キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第10章

10章1節

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

主は、十二弟子のほかに七十二人を選び、御自分が行く前に二人ずつ遣わしました。

主に遣わされるとは、伝道して未信者の魂を主のもとに連れて来ることでしょうか。それももちろん含みますが、「遣わされる」ことの根本は、「わたしには、あなたがたの知らない食べ物がある。…わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(ヨハ4章32~34節)と語られた中に見出だせます。

遣わされるのは、遣わした主の働きのためですから、当然、遣わした方が報酬を払うことになります。したがって、遣わされて主のために働く人は、だれよりも多くの霊の糧(報酬)を得るものです。それを主は、父なる神から受けた使命こそ、「わたしの食べ物」であると言われたのでした(ヨハ4章32~34節参照)。

友よ。多く働いた者が多く得るのは、霊の法則も同じです。それは、不公平ではありません。なぜなら、主のために多く働き、多くの糧を得た人が、より多くの恵みを持ち、それを皆に分けることができるからです。「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」(Ⅱコリ9章6節)。遣わされることは、だれよりも自分自身が豊かにされることです。

10章2節

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

父なる神の御心は、「一人も滅びずに永遠の命を得る」ことです。しかし、誰が収穫のために出て行くのでしょうか。

聖書は別の個所で、「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っている」と、さらに「目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハ4章35節)と言います。「四か月もある」は人の心を、「刈り入れを待つ」は父なる神の心を記しています。両者の間にある四か月の隔たりは、罪に対する恐れ、死に対しての切迫感、裁きに対する厳しさ、魂の救いに対する責任などの違いを表しています。

肉体の死までには四か月あっても、魂の滅びは、今日、この時も進行しています。そこで、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる…」(ルカ12章20節)と言われる神の言葉を、自分の身内に当てはめるならば、指をくわえて四か月も待てるでしょうか。

友よ。収穫の鎌は、その人のそばにいる「あなた」でなければ振れません。「主よ、あの人を遣わして」の前に、自分の手を伸ばせるように祈ってください。それに真剣に取り組む者に、神は刈り入れの助け手を備えてくださいます。

10章3節 ①

「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」

主は「行け」と言いますが、そこは熱烈な歓迎を受ける所ではなく、むしろ子羊にとっての大敵、狼の群れが待つ所だとも言っています。この個所から、伝道することは、命を捨てる覚悟がないとできないことが分かります。

人が命を捨てることができるのは、第二次世界大戦時の日本国のように強制されたときか、あるいは、愛の戦いのために自ら捨てるときです。前者は自分が死ぬことでさらに人を殺し、反対に後者は自分が死んで他者を生かし、良いものを建設します。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(Ⅰヨハ4章19節)。愛のための戦いは、自分が死ぬことで勝利します。なぜなら、愛の戦いには主が味方になってくださるからです。

友よ。伝道は愛の戦いであり、主が必ず共に戦われる戦いです。そこで、私たちの先に贖いの小羊として歩まれたイエスの御跡を辿る、さらに小さな小羊となりたいものです。それには、神の愛に満たされねばできません。「愛を増したまえわが主よ、わが主よ、愛を増したまえわが主よ。心のそこより、愛を増したまえ、わが主よ」(聖歌433)と祈り求めねばできません。でも、必ず主は愛を与えてくださいます。

10章3節 ②

だれでも勝ち戦(いくさ)に出て行きたいものです。しかし、狼と戦うために小羊が出て行くのでは、戦う前から勝敗が決まっているように見えます。

福音(良い知らせ)は、聞く側には「良い知らせ」どころか「悪い知らせ」になります。特に、自分の力で生き、自分を誇る者、自分の人生が上手く行っていると自負する人ほどそうです。なぜなら、福音は、「悔い改めて」が最初の条件になるからです。それは、自己義認を否定し、あなたは罪人ですと宣言し、さらに十字架に追いやるからです。

福音は、人の善悪や生死を決定するものであるゆえに、人は自己防衛に走り、自分が生きるためには相手を殺します。歴史上の全体主義国家などでも、さらに家庭においてさえも戦いが起こります。狼なるこの世は、神から遣わされた小羊の何十、何百倍もの力をもって迫害しました。しかし、人生に行き詰っている人には福音は命そのものとなります。

友よ。神の小羊イエスは、狼に噛み砕かれるがごとくに十字架へつけられました。しかし、新しい天が完成する黙示録十九章以降、噛み砕かれた「小羊」こそ、王の王、主の主として君臨しています。たとえ狼に食われても愛の戦いに敗北はありません。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた」(6節)。恐れるな、小羊たち!

10章6節

「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。」

主は、「全世界に出て行って福音を伝えよ」と命じられました。福音を伝える人の中には、主が喜んでとどまってくださいます。

イエスは御自分を「平和の子」と言いました。平和とは、父なる神と人との「正しい関係」を表します。それは、罪を赦されて義なる者とされ、神の子となることです。それをつくり出すお方は、「平和の君」(イザ9章5節)なる主イエスのみです。平和(救い・神との正しい関係)が、そこにとどまるか否かは、何によって判断できるのでしょうか。主は具体的に、「わたしの言葉、…わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっている」(ヨハ15章7~10)と言いました。主にとどまっていただくのは、「みことば・戒め」によってです。

使者なる友よ。「使者はみことばにとどまり、みことばは使者にとどまる」とボンフェファーが書き残しました。使者は、何よりも自分自身がみことばにとどまることです。そして、できる方法、範囲で主について語ってください。受け入れられたなら、平和の子(救いを与えるイエス)がその人にとどまり、拒否されてもあなたから主は逃げません。むしろ、あなたの内に更にとどまってくださいます。

10章12節

「『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。」

自分を迎え入れない人には、イエス様でも気分を害し、その上腹いせまでするのか、と思いたくなるのが右の言葉です。しかし、ここにも大事な伝道の原則があります。

みことばを語り、主を伝えることは、とても大変だと考えます。それは、その人に対しての責任を取らねばならないと思うからです。しかし、使者は「神の言葉を語ることに責任があるのであって、聞いた人の責任を負うのではない」ことを肝に銘じる必要があります。

事実、自分の家族の責任さえも十分に負えない者が、他者の責任など負い切れません。「足についた埃」とは、その町(人)の責任、とも取れます。みことばを語ったならば、その責任は「主とその人の関係」に移され、あなたからは外される、とも取れます。それは「後はわたしの責任です」との主の言葉としても聞こえてきます。

友よ。たとえうまく福音を伝えられなくても、「神の国が近づいたことを知れ」とのメッセージを残すだけでもいいのでは! 遣わされた者は、遣わしたお方に忠実であればそれでよいのでは! 「管理者に要求されるのは忠実であることです」(Ⅰコリ4章2節)。伝えた先の責任ではなく、伝える責任を果たせますように。

10章13節

「コラジン…ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていればこれらの町はとうの昔に悔い改めた…。」

主イエスの活動は、ガリラヤ湖の北部コラジンやベトサイダが多く、民はイエスの姿と行動を他のユダヤ人よりも多く見ました。

「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」(ルカ12章48節)のは当然です。主の教えを聞き、奇跡や癒しを見、自ら体験した人は、それに応答する責任があります。英語の「レスポンス(応答)」が「レスポンスビリティー(責任)」に変化するのも納得できます。

「聞き・見・知った」のに応えないことは、知らずに判断するよりも責任が問われます。律法を知った者は律法により、神を知らない人は良心によって裁かれる(ロマ2章9~16節参照)もこの一環です。それなら知らない方がよいのか。否、信仰はキリストの言葉を聞くことから始まります(ロマ10章17節参照)から、聞いたことは大きな恵みです。

しかし、友よ。裁きの話より、得た恵みにもっと目を留めるべきです。みことばを聞いたこと、神を信じたこと、今も信じていることの恵みに目を留めると、神の愛が迫ってきます。その神の愛が、「すべてを完成させるきずな」(コロ3章14節)となります。

10章15節

「カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。」

英国から来られた、ある老牧師が、「メッセージを語ることはだれでもできる。しかし、メッセージを生きることは皆ができることではない」と言いました。

同じく、「メッセージを聞くことはだれでもできる。しかし、それを実践するのは簡単ではない」ともなります。主のメッセージを聞いたこの地の人々は、「私たちは本物の福音を聞いている。それに比べて、律法学者たちの教えは偽物だった」と批評が高じて非難しても、彼ら自身は聞いたメッセージに生きようとはしませんでした。彼らは天に行けると思っていますが、福音を聞いても委ねていない者は、本当は救われていません。

友よ。メッセージに感動しているだけでは、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタ7章21節)の言葉が自分に成就します。メッセージは、「誰の」ではなく「神の」ものです。また、「誰に」ではなく「私に」です。

10章17節

七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」

神の権威を授けられた弟子たちの伝道は大成功だったようです。そこで、彼らは伝道の成果を得意げに主イエスに報告しました。

弟子たちが行った業は、神の権威によるのであって、決して彼らの能力や努力や賢さによるのではありません。しかし人は、神の働きや霊的賜物と、自分の信仰や人格を混同しがちです。もろもろの霊の賜物(異言・預言・いやし・力ある業…)も奉仕の賜物(教師・伝道・いやし・知恵・知識…)も、それらは神のものであり、その人の信仰や聖別と必ずしも比例するものではありません。少し前に恐れつつ出て行った弟子たちは、いま有頂天で帰ってきましたが、彼らの中で増したのは、謙遜と高慢のどちらでしょうか。信仰には行いが伴いますが、しかし神の御業と人の信仰は、必ずしも一致するとは言えません。

友よ。悪霊を追い出し、死人を生き返らせ、説教が上手、霊の賜物を持つ、多く奉仕する…などの人が信仰深く見えるものです。しかし、神の眼は、日々自分の十字架を背負って従い続け、人々に仕える人に注がれます。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者」(Ⅱコリ10章18節)です。

10章20節

「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

《…ある中国の伝道者の詩…》

…かつては、イエスを愛し、今では、働きを愛している。

かつては、キリストに励まされ、今では、霊的な成績に励まされている。

かつては、主を見つめていたのに、今では、自分の奉仕をじっと見つめている

かつては、御血潮によって贖われた者たちが愛し合い、今では、自分と気の合う者、私が良いと認める人々とだけ共にいる。

ああ、なんと恐ろしいことだろうか! 知らず知らずの内に、私心が入り込んでいた。自分を愛する心が入ってきて、神への愛は減ってしまっていた。全く主を愛していない、というのではない。でも確かに、あの純粋で一途な『初めの愛』から、私は離れていた…。

友よ。「自分の力による働きは主を追い出すこと。主の力に頼る信仰は、さらに主に働いていただくこと」を忘れてはなりません。あれができた、これができたということよりも、あのこと、このことの中に、神を見出すことの方が幸いです。なぜなら、私たちの喜びは、「行い」ではなく「存在」にあるのですから!

10章21節

イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、…これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」

神の働き人になるよりも、神の子の存在を喜べと語られた主は、幼子(神の子)に備えられる恵みについて天の父に感謝しています。

聖書のもう一方では、「幼子のように乳ばかり飲まずに、固い食物を食べよ」(ヘブ5章13・14節参照)とも記します。両者は、信仰の「成長」と「原点」の違いを表します。大人が神に求めることは、あの問題、この問題の解決であり、神の御業です。幼子は、親の能力も職業も収入も全く気にかけず、ただ親という人格を求めます。大人は自分に都合の良い出来事を得て満足し、幼子は親を見て満足します。この幼子の姿こそ信仰の原点です。

マタイ福音書はこの記事の後に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(11章28節)と書き加えました。それこそは、幼子の心ができることで、大人の心には難しい作業です。

愛する友よ。病気の時、幼子はまず親がそばにいてくれることを求めますが、あなたは病気が治ることを真っ先に求めていませんか。そのような人は、主よりも病院を助け主にします。あれかこれの解決のお願いをする前に、イエスという御人格を求めてはどうでしょうか。

10章22節

「父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」

御子イエスは父なる神を信頼し、父は御子を信頼し、御子は聖霊(子が示そうとする者)を信頼します。これこそ、三位一体です。

大方の人は、キリスト教の救いは? の質問に、病気のいやしや家族の平和や経済的安定よりも、罪の赦しと答えます。それは事実ですが、それも完全な救いを表すとは言えません。

聖書で最もよく人の救いを表すみことばは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。…わたしたちが一つであるように、彼らも一つに、…わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」(ヨハ17章21~23節)の中にこそあります。

三位一体の神の交わりの中に入ることが人の救いです。

友よ。罪の赦しは、三位一体の神との交わりの中に入るために大事ですが、それも手段です。聖霊によってイエスを知り、イエスによって父を知ります。父の恵みをイエスから、イエスの恵みを聖霊から受け取るのです。

10章23~24節

イエスは…言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。…多くの預言者や王たちは…見ることができず、…聞きたかったが、聞けなかったのである。」

弟子たちが見ることができて、預言者や王たちが見聞きできなかったのは、今、目の前に立つ神であり完全な人となられたイエス御自身です。

聖書理解で最も重要なことは、①「三位一体の神」の理解です。父と御子と聖霊の三位一体を、「水・氷・水蒸気」「熱・光・動力」などで説明しようとしますが、それは一つの物が三つに変化する「一味三体」で、似て非なるものです。「愛」は、「人格と人格の継がりと交わり」で、それが「命」であり、それこそ「神」です。「愛=人格と人格の継がりと交わり=命=神」、これらの本質は同じです。

次は、②主イエスを知ることです。父なる神は、御子にすべてを委ね、御子は聖霊に委ねます。聖霊は御子を示し、御子は父を示します。聖霊に満たされることは、「イエスを主」と信じ、「イエスを主として生きる」ことです。

友よ。初めの愛に帰りましょう。それは難しいことではありません。なぜなら、聖書から主イエスの確かな御声を聞くことができるからです。昔の預言者や王たち以上に、私たちの方がもっと主イエスを見て、触れることができるのですから!

10章25節

ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

右と似たような記事が、福音書の中に何度となく登場します。それほど、人にとって「永遠の命」は大きな関心事です。

「論語読みの論語知らず」と言うように、「聖書読みの聖書知らず」(?)もいるようです。それが、金持ちの青年、律法の専門家、議員など、聖書を知っていたはずの方々です。「聖書読みの聖書知らず」の問題は、知識不足でなく方向違いです。彼らは、自分が神に向かって行こうとしますが、神が人に向かって来るのが聖書の真理です。人が神を知るのではなく、神が人に御自分を知らせてくださいます。ですから、「何をしたら」ではなく「何を受け取ったら」でなければなりません。

聖書が難しいと言う友よ。パンについての知識を増したらお腹が膨れるのではなく、一口食べて理解し、さらに食べて満たされるように、「わたしは命のパン」である主イエスを受け入れると、パンの中の命が霊の世界を分かるようにしてくださいます。その時に、ペテロのように、「今、初めて本当のことが分かった」(使徒12章11節)と言えます。今日も命のパンなるみことばを食べ続けましょう。時至って必ず、「分かった」と言えるようになります。

10章28節

彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

さすが律法の専門家です。これ以上ない模範解答(?)ですが、これで事は終わりません。

ここからが問題です。みことばは知っているだけではなく、実践されなければなりません。ですから主は、「正しい答えだ、それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(28節)と加えました。

戒めは、神と人とが交わる基準で、交わるためには義と聖が必要です。そこで、戒めの最初の働きは、人がその基準を満たしていないこと(罪)を知らせます。

次に、それを人が自分で満たせないことを示し、神を求めさせます。そこから神に祈る時、神が人の基準を満たし(十字架の赦し)、実行する命(復活の命)を与え、助け主の聖霊を与えてくださいます。以上の手順を踏んで行くならば、戒めは冷たいものでも厳しいものでもなく、人を愛する神の優しく真実な愛の言葉に変わります。

友よ。「知る」と「行う」の間に、紅海やヨルダン川があり、そこを渡らねば向こう岸へ行けません。それは、自分の思いや考えをおいて、神の御手に委ねて水に入り自我に死ぬことです。しかし、水の中を通る(十字架)のは神で、あなたは乾いた所を歩きます。

10章29節

しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。

主は、「神を愛し隣人を愛することが戒め」と答えた律法の専門家に、「それを実行しなさい」と迫ります。すると彼は、「隣人とはだれですか」と切り返しました。両者の間に激しい火花が散っています。

律法の専門家の問題は、自分は律法を十分に守り及第点を得ているし、隣人も愛している、と確信する錯覚にあります。そのように言うのは、一般社会の基準や他者との比較で判断しているからです。ですから、主の「実行せよ」の言葉に反発し、「隣人とはだれか」と切り返しました。

彼は、自分で自分を欺く、自己欺瞞に陥っています。彼の律法の基準は自分で、愛しているのも自分自身であって、隣人ではないと主は見抜いています。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(Ⅰコリ8章2節)。そこで主は、この後、強盗に襲われた人を助けたサマリア人の話を持ち出しました。

自分を正当化したくなる友よ。自分を基準として生きることは最も簡単ですが、結果は最悪です。神に基準を合わせるのは最も難しいことですが、結果は最善以外にありません。「御心のままに」とは、神を基準にして自分を不完全な者として受け取ることです。

10章31節

ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 

有名な「良きサマリア人」のたとえは、律法の本質論を解くためのたとえ話ですから、律法の問題と切り離すことはできません。

十戒の第一戒から第四戒までは神を愛すること、第五戒から第十戒までは隣人を愛することでした。主もそれを、「…神である主を愛しなさい(第一の戒め)…隣人を愛しなさい(第二の戒め)」(27節)とまとめられました。そして聖書は両者の関係を、第一の戒めによって神との正しい関係を持つことで、第二の戒めの隣人を愛することが全うできる、と語ります。

しかし、「神に献げるのであなたに差し上げられない」と、第一の戒めをもって第二を捨てることもできます。逆に、「家族に仕えるから神との時間を持てない」と、第二をもって第一を捨てることもできます。祭司とレビ人は、第一の戒め「神を愛する」をもって第二の戒め「隣人を愛する」を捨てた典型的な人たちでした。

主を愛し、隣人を愛したいと願う友よ。あなたの「戒めバランス」は正常ですか。神を愛する第一の戒めを優先する者は、第二の戒めも成就できるようになり、第二の戒めを優先する者は、第二も第一も両方を失う可能性があります。なぜなら、戒めは自分で成就するものではなく、神に成就していただくものだからです。

10章32節

レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。

ある絵本に、祭司とレビ人は、「わたしは神に仕える聖なる者…死人に触れて身を汚しては神聖な儀式を行えなくなる…」と言って向こう側を通った、とありました。納得です(?)。

だれにでも、都合や弱さや能力の限界があるものですが、それらを優先する人生の歩みは、「道の向こう側」を通る人生と言えます。その人は、半殺しの人がいる「こちら側」を通ろうとはしません。族長アブラハムは、欲得に心を奪われて去ったロトと家族が、敵の捕虜となったと聞くと、手勢を率いて敵に戦いを挑みました。彼は、自分の身を守る向こう側を捨て、ロトの側(こちら側・神の側)を歩き大勝利を得ました。それは、神がこちら側にいたからです。(創14章13~16節参照)。

友よ。あなたが歩んでいるのは、自分を優先する向こう側ですか、それとも神に従うこちら側ですか。歴史上でいちばん遠くから、こちら側(私の所)に来てくださったお方は主イエスです。彼は神であることを捨て、罪人の私たちの所まで近寄ってくださいました。さらに、人となられただけではなく、霊において罪人の罪と一つになり、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザ53章5節)のでした。主に感謝と賛美をささげます。

10章33節

ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って…。

主に仕える祭司もレビ人も近寄らない人に、異邦人であるサマリア人が近づいて来ました。まさに「良きサマリア人」です。

このサマリア人にも都合があったに違いありませんが、彼はそれを超えて近づきました。人は病気や弱さを持ちますが、いつの間にか、それを自分の自我にしてしまう危険性があります。それは、「弱い私を理解して」というように、弱さを正当化し、弱さを生きる根拠に置いてしまうことです。同じように、神に従わない肉を正当化することもします。すると、肉が肯定され、霊が否定されることにさえなるものです。だから、いつも自分の側(向こう側)だけを歩き、半殺しされた人の側(神の側)には近づきません。その人は、神の御心を知りながら従わない人になります。

友よ。「心は…偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか」(エレ17章9節・口語訳)とあります。しかし、サマリア人を通して自分の心を点検できることは恵みです。弱さを正当化するのではなく、弱さを神に自分を結びつける道具にしてください。そして、ここから、今から、一歩神の側に近づいてください。

10章34節

近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。

良きサマリア人は、強盗に襲われた者にこれ以上ないと思える最高の介護をしました。

しかし、それが大切なのではなく、彼が「近寄って」行ったことが重要です。主が律法の専門家に言った、「それを実行しなさい」は、「近寄って行きなさい」だったのでは。

故・沢崎堅造師は、「わたしは渇く」(ヨハ19章28節)のみことばを、主から自分への言葉と信じ、京都大学の教師の職を捨てて中国北部の熱河伝道に身を献げ、ついに帰らぬ人となりました。倒れた人に近づいたサマリア人や、中国人へ近づいた沢崎師が、自分の立場を捨てて近寄って行った時、油とぶどう酒を用意してくださるのは主イエスです。主は近寄って行く人と共にいます。なぜなら、「実行しなさい」と命じたお方は主だからです。

愛せなくて苦しむ友よ。自分を保つ向こう側へ行かず、愛さねばならない人へ一歩近寄って行ってください。その時、あなたの袋の中に、油なる聖霊と、十字架の血潮であるぶどう酒が入れられています。それは、相手に注ぐためでもありますが、それ以上にあなた自身がこの恵みにより多くあずかるためです。神は、みことばに従う人に、十字架の血潮の清めと、助け主の聖霊を豊かに与えて祝福してくださいます。

10章36節

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

良きサマリア人の話を終えた主は、律法の専門家に右のような質問をしました。関連記事からこの質問は、富める青年(マタ19章)や議員(ルカ18章)にも当てはまります。

質問を受けた彼らの共通点は、自分が律法を守っていると信じていたことです。神を愛し隣人を愛するのが律法ですから、彼らは神と人とに仕えていると自負していました。

しかし、律法は、「わたしは命を得て、みことばを守ります」(詩119・17)とあるように、神に仕えていただき、神の命を得た者が守れるものです。

彼らは、自分では神に仕えていると思っていますが、神に仕えていただいてはいません。自分は、罪という瀕死の傷を負い、主に近づいていただき助けられた、と思う者だけが、他者に自分を与えられます。神に仕えていただいた人は自分を他者に与え、自分で神に仕えた人は他者を切って自分を守ります。

友よ。主の質問を、「三人の中で、だれが神の愛を受け取った者か」と読んでみてはどうでしょうか。すると「あなたも行って同じようにしなさい」は、「あなたはわたしに近づき、愛と命を受け取りなさい。そうすれば、あなたも良きサマリア人(良き隣人)になれます」との、神の招きの言葉にも聞こえてきます。

10章37節

律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

律法の専門家の答えは正解ですが、実行するには自分が一歩踏み出さねばなりません。

御心に適った正しい行いをするためには、「恵みにより、信仰によって救われ」(エフェ2章8節)ることはとても重要ですが、その「恵み」と「信仰」の順番は無視できません。

「神を愛する」という第一の戒めは、「全身全霊を傾けて神の恵みの命を受け取る」戒めです。神の命の恵みを得てこそ、第二の戒めである「隣人を愛する」に進むことができます。

しかし、神の恵みを受けていないから、行って同じようにすることは私には不可能だ、というのは、神に責任を押し付ける無責任な信仰です。そこにとどまるなら、キリストの御姿に成長することはありえません。

友よ。まず、「恵み(罪の赦し、病や弱さの支え)」を受けとってください。そして、その恵みに精一杯応えてください。それが「信仰」です。実に神は、あなたを愛して独り子イエスを差し出してくださいました。その恵みを受け取り、あなたが「行って同じように」するならば、天からの助けは必ず与えられます。それが、恵みにより信仰による神の子の行動です。

10章38節

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。

主と三人の姉弟との出会いは、罪のどん底から救われたマリアから始まりました(ヨハ11章2節参照)。後にこの家族は、弟ラザロが死人から生き返される恵みもいただきました。

主イエスがいつまでもとどまりたい家は、どのような家庭でしょうか。それは、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタ20章28節)とあるように、「神がいなければ私たちはどうしようもない」という家(心)です。

三人の姉弟には、親がなく、助けもなく、マリアが罪の女と人々に言われるような、家族が生きるために仕方のない事情があったのかもしれません(ルカ7章39節参照)。だから、主に出会い、そのみことばを聞いた時から、このお方にいてほしいと熱望したことでしょう。

友よ。あなたの心と家は、本当に主を必要としますか。主があなたの家にいないならば、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタ9章13節)と語られた、訪問の条件から外れているからではありませんか。あなたもマリア(罪人)であったことを忘れてはなりません。

10章38~39節

彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、

ある人が、お嫁さんにするならばマリアさんよりもマルタさんの方が良い、と言いました。はたして、あなたの本心は?

生活するためには、収入を得、住居を整え、食事を作るなどの衣食住と、家族に仕える、人と付き合うなどの人間関係の現実から逃れられません。現実という怪物は巨大で、人の心を奪い、それがすべてであるかのように錯覚させます。しかし、「この世界が神の言葉によって創造され、見えるものは、目に見えるものからできたのではない」(ヘブ11章3節)とあります。

現実が命を造るのではなく、目に見えない神の命が人の心に知恵を与え、その知恵によって現実の生活がつくられて行きます。マルタは現実を整えることでイエスを迎えようとしていますが、マリアはまず主イエスをお迎えしてみことばを聞き、それから日常の生活を整えようとしています。

友よ。「働くために食べるのか、食べるために働くのか」を「みことばから命を得て働くのか、働いてみことば(命)を得るのか」と置き換えるならば、もちろんマリアのように、みことばを食べてから働く、が正解では! まずは、主の足もとに座ってみことばを食べてください。

10章39~40節

マルタは…言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

マルタとマリアは姉妹ですが、兄弟(姉妹)喧嘩(?)もするようです。私たちも神の家族で兄弟姉妹ですが、奉仕のことでは同じように争うこともあります。

何事も「スピリット(命・精神)あり」から始まります。奉仕スピリットは、「主を喜ぶこと」と言えます。しかし、主を喜ぶのではなく、主を喜ばせることに変質しやすいのが奉仕で、それは献金でも同じです。主を喜ぶことが献金であって、喜ばせるために献げるのでは、「献げる」のではなく「要求」になります。主は既に御自分のすべて(罪の赦し・教え・復活の命・助け主の聖霊…)を与え尽くしていますから、奉仕を受けてもさらにそれ以上に与えるものはありません。しかし、主を喜ぶ人を喜ばれますから、主と人の間の命が豊かに流れます。すると、私たちは既に得ている恵みをさらに豊かに受け取ります。

友よ。マリアは主を喜ぶことを選び、マルタは主を喜ばせることに心が向いていました。主を喜ばせようとする者は、他者が気になり、不平をこぼします。主を喜んでいる人は、報われず評価を受けなくても気になりません。なぜなら、主から既に多くのものを受けて満足したので献げた(奉仕)からです。

10章42節

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。」 

主はマルタを責めてはいません。むしろ、愛しています。マルタのように、他者に気を配る心は神の賜物でもあり尊いものです。

マルタが妹に不平を言っていますが、時として、マリア的人もマルタ的人を責めます。マルタの罪は肉的不満からですが、マリア的人が陥る罪は霊的傲慢から来ます。そして、キリスト教会の中で特に恐ろしい罪は、マリア的霊的高慢です。

それは、自分は霊的な存在であると自負することで、特に指導者に絡み付く罪です。教団教派間の交わりの無さは、日本の教会の祝福を奪っています。また、教会の中で、あの人は霊的なことが分かっていないと批評する一方で、自分は人に仕えず、むしろ人を仕えさせる困り者もいます。マルタはマリアのようにみことばを聞くことに熱心になる必要があり、マリアはマルタのように実際に神と人に仕える必要があります。しかし、マルタがマリアに、マリアがマルタになるには、多くの時間を待たねばなりません。

マルタでありマリアでもある友よ。すぐにできることは、相手の現状を認めることです。そして、自分に与えられた賜物で、互いに仕え合い、互いのために祈ることです。

10章42節

「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

主は、マルタもマリアも愛していますが、御自分の足もとに座って聞き入るマリアの姿勢をより喜ばれました。

その姿勢は、「みことばへの聴従」です。聴従は、「聴き」「従う」が一体です。本気で主に聴く人の心は、聞いたことを実行に移そうとする人で、すなわち従う人です。一方、真剣に聴こうとしない者は、既に自分の考えがあるので、みことばは参考程度に聞きます。

彼女たちの弟ラザロの墓地で、「石を取りのけなさい」(ヨハ11章39節)と主は言われました。このみことばに「聴いて従う(石を取り除く)」時、中から四日も経って腐ったはずのラザロが生きて現れたように、神のみことばは神自ら成就されます。聴き従う人は、ラザロを復活させた神の御業を見ることになります。

友よ。ヨブは、「あなたのことを、耳にしてはおりました。」と言いました。しかし、聴くだけの者には、次の「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(ヨブ42章5節)の証しはついてきません。「もし信じるなら(聴従するなら)、神の栄光を見る」(ヨハ11章40節)のです。信じることは、主イエスのみことばに聴き従うことです。

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