キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第1章

1章1節

わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって

(口語訳)

聖書の中で、最も重要なものは福音書です。それは、「聖書は、わたしについて証しをするものだ」(ヨハ5章39節)とある、「わたし」である主イエス・キリストの言葉と行動が記されているからです。

主のしもべルカは、旧約聖書で語られたことが、イエス・キリストの出現と、その行動によってすべて成就された。その出来事を私は実際に見た、と証言しています。旧約の時代は、神が人として来られて罪人を救うことを、動物犠牲や祭司や儀式によって表しましたが、それは神を投影した影を見ているかのようでした。

しかし今は、「目で見たもの、…手で触ったもの」(Ⅰヨハ1章1節)としての神を受け取ることができます。主イエスは、神の国を示し、病や悪霊から解放し、罪を贖い、復活し、信じる者に聖霊によって臨在するようになりました。

神の子とされた、愛する友よ。「成就された出来事」は、既にあなたの中にも成就されています。あなたもルカやヨハネのように、聖霊とみことばを通して日々神を見、神に触れることができるのです。

今日からルカの福音書のみことばによって、神の御声を聴き、魂を探っていただいて悔い改め、励ましを受けつつ共に神の子として歩んで行きましょう。

1章2節

最初から目撃してみことばのために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。

新約聖書は、キリスト教が公認(313年)になってから編さんされましたが、その基準は、十二使徒が書いたか、あるいは使徒の近くにいた者が書いているかだったと聞きました。

主から召された使徒たちが、主と共に過ごした3年半の日々は、彼らが主に仕えていただいた年月でした。彼らの働きは、主が十字架につき復活昇天した後、聖霊の注ぎを受けてから始まりました。

したがって、彼らは主イエスに仕えたというよりも、主が語られた「みことばのために働いた人々」、すなわちみことばを実践した人たちです。

その結果、「アーメン(真実・事実)」であったと証言しました。この証言は、使徒の時代、初代教会の迫害時代、千年続いた暗黒の中世を経て、民族や国家を超え、現代社会でも、「アーメン」と言われ続けています。

キリスト教が公認(380年頃)となり、隠れていた指導者たちが出て来た時、五体満足の者は少なかったとの記録もあります。二千年間の世の為政者の下で、多くの血が流されつつも、私たちの手もとに聖書が届けられています。

友よ。みことばは、イエスの血に、多くの兄弟姉妹の血が足し加えられて書かれ、守られ、固められた「命の真珠」です。

1章6~7節

二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには子供がなく二人とも既に年をとっていた。

祭司ザカリアとエリサベトの夫妻には子が与えられませんでした。しかし、二人はとても信仰深い人たちでした。「正しく、戒めを守り、非のうちどころがない」とありますが、罪が無いのではありません。だれでも必ず罪を犯しますが、その人が正しいか否かは、その次の行動で決まります。それは、罪を知って神に近づくか、罪ゆえに神から離れるかです。ザカリア夫妻は、一心に神に仕えても子が与えられません。でも、だからこそ、なお、神に近づいて行きました。

人の正しさは、罪を犯し、自分の弱さと不完全さを知り、悔い改め、神を中心にして生きるところにあります。主イエスの最初の言葉、「悔い改めて、福音を信じよ」(マコ1章15節)は、「罪にとどまらず、神へ進め」でもあります。

友よ。これまでが正しくても、今、犯した罪の中にとどまるならば、正しさを失います。しかし、罪の中にいても、今悔い改めて神に近づくならば、神の義があなたを包みます。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」(エペ4章26節)は、小さいが偉大な言葉です。今日の事を主に委ね、明日に向かってください。

1章9節

祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。

子がない老人ザカリアですが、「だからこそ、なお」神と共に生きる人でした。その彼がその年の香をたく役目に当たりました。

聖書には、神のもろもろの祝福…永遠の命、知恵、健康、家庭を持つ、家族の救い…などが約束されています。他者のその祝福を片目で見ながら、主に仕えねばならないことも多くあります。

現実の祝福が見えないまま神に仕えることは、とても辛いものです。時には、ほかの兄弟姉妹の祝福の証しを聞くごとに、「自分が主に仕えて何になる…」とぼやきたくなることもあります。

主に熱心に仕えた詩編百三十篇の記者も、「深い淵の底から、主よ」と叫び、「あなたが罪をすべて心に留められるなら…耐えられません」とも告白しますが、「赦しはあなたのもとにあり」と神の赦しにさらに望みを置きました。そして、「わたしの魂は…見張りが朝を待つににまして…主を待ちます」と力強く祈りました。

ザカリアの悲しみを持ちつつも、主に仕えている友よ。現実問題が一歩も動かずとも、神はあなたを覚え、あなたのために動いています。神は、子のないザカリア(恵みを受け取れないと思っているあなた)を愛しています。神は、御自分のしもべに恥をかかせることは決していたしませんから、止まらないでさらに進んでください。

1章11節

ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。これを見たザカリアは不安を覚え、恐怖に襲われたが

(新改訳)

一生懸命主に仕えても、後継ぎが与えられないザカリアでしたが、神殿で香を焚いている時に、主の御使いと出会いました。

「日本でも3年子なきは家を去る」と言われるほど、跡継ぎを産むことは重要でした。まして、当時のユダヤ社会で子がないことは、神の祝福を受け損なっていると見なされ、日本以上に深刻でした。

未信者が当たり前のように受けている恵みが、神を信じる自分に与えられないときの苦しみはさらに深くなります。それゆえに、神に失望して世に向かう神の子たちも出てきます。しかし、「ところが、主の使いが…」こそ、神が忘れていない証しです。「ところが」は、貧しい人・飢えている人・泣いている人を幸いな者に変え、富んでいる人・満腹している人・笑っている人を不幸な者に変えてしまいます(ルカ6章20~26節参照)。

幸せな人生とは、皆と同じであることや、世の人々の願うものを得ることではなく、神に干渉していただける人生のことです。礼拝や聖書の学び、祈り会や静思の時は、神が私たちにいちばん干渉でき、御自分の御心を告げることができる時と場所です。

ザカリアなる友よ。状況がどうであっても、今日も香(いのり)をたき続けてください。

1章13節

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」

御使いはザカリアに現れ、彼らに男の子が与えられることを告げます。そして、「あなたの願いが聞かれた」とも言いました。

彼らが、「主よ、私たちに子を!」と祈っていたのは20年も前のことで、老年の彼らには過去のことになっていたでしょう。しかし、祈りは、「言葉」を口にして祈り続ける以上に、祈り手の「存在・生き方」がより大切です。

それは、ある時期に切に祈った…成就しない…しかし神が子をくださらないならば、さらなる神の御計画があると信じる…それを求めつつ、さらに主に仕えて生きる…ことです。その人は、祈りの言葉以上に「存在によって祈る」人です。パウロも、「肉体のとげ」のことで祈り、成就しない現実に、なお神の御心を求めつつも、御心を受け取りました。

友よ。「神は神を愛する者と共に…万事を益にしてくださる」(ロマ8章28節)とある、「神を愛する」ことこそ大事な祈りです。神はザカリアの生きざまを祈りとして受け取り、「あなたの願いが聞かれた」と言いました。過去の祈りが無駄になったのではありません。その祈りが、今のあなたを作っていたのです。神はあなたの祈り以上に、あなたに応えます。

1章14節

彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。

ザカリア夫妻に生まれる男の子は、主の偉大な器になると告げられました。その理由は、「母の胎にいるときから」とあるように、神の選びとともに両親の信仰にも関係しました。

同じような関係を、サムソンの出生にも見ます。主の使いはマノアに、「ぶどう酒や強い酒を飲むな…汚れたものに触れるな…」(士師13章7節)と聖別を求めました。

「ローマは一日にしてならず」のように長時間かかることもあり、「すると、聖霊が…」のように一瞬で変化が起こることもありますが、基本的には信仰は伝承されていくものです。

テレビで育つ子と本で育つ子とには違いがあり、世を愛する親と神を愛する親とでは、子が引き継ぐものが違ってきます。聖別された親になるには、ハウツーではなく、何を基準とし、どこに人生の目的を置いて生きるかが重要です。ザカリア夫妻は、神という目的に従って、子をそのように養育し、教育できました(エフェ6章4節参照)。

親となっている友よ。クリスチャン家庭の子供たちが、「霊に燃え主に仕える」(ロマ12章)ようになるならば、伝道はその子たちがするようになります。親の最大の伝道は、「若者(子たち)をその行く道にふさわしく教育せよ」(箴22章6節・新改訳)ではないでしょうか。

1章17節

「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」

主イエスとヘルモン山に登った三人の弟子は、雲の中にモーセとエリヤを見ました。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表し、彼らは「旧約聖書そのもの」と言える人物でした。

老夫婦に与えられる子は、エリヤのようだと言われます。エリヤは、「あなた方は、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし、主が神であれば、それに従え。もしバアルが神であれば、バアルに従え」(列上18章21節)と、民に詰め寄り、迷っている者の心を主に向けさせ、主に出会う準備をさせました。

私たちにとって偉大な人とは、いちばん大事なことを教えてくださった人です。そして、いちばん大切なこととは、「命」のことであり、それは「神」です。

友よ。あなたが主イエスに出会うために、多くのモーセやエリヤやバプテスマのヨハネが遣わされてきました。彼らに対してどのような態度をとってきたでしょうか。今一度、悔い改め、あるいは感謝しましょう。そして、あなたも「主に先だって」遣わされる者の一人です。神からエリヤに注がれた霊は、あなたにも注がれます。今日もあなたを待っている人がいます。恐れずに出かけてください。

1章20節

あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」

あまりにも素晴らしい天使の言葉に、ザカリアは信じられなくなりました。すると、彼の口は子が産まれて来るまで閉ざされました。

「主イエスを信じよ。そうすれば救われる」は、老夫婦の出産に匹敵する出来事で、人は信じられなくなります。人は、神の多くの約束を聞きますが、それを信じ切れず祈りの口を閉ざします。その口が開かれるのは、不信仰を超えた神の御業が成就した時か、不可能が可能になった他者の証しや現実を見聞きする時です。

「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハ20章27節)。「もし信じるなら、神の栄光が見られる」(同11章40節)。信じる根拠は、気分や感覚や自分の利害ではなく、「語られた方が神」だからです。神に根拠を置くと、信仰は聖霊に自由を与え、祈りの口が開かれます。

友よ。「時が来れば実現する」とは、今、あなたが信じられなくても、神の方では約束の成就に向かって準備を始めている、ということです。だから、夫婦、親子、結婚、経済的なことなどを、あきらめないで信じて祈り続けてください。「ことばは肉(現実)となって…宿る」(ヨハ1章14節)は、あなたへの事実となります。

1章20節

「私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時がくれば実現します。」

新改訳第三版

この言葉は、ザカリアだけのものではなく、聖書を神の言葉と信じるすべての者への力強いメッセージです。

20世紀最大の発見の一つに、死海周辺の洞窟から出た千八百年前の「死海文書」があります。これは、古文書である以上に、今日ある聖書と一点一画違わなかったことが何よりの奇跡でした。

文字は、時代とともに意味を変えられ、原文から離れて行くものです。しかし、時代や民族によっても変えられないとすれば、それは書かれている内容が、どの時代、民族、文化、政治体制のもとでも真理だったからです。

事実、ノア・アブラハム・モーセ・ダビデ・初代教会の時代に書かれたことが、今の私たちにも等しく成就しています。マリアの救い主受胎は、「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラ2章20節)と、私たち一人ひとりにも成就しました。

友よ。悲しみと苦痛が積み重なった、決して動こうとしない問題の山を動かし、海に入れるのはみことばです。みことばを信じて待ち始める時から、あなたの中で聖霊が働き始め、そのみことばを成就させます。なぜなら、神は約束を決して破らないからです。そう、落ち込み、泣きながらでも待ち続けましょう。必ず「時が来れば実現します」。

1章22節

ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。

何十年も祈り、待ち、しかし諦めたことが実現するという良い知らせに、ザカリアは歓喜するどころか沈んでいます。

神の世界と人の世界との間には、まさに天と地の差があります。本来、人は神に造られた神の子ですから、父の思いを理解できるはずでした。それができないのは、イザヤが言う「濃い酒のゆえに迷い(この世に支配され)、幻を見る時、よろめき(神の声に戸惑い)、裁きを下す時、つまずく(正しい判断と行動ができない)」(イザ28章7節…( )は筆者)からです。

「酒に酔いしれてはなりません…聖霊に満たされ…なさい」(ガラ5章18節)の「酔う」も「満たされる」も意味は同じで、何かに「支配」されることです。

祈ったのに応えられず、それでも奉仕に精を出し、神の言葉(幻)に戸惑い、そしてザカリアのように口が閉ざされている友よ。その原因は、あなたの常識、不信仰、教会と兄弟姉妹の関係…など、さまざまでしょう。しかし、あなたには子(神の御子イエス・キリストの内住)が与えられているのです。さあ、そこに目を注ぎ、ほかの者に口を閉ざしても、主には心を開き続けてください。

1章25節

「主は今こそ、わたしに目を留め、人々からわたしの恥を取り去ってくださいました。」

ザカリアは、老いた妻のお腹が大きくなるのを見るごとに、主の幻の実現を確信でき、神が本当に自分を憐れんでくださったと実感できました。

旧約聖書においても、新約聖書に登場する人物の中でも、「恥」を持たずに順調に歩んだ人はいません。その恥とは、つまずきであり、弱さであり、神の栄光を汚してしまうような人生の汚点のことです。

ノアは酒を飲んで裸を晒し、アブラハムはハガルを召し抱え、モーセはエジプトから追い出され、ヨブは子供たちと財産をすべて失い、ダビデは息子アブサロムから反逆されて追われ、ホセアは姦淫する妻から離れられず暮らさねばなりませんでした。ジョン・ウエスレーは妻との関係が難しく、ある大教会の牧師は息子に名を汚されているとも聞きます。ザカリアも一生懸命に主に仕えながら、人々が得ていた、子を持つ祝福から遠ざけられていました。

しかし、友よ。恥は他者との横の関係にあり、罪は神との縦の関係にあります。横の世界(つまずき、弱さ、汚れ…)が縦(神)に貫かれる時、恥は消し去られ、むしろ神の栄光になります。「彼らはあなたに呼ばわって救われ、信頼して恥を受けなかった」(詩22・5・口語訳)とのみことばに希望を持ってください。

1章26節

ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

(新改訳)

ここから主イエスの御降誕物語の始まりです。仮に、世界の総人口67億人の6割の人が知るとするならば、40億人が知る物語となります。

しかし、「おとめマリアより生まれ」は、この物語を神話のレベルに引き下げ、偉大な真理を隠してしまいがちです。この出来事をだれよりも信じられなかったのは、当事者のマリア自身ではなかったでしょうか。そこで神は、エリサベトが身ごもった「6ヶ月目」から始めます。

不妊の女、さらに子を宿す年齢を超えた女、しかも叔母・エリサベトですから、マリアは彼女を良く知っています。神は、エリサベト自身に子を与える恵みと共に、もう一つ、姪のマリアの信仰を助け、彼女が救い主を宿すための証人となる使命を与えていました。

友よ。あなたが神の子となれたのは、あなたのためにエリサベトが備えられていたからです。エリサベトは、不可能が可能になる体験をした人々です。「言は、自分を受け入れ…信じる人々には神の子となる資格を与えた。…血によって…肉の欲によってではなく…神によって生まれたのである」(ヨハ1章12~13節)。エリサベトはマリアのために、マリアはあなたのために備えられました。そしてあなたは隣人のために備えられた証人です。

1章27節

ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。

旧約聖書の希望は、神が人となって、人を救うために来られることでした。そのために選ばれたのが、ナザレの大工ヨセフのいいなずけマリアでした。

しかし、彼女は聖女でも、努力家でも、高貴な家柄の出でも、学問のある聡明な人でもなく、貧しい大工の妻になる普通の女性でした。マリアが選ばれたのは、彼女自身の何かを超えた、神の側の事情からでした。何よりも、マリアを造ったのは神であり、その目的は愛するためでした。

愛するとは、彼女にイエスをキリスト(主・神)として与えることです。そして、マリアの立場はすべての人の立場です。「立場」こそ、「存在・アイデンティティー」そのものです。神に造られ、愛され、イエスを主とし、父なる神の子となり、イエス・キリストの花嫁となることこそ、人の立場(立つ場所・居場所・存在・価値)です。

普通の人であるマリアなる友よ。あなたもキリストの花嫁に選ばれた尊い者ですが、マリアがイエスを受け入れるまで、霊的には「いいなずけ」でした。神を信じつつも、「いいなずけ信仰」に甘んじていませんか。「内住のイエス」を受け取った、主の妻として生きてください。

1章28~29節

天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

天使はマリアに事情の説明もせずに「おめでとう、恵まれた方…」と告げます。だれでも本当にうれしい時は、説明するより前に「おめでとう」の言葉が出るものです。

天使は、人に仕えるために神によって造られた被造物です。したがって、天使の喜びは人が神の子となることです(ヘブ1章14節参照)。天使のみならず、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。…同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」(ロマ8章19~21節)とも記されています。

人が神の子となることで、被造物も救われます(ただし、それぞれの存在意味を全うすると言う意味での救いであり、神の子と同じ身分になることではない)。天使たちは、どんなにかこの日、この時を待ち望んでいたことでしょう。

おお、恵まれた友よ。天使はあなたにも、「おめでとう、恵まれた方…」と告げています。それは、「主があなたと共におられる」からです。人生で本当におめでたいことは、出会い・入学・就職・結婚・出産…などを超えて、主があなたと共にいてくださるそのことです。

1章30節

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」

マリアがいただく恵みと祝福は、「男の子」を産むことでした。しかし、それはいいなずけのヨセフの子ではありません。これこそ、結婚前のおとめにとっては最大の恐れとなります。

神が与える恵みが何かを知ることができるならば、忍耐し待ち望めますが、それが分からなければ、恐れ、拒絶することへ進むのは当然です。

神がマリアに与える恵みは「男の子」、それは「内住のキリスト」でした。しかし、マリアがそれを受け取るには、ヨセフから捨てられることを覚悟せねばなりません。ここに恐れが出てきます。「福音を信じよ」は、良い恵みをいただくのですから喜んで受け取れますが、その前の「悔い改めて」は、自分の今までの生き方、楽しみ、喜びすら放棄せねばなりません。ここに恐れが出てきます。

恐れるマリアなる友よ。ヨセフ(自分が愛するもの)に拒絶されることを恐れて、イエス(神の恵みと祝福)を拒んではなりません。「恵みと真理とに満ちていた」(ヨハ1章14節)お方は、主イエスです。今日の苦痛よりも、明日の希望を見続けてください。「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります」(ヘブ10章35節)。

1章34節

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」

「男の子が与えられる」と言われても、マリアは身に覚えがありません。マリアの答えは人間的には正しいのですが、神の前には間違っています。

「正しい(常識)が間違っている(真理ではない)」ことが世には多くあります。神はお一人という常識は、父・御子・聖霊の三位一体の神、の前に間違いです。罪とは刑事法や民事法で有罪にされること、との常識は、アダムとエバの時に神から離れたことが罪、との真理の前に間違いです。クリスマスはイエスの誕生日との常識は、天地創造前から父と共にいた子なる神・イエス・キリストが降臨された日、の前に間違いです。

そして、人は行いによって救われるとの常識は、「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」(イザ35章4節)の真理の前に間違いです。

友よ。神の子のあなたには、主イエスが内住して(宿って)います。それなのに、「どうして、そのようなことが」と常識に惑わされ、内住のイエスを拒み、自分の命で生きていませんか。常識を破るのは、まことの聖霊の働きです。そして、聖霊はみことばの中で働きますから、今日もみことばに触れてください。

1章38節

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

マリアは、天使の告知を神の御声と信じ、それに叔母エリサベトの証しも加わり、御告げを受け入れました。

「我思う、ゆえに我あり」「自分を信じて」…などと、古今東西いつも言われてきました。しかし、それらは自分の秤・納得・理解の範囲で生きる「自力の世界」ですから、やがて行き詰ります。「恵みの世界」の主権者は神であり、神が考え・計画し・実行し・完成されます。しかし、それは自動的ではなく、人の同意が必要です。

マリアは、自分の思い・許嫁・人々の反応…などをすべておいて、神のみことばに身を任せました。信仰とは、自分の立場をおいて、神の側に立つことです。アブラハムは、カルデアのウル(自分の立場)を捨ててカナン(神の側)へ。愛するイサク(自分の立場)を捨てて、イサクをいけにえとして献げました(神の側へ)。

友よ。自分の力で生きる者は「自分の立場」に立ち、神によって生きる者は「神の立場」に立ちます。神は、あなたをマリアと同じ立場に立たせて恵みと祝福を与えようとします。「我思う、ゆえに我あり」こそ自分の立場です。しかしあなたは、「神ある、ゆえに我あり」の立場に身を置いて歩んでください。

1章38節

そこで、天使は去って行った。

天使ガブリエルは、マリアが主の御心を受け取ったのを確かめてから去って行きました。彼は、帰り道で、喜びでスキップして(羽ばたきを早くして?)いたことでしょう。

ところで、天使ガブリエルは役目が終わったから帰ったのでしょうか。いいえ、天使は主のみことばを成就させる準備にとりかかるために急いで帰ったのです。

聖書には天使ガブリエルとは反対に、落胆し、足(羽?)をひきずって帰る天使もいました。それは、バラムの乗る馬の前に立ちはだかり、彼がこれから行く呪いの道を塞いで警告を与え、引き返させようとした天使です(民数記22章22~参照)。その天使は、バラムが服従してくれる次のチャンスを待たねばなりませんでした。これらは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エペ4章30節)にも通じます。

友よ。それが完全服従でなくても、神の言葉である聖書とメッセージなどを通して表される神の御心から離れず、そこにとどまり続けることです。礼拝や集会の後に世の話題に移るのでなく、神の御心を分かち合い、祈り合うことです。すると天使は、急いでその場を去り、みことばを成就させる次の準備を始めます。神の御心にとどまるならば、神は天の万象を用いて成就させてくださいます。

1章40節

マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。

マリアは、叔母エリサベトを訪問しました。二人は互いに喜び合いました。それは「体内の子」から受けたものでした。

類は友を呼び、友も類を呼びます。肉の人(Ⅰコリ3章3節)は肉の人を招き、霊の人(ガラ6章1節・口語訳)は霊の人を招きます。人間同士の結びつきで、いちばん深く強固なものは霊の者同士の交わりで、浅いのは肉による交わりです。

肉の人は、自己中心ですから、自分を分かってもらうために、自分のことを長く話します。霊の人は、神のことを思い、神について語り、相手を励ますために話します。マリアとエリサベトの交わりは、霊のものでした。互いの話題の中心は、「体内の子」である、神の恵みについてでした。彼女たちの交わりは、内住のキリストと御霊によるものでした。

教会で毎週日曜日に兄弟姉妹が会う時、互いの「体内の子・霊の人」が踊るような喜びがあったなら、どんなにか嬉しいことでしょうか。自分自身が喜びにあふれたら、だれかをここ(教会)に連れて来たくなります。良い教会とは、「ここに連れて来れば、大丈夫」と思える所です。 

友よ。あなたの主にある交わりはどうですか。兄弟姉妹とキリストを喜びあう霊の交わりにしてください。

1章45節

「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

マリアとエリサベトは、同じ体験を持ったことを分かち合い、共に喜び合いました。それは、神を信じる者同士の交わりの素晴らしさでした。

信仰は、最も単純で簡単なものなのに、最も複雑で難しいものにされています。単純で簡単とは、自分の業や努力でなく、相手の能力と奉仕を受け取るだけだからです。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による」(ガラ2章16節・口語訳)

しかし、それが複雑で難しくなるのは、自分を主とすることや、自分の方法や立場を捨てて神に服従せねばならないからです。エリサベト夫妻は、「子を持つ祝福から漏れた者」との世間の声を捨てて神に仕え続けました。またマリアは、「ふしだらな女」と呼ばれる、結婚前の妊娠を受け入れました。

友よ。あなたと神との関係は、「ゲット・アンド・テイク(得て…さらに…持つ)」になっていませんか。それとも「ゲット・アンド・ギブ(得て…そして…与える)」になっていますか。礼拝は、神が人に御子イエスを与え、それを受けとり、あなたも自分自身を神に差し出す交わりです。それは、律法ではなく愛の行為です。愛は与え合ってこそ命が造られ、それが何にも代えがたい喜びとなります。

1章46節

マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」

いよいよマリアの賛歌、「わが心は、あまつ神をとうとみ、わが魂、救い主をほめまつりて喜ぶ」(讃美歌95)の始まりです。マリアの魂の歌は、賛美の中の賛美です。

マリアの喜びは、神から神の子を与えられたこと、主が語られたことが自分に実現し、かつイスラエルにも実現したことでした。

それは、マリアとエリサベトだけでなく、すべての人に、約束されたとおりに実現しています。そして、マリアの賛美のテーマは、自分が子を得た祝福や恵みをはるかに超えた、「神・救い主」でした。この後の賛美の一節一節の主語が、八回も「主・神」になっていることからも、神の御業がイスラエルと自分に現されたことを表現していることが分かります。

友よ。賛美とは、声を出して讃美歌やゴスペルを歌う以上のことです。場合によっては、聖書を読み、讃美歌をうたい、祈る時間もなく職場で働き、家庭で弁当を作り、学校で学業に励む、ひたすら仕事、仕事の毎日…。しかし、それらの日常の生活すべてにおいて、「イエスを主」として生きることこそ賛美です。「賛美する(歌う)」と「賛美の生活」は違います。いつでも、どこでも、「イエスを主とする生き方」によってささげる賛美が霊の賛美であり、神に喜ばれる賛美です。

1章48節

「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」

「身分の低い」と言うマリアの両親はどんな人で、どんな家柄だったのでしょう、と思うのは浅はかな考えです。

身分が低いとは、自分に誇るものが何もない、との意味です。マリアが誇っているのは、神です。神を誇る人とは、自分には誇るものが何もなく、むしろ恥ずかしいことばかり、と思う人です。その人は、「心の貧しい者(霊の乞食)」であり、「悲しむ者(罪に悲しむ者)」(マタ5章3~4節)です。

マリアはここで、「私は罪人です」と告白していたのです。さらに彼女は自分を、「主のはしため」と言います。パウロも同じように自分を「主のしもべ」と言いました。両者とも、主人に仕える者、の意です。反対に、身分が高いとは、自分を誇る者、人を自分に仕えさせる自己中心に生きている者のことです。

友よ。神に目を留めていただけるのは、良い子ではなく、身分が低く(罪人)、しもべ・はしため(奴隷)になる人です。その人にこそ、神の命の水は流れてきます。神の水は、すべての人に向かって、同じように流れていますが、高い所は避けて通り、低い所へは自然に、しかも満ちるまで流れ込みます。神の祝福は、主のはしためとしもべを満たします。

1章48節

「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」

マリアは、神に目を留めていただいた自分の身の幸いを、「いつの世の人も…幸いな者と言うでしょう」とはばかることなく表現しました。

しかし、マリアのその後の生涯はどうだったでしょうか。御使いがヨセフにも語り離縁は避けられましたが、出産はベツレヘムの馬小屋の中、休む時間も与えられずヘロデの追っ手から逃げてエジプトへ、知らない外国での貧しい避難民になり、ナザレに帰ってからは貧しい職人の妻、そして比較的早く夫・ヨセフを天に送ったようです。

何よりも神からの最大の恵みであると思われた長男・イエスの十字架刑、それをすぐそばで見つめねばならない痛みによって、彼女の魂も十字架に釘づけられます。世の人からも、「わたしを幸いな者」と言われるには真逆に見える彼女の人生の始まりでした。

神の子になっても、幸せだと思えないと言う友よ。マリアの人生は、楽しみと安定と平安の生涯ではありませんでした。それでも彼女が自分を「幸いな者」と言えたのは、その人生において、なによりも「イエス」というお方(神)と、多く深くかかわれたからです。そうです、それこそ、神の「幸いメーター」です。そして、神の御前と後の世においても、必ず幸いな者と評価されます。

1章49節

「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く(聖く)、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」

マリアは、主が自分を捜しだし、目を留められたこと(48節)から進み、自分に偉大なことをしてくださったことを賛美します。

もし、人が神から偉大な恵みを受けたなら、それを自分の所有物にし、そして恵みを受けた自分を誇りさえするものです。しかし、マリアの次の言葉は、「御名は聖く」と言い、神の本質(聖・義・愛)を持ち出して自分を律しています。

さらに、その恵みを独り占めにしないで、「そのあわれみ(恵み)は、代々に限りない」と続けます。それは、「あなたも私と同じく、御子イエスを宿す(内住のキリスト)偉大な恵みを受けることができます」と宣言しているようにも見えます。

神の偉大な恵みを受けた友よ。それを確信していますか。確信できないなら、神を「恐れ」ていても、「畏れ」がないのではありませんか。恐れは、人から神に働きかけて恵みを得ようとする者(律法主義)が持つ特徴です。畏れは、自分に向かってくる神を受けとめ、神に応える者が持つ賛美の心です。肩の力を抜いて、深呼吸するようにみことばを受け取るなら、命の息は賛美として出てきます。

1章51節

「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、」

ガリラヤ湖からあまり遠くない山村ナザレ、そこに住む一おとめであるマリアでしたが、彼女の心には義への飢え渇きがありました。

「義に飢え渇く人々は幸いなり」(マタ5章6節)とは言っても、そのような欲求を持つ人ほど、この世では理解されず、生きることは難しく、苦しみ喘(あえ)がねばなりません。なぜなら、この世は、権力、金、家柄、能力が「義(正しい)」とされ、理不尽と不条理がまかり通っているからです。

マリアも、ここが神の国イスラエルなのに、神の義ではなく律法や人の言い伝え、宗教的権力が横行する現実に失望していたことでしょう。しかしその分だけ、彼女は神の義に支配される国になることを待ち望んでいました。義に飢え渇く者は、ひたすら神の国(神の支配)を待ち望みます。

不条理に憤りと無力を感じている友よ。世の制度や現状をしっかりと「批評」すべきです。しかし、それを「非難」に代えてはなりません。真理による批評は自分も含みますが、非難は自分を除外し、自己義認の罪へ誘うものです。時が来れば、「主はその腕で力を振るい」ます。そして、「復讐は私のすること、私が報復する」(ロマ12章19節)とも言われます。

1章52節

「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

マリアの言葉は、虐げられる貧しい者の憂いや、権力者への反骨を表しているのでなく、神の義と公平さを賛美しています。

神の国の到来は、人と社会の価値基準を変えます。貧しい者を幸いに、富む者を災いに、悲しむ者を幸いに、喜ぶ者を悲しみに、飢えている者を満たし、満腹する者を飢えに(以上、マタ5章・ルカ6章)逆転させます。しかし、自動的にそうはなりません。その決め手は、神から逃げるか、神に進むか、すなわち「神に対しての方向」です。

霊の貧しさと、罪の悲しみを持つ者は、神に向かいます。神以外のもので満足する者は、世に向かいます。神から幸いを得た者でも、神から目を離せば災いを受け取り、災いの中にいる者でも、そこから神に向かえば幸いを受け取ります。

世界に権力は二つあります。一つは神であり、もう一つは自分です。権力とは、「物事を決める主人」のことです。私たちは、神に従うか、自分の思いを遂げるかの選択権を持っています。友よ。自分を選ぶ権力者(自分自身)を王座から引き降ろし(十字架に付け)、神を王座にお迎えしてください。

1章54~55節

「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

マリアは、ナザレの一おとめ以上の人であったことが分かります。それは、自分のこと以上に、イスラエルの救いを考えていたからです。

同じような人が、預言者サムエルの母ハンナでした。ハンナは悩み嘆いて、「万軍の主よ、はしための苦しみをご覧になり…御心を留め…男の子をお授けください。その子の一生を主にお献げします…」と祈りました。彼女は、自分に子がない以上に、イスラエルの信仰の堕落に苦しんでおり、それを食い止めたいと思っていました。そのために男の子を自分に与えてください、と主に祈り求めました(サム上1章参照)。

主が長い間ハンナの胎を閉ざしていたのは、イスラエルの苦しみを、彼女の苦しみに置き換えさせ、祈らせるためでもありました。ハンナもマリアも、イスラエル民族の救い、神の約束の成就を待ち望みました。

友よ。「その僕イスラエル」の中に、あなたも含まれます。ハンナやマリアをはじめ、多くの人々が神の約束の実現のために苦しみ、成就することを信じて祈りました。あなたが神の子であるのは、アブラハム以来神を信じて生きたすべての聖徒たちが、祈りを積み上げて成就した尊い救いにょるものですから、大事にしてください。

1章56節

マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

マリアは叔母エリサベトのところに三か月間も滞在してから家に帰りました。三か月の間、彼女たちは何を話していたのでしょうか。

エリサベトはバプテスマのヨハネを、マリアは救い主イエスを出産し育てることになります。胎内にいる時から人格形成は始まり、特に親から信頼を受ける(存在を喜ばれる)か、それとも不信を受け取る(存在を喜ばれない)かは重大です。と同時に、もう一つの重大な影響を与えるのは、親の生活が「霊の交わり」と「肉の交わり」のどちらを持つかです。

育つ環境が「霊か・肉か」は、神の選びの次に大きな影響を与えます。エリサベトとマリアは、「胎内の子がおどった」(41節)ように、霊の交わりを三か月も続けられました。しかし、神の子たちには、神の恵みと称しながらも、実は止めどもない自分の過去、苦しみ、自己弁護について話してしまう危険性があります。

友よ。「霊のもの」と「肉のもの」を見分け、交わりが聖別される必要があります。霊の交わりは神に向かい、他者を神に引き上げます。肉の交わりは自分に向かい、相手を疲れさせ、神と自分からも引き離します。霊の交わりであれば三か月(三=神の完全数=神中心の交わり=何年も)も続きますが、肉の交わりは短く、三日も続きません。

1章60~63節

ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。…父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。

マラキ書で、「見よ。わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラ3章23節)と預言され、主イエス御自身も「彼は現れるはずのエリヤである」(マタ11章14節)と言われたバプテスマのヨハネが、ザカリア夫妻に誕生しました。

老夫婦に子が授けられるとの約束に、夫ザカリアは少なからず不信を持ち、子が産まれるまで口が利けなくなりました。名付けの時、妻は「ヨハネ」と断言し、夫も「この子の名はヨハネ」と書きました。夫婦は一致して子にヨハネ(ヤーヴェは恵み深い)と名付けました。

不思議な一致から、神の約束どおりザカリアの「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始め」ました。それを見た人々も神の御業を見て恐れました。子の誕生は、まさにヨハネ(ヤーヴェは恵み深い)そのものでした。

どのように頑張っても、もがいても、現状が動かず途方に暮れるザカリアとエリサベトなる友よ。それでも、神の恵み深さへの希望を捨ててはなりません。また、神の恵みの約束を受け入れられず、祈るのをやめて(口を閉ざして)もなりません。神の時が来れば、あなたにも老夫婦のようにヨハネ(主は恵み深い)が与えられます。

1章68節

父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。

閉ざされていたザカリアの口が開かれると、神の預言の言葉が飛び出てきました。

「預言」は、未来を告げる「予言」とは似て非なるものです。預言は、「神の言葉(御心)を預る」ものですから、前からではなく、後ろから聞こえてきます。

それは、初めに神が存在し、御心のままに創造し、導き完成されます。したがって、旧約聖書があって、そこから新しい言葉(預言)なる新約聖書が始まります。ザカリアは、旧約聖書全体が語る預言、「神は来て、あなたがたを救われる」(イザ35章4節)が、今まさに成就され始めた、と断言しているかのようです。

友よ。どれだけ旧約聖書を学んでいますか。創世記の10章までは聖書のプロローグで、神による天地創造から最後の審判までを掲示し、その後のアブラハムから始まるさまざまな人物は信仰を、出エジプト記から申命記は救いと礼拝、ヨシュア記は神の国の建設を教えます。それは、古い過去のものではなく、現在のあなたへの預言の言葉で、あなた自身について知らせ、これから進む道を示します。ですから、アブラハムから、ヤコブから、モーセやヨシュアから…後ろからあなたへ預言が語られています。

1章71節

「それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。」

ザカリアは、「どこから・何から」救われねばならないかを知っています。それが不明確だと救いも曖昧になります。

救いの根本は、道徳や健康や社会問題ではなく霊的なものです。それは、罪とサタンからくる「死」(Ⅰコリ15章26節)からの救いです。また、罪とサタンについては、エデンの園で、「サタンが人に罪を犯させた」という「サタン主因説」と、「人の罪がサタンに働く機会を与えた」という「人の罪主因説」の、二つの考え方があります。

罪を犯す原因をサタンとするなら、責任をサタンに押し付け、自分自身の責任から一時解放されます。しかし、聖書全体からは、人の罪がサタンに働く機会を提供したと言えます。たとえサタンが誘惑しても、イエスは荒れ野の試みで、「神の…言葉で生きる・神である主を試みてはならない・ただ主に仕えよ」(マタ4章1~11節)と言って退けました。

友よ。あなたの敵とは罪のことで、あなたを憎んでいる者はサタンです。その解決法は、主イエスの御臨在にとどまり続けることです。そのために、「使徒の教え(聖書)、信徒の霊の交わり、パン裂き(礼拝)、祈り」(使徒2章42節)は車の四輪のように重要です。敵に勝利するには、命あるキリストの体が必要です。

1章72~73節

「主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。」

ここでも預言の言葉は、後ろから、アブラハムから発せられてきます。信仰の父アブラハムは、神を信じるすべての者の模範であり基礎です。

建物と同じように、人生もしっかりとした基礎があってこそ堅固に建て上げられます。アブラハムが受けた恵みは、「選びと約束」でした。それにアブラハムは応えました。神の言葉に応えることを「信仰」と言います。

「恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2章8節)。「恵みと信仰」の法則を身につけるには、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフなどの生涯を、自分に置き換えて読み、繰り返し学ぶことです。

友よ。最近書かれている証しやハウツー的な本よりも、古典的な聖書の人物伝を繰り返し読むことが大事です。それによって、聖書の人物を通して、あなたへの神の契約、神と自分のかかわり方を身につけることができます。先祖(旧約聖書)に語られた契約は、イエス・キリストによってあなたに成就します。目先のハウツー的な福音ではなく、堅固な基礎の上に建った福音を受け取ってください。

1章74~75節

「敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、 生涯、主の御前に清く正しく。」

ザカリアは、「神は今、人となって来られ、敵と憎む者から解放し、先祖への約束を実現される。そして、恐れなく主に仕え、生涯、清く正しく生きることができる」と語ります。

人は、貧しさ、病、社会の変化、愛の破綻や不信などを、心情的にも肉体的にも恐れ、さらに先祖の霊やたたりなどの霊的なことも恐れます。

しかし、気づかずに持ってしまう底知れない恐れは、まことの神に対するものです。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10章28節)。神をお迎えする所に神を迎えず、自分と神以外のものを主としている「罪」こそ、恐れの根源です。その恐れを自分で埋めようとすると、さらに罪々(自己中心な思いと行動)を重ねて生きるようになり、次の恐れ(罪々)を生み出します。

不安と恐れを持つ友よ。愛がなく、家族を悲しませ、弱さに負けて過ごした過去、自分の限界を知る現在、将来への不安…しかし恐れないでください。「その十字架の血によって平和を打ち立て」(コロ1章20節)た方の血潮は、今日もあなたに注がれています。こんな者をも、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者に」してくださる主がおられます。

1章76~77節

「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。」

バプテスマのヨハネは聖い人物なので預言者に選ばれた、という訳ではありません。彼も、主イエスに救われねばならない罪人の一人です。

聖書には、賜物としての「預言」(Ⅰコリ12章10節)があります。それは聖霊の賜物ですが、預言者とは区別して考える必要があります。預言は、「神はこう言われる」という類も含みますが、いちばん大事な預言とは、「聖書のみことばの解き明かし」です。

預言の賜物を持つ人が聖書を解き明かすと、神の御心をより良く理解させることができます。ですから、神に救われた人すべてが預言者でもあります。主に遣わされて「先立って行き」、「道を整え」、人々に「罪の赦し」がイエス・キリストによって与えられる福音を伝えるのが預言者だからです。

友よ。あなたも、ある人に神を知らせるために選ばれた預言者(宣教者)です。言葉で、行動で、存在によって、イエスがキリストであることを告げる使命を与えられました。「神の子」は、あなたの存在です。「預言者」は、あなたの人生の使命です。神の子の使命を果たすことに心を注いでください。

1章78~79節

「我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」

ザカリアは、「神からのまことの光が世に臨み、暗闇と死に閉じ込められている者を照らし、平和(神との正しい関係)に導く」と言って預言を終えました。

この世界は暗いのに、ほとんどの人はそれに気づいていません。それは、恋人、家族、仕事、経済の豊かさなどを自分の太陽として、人造太陽の光を救いとしているからです。

しかし、人造の光は、社会の変動や経済的行き詰まりや病気などのトラブルによって消えてしまいます。すると、次の太陽を造りますが、それも別のトラブルで消えます。これを何度も繰り返し、最後は人造太陽どころか、自分自身が衰え消えて行きます。そして本物の闇(地獄)へ入っていきます。

暗闇に襲われ、抵抗し、失望し、今は祈れないという友よ。あなたは失望していますが、そのあなたに神は大いなる希望を持っておられます。そこでこそ、「十字架を通して…神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされ」(エペ2章16節)平和を実現できるからです。あなたの人造太陽は、本当は闇でした。主イエスだけが光です。「闇はこれ(十字架の光)に打ち勝たなかった」(ヨハ1章5節・口語訳)。

1章79節

幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

バプテスマのヨハネは、ある年齢になってから親元を離れ、使命を果たすために世に出るまでは荒れ野で生活しました。

彼は祭司の長男ですから、祭司職へ歩む道もあったことでしょう。青年期までは、そのように考えていても不思議ではありません。しかし、その道を外れ、当時のエッセネ派かあるいは別のグループであったか定かではありませんが、少数派の中に身を置いたことは確かなようです。主が、「この岩(岩々=複数)の上にわたしの教会を建てる」(マタ16章18節)と言われた教会は、各自の信仰告白が集まって存在します。ですから、教会よりも先に、個人の信仰告白が優先しなければなりません。

友よ。信仰は、「神と自分」から始まるのでいつも少数派です。むしろ、皆と同じであることは、神と自分でなく「皆(教会)と私」の関係になります。したがって、教会が個人の信仰を制約してはなりませんし、それぞれの信仰は自己責任でなければなりません。それは、今日も神に聴き続けるという責任です。世に出るまでのヨハネは、「荒れ野」にいました。「荒れ野」は「神に聴く」の意だそうです。一日の初めの時間には、荒れ野(神に聴く)に身を置き、そこから今日の勤めに出て行ってください。

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