キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

士師記 第8章

8章1節

エフライムの人々はギデオンに、「あなたはミディアンとの戦いに行くとき、わたしたちを呼ばなかったが、それはどういうことか」と言って、激しく彼を責めた。

ギデオンの勝利を見た時、ナフタリ、アシュル、マナセからも兵士たちが集まり、さらにエフライムも加わり大勝利になりました。しかし、大勝利は人々の心に変化を起こさせました。

途中から加わったエフライムの人々は冒頭の言葉でギデオンを責めました。その言葉を裏返せば、「私たちも戦いたかった。私たちの兵士の力が加わればもっと大勝利を勝ち取れた。私たちを信用できなかったのか」とも聞こえます。彼らは、自分たちがないがしろにされたことで、ギデオンを責めたのでした。

霊の戦いによる勝利(リバイバル)にとって、「私たちも戦いたい・私たちに力がある・私たちを信用…」という「私たち」こそ敗北する最大の原因です。

主は、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタ10章39節)と言いました。ナフタリやマナセやエフライムが加わらなかったからこそ、この勝利が与えられたことを彼らは悟れませんでした。

友よ。勝利を得られないのは、自分が頑張らないからではなく、自分(肉)が頑張ったからでは。神の前に出る努力(律法)ではなく、自分の前に神に出ていただく努力(信仰)をしてください。

8章3~4節

ギデオンは答えた。「あなたたちと比べて、わたしが特に何をしたというのか。…神はミディアンの将軍オレブとゼエブをあなたたちの手に、お渡しになったのだ。

激しくギデオンを責めるエフライム人に、ギデオンは怒り返すどころか、へりくだって答えています。 この大勝利の器は彼であるのに、「私が何をしたというのか」と言います。それは、「すべて神がなさったことで私ではない」との返答です。

謙遜には二つあります。

自分を示す謙遜「自分の力(行い)で成就した人」
この人は、謙遜の評価を人々に求める → 立派な人
神を示す謙遜「神の御業(信仰)であると知る」
この人は、謙遜の評価を神に求める → 良き僕よ

神を示す謙遜は、神に砕かれた人からだけ出てきます。ギデオンの心こそ、300まで小さくされていました。神により御業を成就した人は、他者を励すことができます。彼は自分を責める者たちに、「ミディアンの将軍たちを捕らえたのはあなたたちで、私よりも主に用いられたのです」とまで言えました。

パウロはテモテに、「主の僕たる者は争わず、全ての人に柔和に接し、…よく忍び、反抗する者を優しく教え導きなさい」(Ⅱテモ2章24節)と諭しました。

友よ。神の子と教会にとり一番大切なことは、「イエスを主とすること」で、次に「愛にあって真理を語る」こと、相手の徳を高めることではないでしょうか。

8章5節

彼はスコトの人々に言った。「私に従ってきた民にパンを恵んでいただきたい。彼らは疲れきっている。私はミディアンの王ゼバとツァルムナを追っている…。」

300人から始まった勝利は、多くのイスラエルの人々を奮起させ、敗走するペリシテ軍を追撃します。ヨルダン川東岸のスコトの人々はそれを見ていました。

食事をとる暇もなく戦う兵士たちのために、ギデオンはスコトの人々にパンを所望しますが、「敵の王も捕らえていないのに…」(6節参照)と断わられました。

神がギデオン自身から始めたリバイバルは、300人へ広がり、さらに大きな火と燃え始めました。しかし、スコトの人々のようにリバイバルを認めたくない人々がいつでも古今東西で現れてくるものです。

彼らの不満は、
  • 自分が参加せずに神の御業を起きたことへのねたみ
  • 自分がその恵みを受け取っていないねたみ
  • 自分と違う伝道方法が成功したことへのねたみ
  • 自分でなく、ギデオンが賞賛されることへのねたみ

いずれも「ねたみ」からと言えます。そして、ねたみの出どころは、「自分が中心になれなかったこと」で、それは「神中心」でない者から出てきます。

友よ。霊の法則を思い出してください。「後の者が先」になるのは、あなたを引き上げるためです。先の者を自分の場に引き戻すことは、自分自身がもっと後退します。神を中心とするならば、どちらも恵みです。

8章7節

スコトの指導者たちは、「わたしたちがあなたの軍隊にパンを与えなければならないと言うからには、ゼバとツァルムナの手首を既に捕らえているのか」と言った。

目の前に敵は逃亡し、味方が最後のとどめを刺そうとするその時。リバイバルが大きく広がろうとするその時、その火に水をかけようとする者が出てきます。

神の御業はあまりにも多種多様で、一人の中で理解し消化できるものではありません。そのような時、神の子たちがとらねばならない態度があります。

最初に、沈黙することです。高齢の妻エリサベトが子を生むと知ったザカリアは天使を疑います。天使は、「時が来れば実現する私の言葉を信じない」ので「(その)日まで話すことができなくなる」と言いました。次に、その出来事が神の御業なのか否かを確かめることです。その時、「現象」からだけ見ると間違います。人数の多さや、カリスマ的人物がもてはやされるなどを注視することも必要です。

なによりも、「真理」から見るべきです。聖書にしるされていなことや、過去の歴史から外れたこと(例…聖霊の満たしは笑い転げる…)などは注意です。

友よ。「時間・現象・真理(神学的経験なども)」の三つのことから、なによりも神が尊ばれ崇められているかを見てください。神の御業を無視すると、スコトの人々のように、リバイバルから退けられ、神の民から退けられてしまいます。

8章8~9節

彼は…ペヌエルに…同じことを要求したが…スコトの人々と同様の答えをした。そこで彼は、ペヌエルの人々に…「わたしが無事に帰って来たなら、この塔を倒す。」

敵との戦いが続く間に、ギデオンたちは味方であるはずの者たちと一つとなれません。キリストの体である教会や教団や神の子たちの中の悲しみを見ます。

「時間をかけ、現象を吟味し、真理に照らし」の中で、主が言われた、「それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」(ルカ6章44節)は大切です。 例…(ある牧師家庭で神を愛する子にとホームスクーリングを始めた。同じ教団の牧師たちが反対。5~6年後、その家庭の子たちは神を愛する者となり、反対者の子たちの多くは教会を離れていた)…。

しかし、周りのことから最終的判断を下してもなりません。復活の主に出会った時、ペトロがヨハネを見て「主よ、この人はどうなるのですか」と聞いた時、「あなたになんの関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハ21章21~22節)と言いました。

この後のギデオンの行動を見るとき、この時から神以上に人々への関心が深まります。そして、御心以上に先走って行動して行く残念な結果を作り出しました。

友よ。主なる神だけが正しいのであって、私たちにそれはありません。神の子たちの正しさは、「イエスを主」とし続ける謙遜によってだけ作られます。

8章16~17節

ギデオンは町の長老たちを捕らえ、荒れ野の茨ととげをもってスコトの人々に思い知らせた。またペヌエルの塔を倒し、町の人々を殺した。

ギデオンは12万人の敵を倒し、その王たちも捕らえました。しかし、その返し刀で本来は味方であるスコトとペヌエルの指導者たちと民衆も殺しました。その理由は、彼らがパンを提供して助けず、自分たちの主にある戦いをあざ笑ったからでした。

霊の戦いに勝者はなく敗者もいません。勝つ者も負ける者も、神によって造られ、神の子となるべく存在させられた一人ひとりだからです。

勝つ者は、相手を殺すのでなく、罪を捨てさせ神の子とするためです。負けた者は、神を神としないことを悔い改め、,勝利を得ている者たちに倣うためです。まして、十二部族とされた神の家族はなおさらです。同じく、教団、教会、個々の教理や信条が多少違う者たちに勝者や敗者があってはなりません。

「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語り…奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕し…全てのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです」(Ⅰペト4章11節)。

神の家族の友よ。相手を非難して殺してはなりません。ただし、真理によって批評はせねばなりません。非難は神から相手を退け、批評は相手を神に近づけます。愛にあって真理を語り合わねばなりません。

8章22節

…ギデオンに言った。「ミディアン人の手から我々を救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、御子息、そのまた御子息が、我々を治めてください。」

ギデオンの存在が大勝利を得させましたが、それは彼が小さくされた分、神が大きくなったからでした。ところが今、彼は自らを大きくする誘惑に直面しています。

教会において指導者の役割は大きく、指導者により健全な教会にも、不健全な教会にもなります。良い指導者は、皆に神をよりよく見せ紹介します。悪い指導者は、神以上に自分自身を人々に現わします。指導者も罪人の一人で、自分を誇る性質を持ちます。それは指導者自身の罪ですが、その罪を許す周りの人々の罪も見逃せません。それが、「あなたが…御子息…子孫が、我々を治めて…」と言う罪です。

「独りで独裁者にはなれない。独裁者を造る二番目三番目の独裁者がいるので独裁者ができる」と昔から言われます。二番目、三番目の独裁者とは、一番目を立てて自分が生き延びようとする者たちです。

主イエスに近づき、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには…」と質問した人に、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか…」とイエスは父なる神を示しました。

友よ。あなたは目で見えない神よりも、見える人や組織を頼りにしていませんか。人同士の妥協は、愛ではありません。教会は、一人一人が神御自身に妥協(一体化)してこそ、健全な命に満ちたものとなれます。

8章23節

ギデオンは彼らに答えた。「わたしはあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる。」

民は、ギデオンに現わされた神の御業を見て驚き、神を賛美しています。しかし、その賛美がいつの間にか神からギデオンに移ってしまいました。

教会が間違い易いことに、聖霊の「賜物」と「満たし」の混同があります。神の働き人には、牧師、伝道者、教師、いやし、知恵や知識など多くの賜物が与えられてこそ、十分に御業を現わすことができます。 「賜物」は働き人の聖霊による能力のことで、「満たし」は働き人が聖霊により作られる人格のことです。   とかく人々は、人格よりも働きに注目します。大きな働きをする人を見ると、素晴らしい信仰者(聖別された人)と見てしまいますが、これは危険です。

ギデオンの働きは、彼が小さくされた(これが聖別…我生きるに有らず、神我が内に生きる)からできました。しかし、神の大きな御業で、彼自身が大きくなろうとしています。冒頭の彼の言葉は、一見聖霊に満たされた神の人に見えますが、それが自我を覆う信仰の衣であることが次節からわかります。

友よ。「その実でわかる」とあります。その実を見るには、「賜物」よりも「満たし」に注目すべきです。賜物は、満たしのために仕える立場です。「キリストの御形」になることこそ、神の子たちの目標です。

8章24節

ギデオンは更に、彼らに言った。「あなたたちにお願いしたいことがある。各自戦利品として手に入れた耳輪をわたしに渡してほしい。」

「わたしはあなたたちを治めない」と言ったギデオンの口から、冒頭の要求がされました。金の耳輪をつけていたイシュマエル人から奪ったものでした。

彼の要請で集まった金は1700シュケル(約20㎏)という莫大な量になりました。戦いに勝利した恵みでしたが、後にこのことがギデオン自身と家族、それにイスラエル全体を神から離す災いとなりました。

恵みが災いに変わるのは、神から受けたものを神に返さず人が受け取るからです。教会での献金にしても、神からの恵みを神に返すのですから「無記名」が最善です。名前があると、献げる人も、受け取る側にも人の思いが加わります。主も、「ただで受けたのだから、ただで返しなさい」(マタ10章8節)と言われました。さらに、「…あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」(マタ23章7節)。これも教会にとっては、大切な霊の恵みの法則です。

キリストの体なる友よ。「…へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリ2章3節)は大切ですが、主イエスより貴い者としてはなりません。イエスを主とし、愛にあって真理を語り合う群れこそ、互いをキリストにさらに強く結びつける教会です。

8章27節

ギデオンはそれを用いてエフォドを作り、…すべてのイスラエルが、そこで彼に従って姦淫にふけることになり、それはギデオンとその一族にとって罠となった。

ギデオンは、皆から集めた金でエフォドを作りました。しかし、それが民と自分と家族を偶像礼拝へと進ませました。彼が造ったエフォドとは何でしょうか。

エフォドは大祭司が身に着ける服装でした。その大祭司こそ、主イエス・キリスト御自身のことです。 大祭司の衣装は、一番下に白の衣(罪の無い方)。その上に青の衣(青は人の色・人となられた方)。その上にエフォドを着けました。エフォドは四つの糸(金…神、緋色…王、紫…権威、青…人)で織られました。それは、「イエスは、『神・王・権威者・人となられたお方』」を表しました。

さらに大祭司は、十二個の宝石を配した胸当と、十二個の宝石を配した肩当てを着けました。十二の宝石は全人類で、大司祭が人々を胸(愛)に抱え、肩(力)に担いで至聖所へ連れて行かれることを表しました。

ギデオンのエフォドは、自分を大祭司の立場に置くための偽善行為でした。

友よ。神の御業に参与した堕落天使に、「ああ、お前は天から落ちてしまった。明けの明星…。諸々の国を倒した者よ」(イザ14章12節)との神のみことばがギデオンに当てはまりました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」を忘れてはなりません。

8章29~30節

ヨアシュの子エルバアルは、自分の家に帰って住んだ。ギデオンには多くの妻がいたので、その腰から出た息子は七十人を数えた。

ギデオンは、士師としてイスラエルを40年にわたって平穏な国にし、「エルバアル(バアルと争う者」の称号まで得ていました。しかし、平穏な40年間の彼の生活は、「多くの妻と70人の息子たち」で表されているように、神の栄光は消えていました。

ノアは舟から出ると祭壇を築き、アブラハムはソドムの王たちを撃ち破った時にメルキゼデクと交わり、ヤコブはペヌエルで神と出会い、その後べテルに住んでイスラエルとして生活しました。しかし、ギデオンの40年は神不在で、むしろ肉の繁栄だけが見えます。

創世記35章に、「エサウの子孫」の一覧があり多くの名が記されます。しかし、多くの人物が羅列されるどこにも「神」の言葉は出てきません。 一方の弟ヤコブは、12人の子どもと彼らの子供たちで少数です。彼はずる賢く人をだますこと度々でしたが、あらゆるところに「神」が登場します。創世記という原意は「系図」であり、それは「神の命の系図の書」との意味になります。

友よ。エサウは世の系図では成功者ですが、ヤコブは神の系図の中を生きました。ギデオンは神の系図から世の系図へ移ってしまいました。神の系図に入り、その中にさらに家族も入れて歩みたいものです。

8章33節

ギデオンが死ぬと、イスラエルの人々はまたもバアルに従って姦淫し、バアル・ベリトを自分たちの神とした。

士師記の中で3章に及ぶ勇者ギデオン物語ですが、最後には淋しさと失望感が漂います。あれほどの神の人はどこ?この結末はなぜ?と問わねばなりません。

信仰者の生涯を評価する時、「信仰の働き」と「信仰の実」を分けて見ねばなりません。それは、御霊の「賜物と実」のことです。働きは、その人に与えられた「能力」です。ギデオンが神の器となり、ミディアンからの勝利に導いたように、外部の人々に大きな影響を与えます。外部の人々は、その人の私生活よりも活動が見えるからです。

御霊の実は「愛」で代表されるように、その人の人格に作られます。そして、それは特に家族や親しく接する内部の者たちに大きな影響を与えます。家族は、能力以上に愛を求めているからです。

神の勇者ギデオンの堕落は、御霊の賜物(働き)が優先され、御霊の実(愛)が消されたからです。「働き・賜物」はより自分を現すことで実を結びますが、「実・愛」は自分が死ぬことによって実を結びます。

友よ。働きはその時には大きな影響を及ぼしますが長くは続きません。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいるまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛です」を忘れてはなりません。

8章34節

イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなくなった。

ギデオンが死ぬと、民は以前のように御利益を求めて偶像礼拝に戻って行きました。その種はギデオンが蒔いたものでした。

士師記では、神の「積極的干渉」と「消極的干渉」を浮き立たせます。全知全能の神の働きが、時に積極的に、時に隠れているかのように見えますが。それは神御自身の変化ではなく人の側の変化と言えます。

長い間ミディアンに支配されていた時、神は消極的干渉の時でした。その中で、神を求めているギデオンが出て来た時、神に積極的干渉を始めさせました。

語りかけ(6章11節)、励まし(14節)、求めるしるしに応え(17~24節)、ギデオンの献身を試し(25~33)、聖霊に満たし(33~35節)、御心をさらに証明し(36~40節)。そしてペリシテの戦いに望んでは、32,000人から300人へ(7章1~8節)。そして、勝利は光と音の武器(16~22節)によるものでした。

さらにこの勝利によって、恐れて帰った1万の兵士と最初に分けられた22,000人の兵士たちも加わるリバイバルを経験しました。しかし、その後の40年、神は消極的干渉しかできませんでした。

友よ。あなたに対する神の立ち位置はどちらでしょうか。それを決めるのは、神ではなく、あなたが神に積極的か消極的かではないでしょうか。

8章35節

彼らはまた、イスラエルのために尽くしてくれたエルバアル、すなわちギデオンのすべての功績にふさわしい誠意を、その一族に示すこともしなかった。

民はギデオンが死ぬと、残った一族に対する尊敬も感謝も失いました。それは、ミディアンへの勝利の後の40年間、神がギデオンに消極的干渉を余儀なくされ、民から神が隠されてしまっていたからでした。

それは、勝利に乗じて敵から奪った金を集めたことから始まりました(8章24~25節)。そして、それを用いて信仰深い聖徒を装うためにエフォド(神殿で儀式を行う大祭司の衣装・永遠の大祭司イエス・キリストを表す衣装)を作りました(27節)。しかし、それが「すべてのイスラエルが彼に従って姦淫にふけり」とあるのは、エフォドを拝んだのではなく、エフォドを衣としたギデオンを崇拝したことでした。それは、自分を神の位置に置く宗教偽装でした。

さらに、彼の40年間の生活で多くの妻を得、しかも異教の女たちまでも妻に迎え、息子だけで70人得ました(娘たちも加えると140人の子供?)。このような生活は、民衆に多くの犠牲を強い、神の民ではなくギデオンの民にされていたことがわかります。

友よ。聖書全体の一番単純なメッセージは、「神は…」です。しかしそれが、「人は…」にされる時、神は沈黙し、人が罪の痛みから叫び声を上げるまで待たねばならなくされます。神を悲しませはなりません。

ページトップへ