の若い牛を連れ出し、…父の…バアルの祭壇を壊し、その傍らのアシェラ像を切り倒せ。

ギデオンが、「あなたが本当の神か否か」と試した時、神はしるしをもって、「わたしが罪を赦す神である」と応えました。すると今度は、神がギデオンを試みて、「若い雄牛を、父の家のバアルの祭壇を壊した薪で燃やして捧げよ」(26節)と言いました。若い7歳の雄牛は高価な家畜で、失うことは経済的に大損失です。さらに、一族が信じている偶像を壊すことは、家族の中に大きな争いを起こすことになります。彼にとっては、どちらも命がけです。 

神はギデオンのために命を献げ(岩からの火で山羊を焼き=御子イエスの十字架)、ギデオンは高価な雄牛と家族との絆を捨てることになりました。神がギデオンに命を献げ、ギデオンが神に命を献げる。これぞ、さらに確かに神が神であることの確信を得る最良の道です。互いが自分の命を献げ合う交わりこそが、より豊かな命を生み出します。

主は、「父よ…わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」)と祈られました。「一つ」こそが本当の「命」であり、それは「献身」の中にあります(ヨハ17章21~23節参照)。

友よ。献身の言葉に怖気ないでください。献身とは、今日一日を、「イエスを主」として生きることです。

6章26節

あなたの神、主のために、この砦の頂上に、よく整えられた祭壇を造り、切り倒したアシェラ像を薪にして、あの第二の雄牛を焼き尽くす献げ物としてささげよ。

神殿(幕屋)で様々の儀式が執り行われる中で、「罪祭…贖罪・罪のためのいけにえ(レビ4章他)」と、「燔祭…焼き尽くす献げもの(レビ1章他)」が特に重要でした。(他に穀物・和解・賠償の献げものなど).

罪祭は、犯した罪のための献げものであり、特にレビ4章11節の「宿営の外で焼かれた」子羊こそ、ゴルゴタの丘(宿営・町の外)で、主イエスが罪人の罪の代価を払われた十字架の献げ物でした。

「燔祭(焼き尽くす献げもの)」は、幕屋の中に引き入れた動物の頭に、献げる本人が手を置き、動物と自分を一体化させて罪を動物に移します。そして、献げる本人の手で動物を殺し、血を受けて祭壇の周りに注ぎました。これは献身を表しました。

この献げられた動物の全身が焼かれたことこそ献身を教えます。それは、一部の賜物や時間や財産を献げることを超え、体も心も霊も財や時間などの全存在、自分自身を丸ごと主に献げることでした。

友よ。ここでギデオンが大切な雄牛や人々から嫌われるであろう偶像を壊して燃やした行為は、彼の存在を主に献げることでした。従って、ギデオンの献げ物は彼自身でした。「自分の体を神に喜ばれる聖なるいけにえとして献げなさい」(ロマ12章1節)。

6章34節

主の霊がギデオンを覆った。ギデオンが角笛を吹くと、アビエゼルは彼に従って集まって来た。

東方のミディアン人やアマレク人は、ギデオンがバアルの祭壇やアシェラ像を壊し、神へ動物を献げるための薪にしたことを知った時、皆結束して川を渡ってイスラエル討伐にやって来ました。

ギデオンの行為は、同胞の民にも恐怖を巻き起こし、皆が彼の父を責めました。その中で、ギデオン一人が主の霊に覆われていました。

新約の時代においても、「聖霊に満たされ・聖霊によって歩め」と命じられました。主の霊に覆われることは最重要課題です。聖霊の満たしは、断食し熱心に祈り求めれば得られるものではありません。

聖霊の満たしとは、聖霊に支配されることです。それは、人の中で聖霊が自由に働ける状態のことです。御霊が自由に働けるのは、主に自分を献げた人の中でだけです。神は神を信じていても、神に献げず、神を利用する信仰者の中では働けません。

「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェ4章30節)は、神よりも自分が主人となるので、聖霊が身動きできずにいる姿です。聖霊は、「イエスが主」とされる中で、主の御心を成就するために働きます。

友よ。周りの条件がどうであれ、あなたは「主の霊に覆われる」ことができます。恐れず神のみことばに従うあなたのその心(信仰)を、主は待っておられます。

6章36~37節

ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、 羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、

ギデオンの記事は読む者を退屈にさせません。それは、何度も神を試すからです。最初は「本当の神か否か」を試しました。神は応え、彼は確信し納得しました。

そこでギデオンが角笛を吹くと、イスラエルの兵士らが集いました。しかし、ギデオンはかつて神が「私があなたと共にいるから…ミディアン人を一人の人を倒すように倒す…」(16節)との主の言葉を確信できません。そこで、今一度試さずにはおれませんでした。

それに対して神は、彼の求めに快く応えます。それは、彼が求めたしるしは、「敵を倒すことが本当に神の御心ならば私は従います。しかし御心でなければ敗残に終わります。だから、それは本当にあなたの御心ですか」との信仰による確認でした。

「御心を教えてくれたら信じます」と「信じるから御心を教えてください」は違います。前者は「神の御心が自分の願いと合致すれば信じます」で、後者は「信じているから御心に従いたい」です。

主に従う友よ。主がトマスに「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いだ」と言いました。彼は自分の思い通りなら信じようとしましたが、主は「信じたらわかる」と言われました。主を信じて、ギデオンのように主を試みてください(ヨハ20章参照)。

6章38節

「羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、…納得できます。」

神を信じるギデオンですが、敵と味方の戦力ではとても勝利できるとは思えません。それでも、「本当に御心ならば従いますから…羊の毛によって確かめさせてください」と神に訴えます。

彼は、羊の毛を打ち場に置き、翌朝羊の毛だけに露が下りることを求めました。それは一見、「非常識」というしるしでした。生きる上で、非常識を常識と間違って信じていることが実に多くあります。

その代表が進化論です。ダーウインの「種の起源(1859年)」が著された6年後にメンデルの法則が出されました。それは、現在のDNA(遺伝子)に関するもので、種を超えることができないことの証明でした。従って、長い時間、環境の変化、突然変異を繰り返しても、猿は人になることは決してできません。

世界は神により創造され→ 神が一人の処女から人となり→ 十字架で罪人の罪を支払い→ 復活し、昇天し、再臨される…聖書の言葉はどれもこれもこの世の非常識に聞こえますが、これこそ神の常識(現実)です。

友よ。神の創造から再臨までのこの世の非常識は、信仰によって現実(神の常識)となります。あなたもギデオンのように、この世の非常識である神の常識を求めてください。神は必ず答えてくださいます。

6章39節

ギデオンはまた神に言った。「…もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」

ギデオンは、神の存在を確かめ、御心も試したはずなのに、今一度御心を試そうとしています。ここでは先のしるしの逆を求めました。

ギデオンの執念深さは、彼の決断に民族の存亡がかかっていたからです。彼自身のことだけならば、先のしるしを受け取って出て行ったことでしょう。

人にとって、この世における非常識な神の御心を伝えることも同じです。先ずは、多くの迫害を受けます。また、伝えることが間違いであれば相手を殺すことにさえなります。

これらのことを打ち破るのは、自分の中で作り出す確信ではなく、神からの受け取る信仰の確信です。

パウロは、ローマ移送中に船が沈むほどの嵐に遭遇しました。その時彼は、「皆さん、元気を出しなさい。…。私に告げられたことは、そのとおりになります(ローマに行くこと)」(使27章23~25節)と言いました。彼が見ていたのは、暴風雨ではなく神の言葉でした。

神の御心を確信できずにいる友よ。神の御心を確認し確信するには、自分の小さな狭い体験を超えてください。66巻の聖書に登場するギデオンやパウロや多くの人物の体験から神の御心を受け取って下さい。それは、彼らだけの体験ではなく、あなたへの「濡れた毛と乾いた毛」となります。

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