キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第11章

11章1節

弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。

主は、弟子たちに祈りについて教えられました。旧約聖書の「十戒」、新約聖書の「主の祈り」は、聖書全体を代表する神と人の交わりについて教えます。

ペンテコステの後に、三千人ほどが洗礼を受けました。そして彼らは、「①使徒の教え(聖書の学び)、②相互の交わり(主を中心とした交わり)、③パン裂き(聖餐・礼拝)、④祈ることに熱心であった」(使2章42節)と記されます。

この4つは神の子の霊的生活の4輪です。その中で「祈り」が最後にあるのは、それほど祈ることは難しく、大切なことだからです。祈るためには、「①みことばを通して真理を知り、②互いに主に向かって歩めるように交わって励まし合い、③キリストの体として共に生きる」があってこそ、神との個人的な交わりも持てるものです。「祈り」こそ、自分の霊的バロメーターです。

友よ。知識は何のため! 兄弟姉妹の交わりは! 礼拝は! それらは神との交わりのためです。交わりは、あなたと聖霊による神との交わりです。「私も祈れるようにしてください」と、まずそのことから祈りましょう。

11章1~4節 主の祈り①

「天にまします、われらの父よ」

一般的に教会で祈られる主の祈りの言葉を用います

初めがあってこそ、今も将来もあります。同じく自分の存在した理由を知ってこそ、どう生きてどこへ行くのかも分かります。

人の初めは、「天にいます父」から始まりました。「天の父」は、「神は霊である」(ヨハ4章24節)お方です。そのお方に「命の息(霊)を吹き入れられ…生きる者となった」(創2章7節)人間は、両親から生まれて地上を生きて死ぬ者ではなく、神に造られた「霊的存在」で、永遠に生きる者です。

人は、「神から出て、神によって保たれ、神に向かう」(ロマ11章36節参照)存在です。したがって、人は自分の力によってでも、人々によってでもなく、神によって生きる者です。「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節)とは、まことの神を知り、信じ、聞き従う人生のことです。

友よ。神を「天の父よ」と呼ぶ時、あなたの存在は完成しています。なぜなら、その時から神はあなたを「子」として扱うことができるからです。天の父にはあなたが必要とする、愛・命・希望…すべてがあります。「父よ」と神に祈る時、自分が分かり、何をするかを知り、希望を持つことができます。「天の父よ」は、祈りのすべてです。

11章1~4節 主の祈り②

「御名を崇めさせ給え」

この祈りは、主の祈りの中でも難解ですが、「礼拝」の言葉に重なります。礼拝は、価値ある方(神)を価値ある方とすることでした。神の「御名を崇める・御名が聖別される」の両方とも、神が神とされますように、との祈りです。

子供にとって嬉しいことは、自分の親がほめられることです。親がほめられると、自分が褒められたのと同じように感じます。それには、子供の姿や行動が大きく関わります。

神の見えない性質や御心は、神の子たちの表す言行によって人々に見られます。したがって、この祈りは、「神を崇めます」と両手を上げて賛美するだけではなく、神の子の生き方に関わります。神が神として知られるためには、神の子である私たちが聖別されることが何よりも重要です。この祈りは、「神の子としての自分が聖別されて、父なる神を表すことができますように」との祈りになります。

友よ。私たちが「…栄光へと、主と同じ姿に造りかえられる」(Ⅱコリ3章18節)時、人々は神を神として認め、信じ、見るようになります。しかし、もっと大きな恵みは、あなた自身が神の中に深く入れられて、主の栄光の姿に変えられるほどに、神を崇めるようになることです。自分自身が聖別されることを祈りましょう。

11章1~4節 主の祈り③

「御国を来たらせたまえ」

「神よ。全世界を…神の国にしてください」との大きな祈りの前に、もっと地に足を着けた、小さな祈りから始めなければなりません。

神の子は、神の家族の中から誕生し、成長も神の家族があってこそできます。神の家族とは「教会」のことです。教会は、信仰告白した一人ひとりの集まりですから、何よりも一人の内側が神の国(支配)にならねばなりません。一人の聖別(御名があがめられる)とともに、神の家族なる「教会=キリストの体」がつくられていく必要があります。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(エフェ4章16節)。

この祈りは、キリストの体である教会がつくられ、守られ、発展するための祈りです。そこでいちばん大切なことは、「イエスが主」とされることです。一人が、教会が、イエスに支配される時、そこが神の国(御国)になります。

友よ。教会はとても大切です。その教会をつくるのは、神の家族の一員であるあなたです。「神よ。あなたが主となって、私の教会を御支配し、祝福してください」と祈りましょう。

11章1~4節 主の祈り④

「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」

「御名を崇めさせたまえ」は神の子の聖別を、「御国をきたらせたま」は教会のための祈りでした。毎週礼拝に加わり平和でいることから、この祈りはさらに先に進ませます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく…世が救われるためである」(ヨハⅢ章16~17節)こそ、神の御心を最もよく表している聖書の言葉です。

自分と自分の教会さえ良ければ、では自己中心的過ぎます。私を愛してくださる神は、すべての人を愛しています。他のだれかが滅ぶ時、父なる神の顔は憂えます。愛してくださる父を喜ばせるのは、父の悲しみを取ってあげることです。この祈りは、「全世界に出て行って福音を伝えよ」(マコ16章15節参照)と命じられた「伝道」のための祈りです。

友よ。伝道は、教職者だけではなく、あなたにも委ねられています。まずは、あなたがキリストの光で輝いてください。そして、教会を輝かせてください。教会の中に燃える大きな光の一つとされて、未信者のところに遣わされてください。そして、多くの人々に、「真の光であるキリストがあなたの神です」と告げましょう。

11章1~4節 主の祈り⑤

ある貧しい家族が食前に、「今日もパン(霊の糧)を与えてください」と祈ったら、すかさず子供が「チーズも!」と言ったとか! 人には、肉のパンも霊の糧も両方必要です。

「神の国とその義を求めよ…すべて添えて与えられる」は重要な真理です。しかし、だからといって日常生活が疎んじられてはなりません。神は、土の塵で人を造り、命の息を吹き入れて神の子としました。

人には、肉と霊の両方の糧が必要です。体のためのパンが無いと霊の糧を求められなくなり、霊の糧を食べないとパンを無駄にしてしまうこともあります。したがって、「ごく小さな事(日常のこと)に忠実な者は、大きな事(霊のこと)にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16章10節)となります。朝、聖書を読み、祈り、一日の仕事に向かい、夕べに感謝の祈りをささげ、主の日に礼拝に出席するなどは、祈りなくしては、自然にできることではありません。

この祈りは、神の御心に適う一日一日を整える祈りです。

友よ。喜んでも悲しんでも、得ても失っても、何を食べても、神に支配されて過ごす一日こそ、天国です。父と御子と聖霊の祝福が、今日一日、あなたの上に豊かにありますように。

11章1~4節 主の祈り⑥

「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」

罪人同士が共に生きるのですから、問題が生じるのは当然です。当然ですが、これを解決しなければ魂の平和と喜びは得られません。

この祈りを、「人々の罪を赦しますから、私の罪も赦してください」と間違って受け取ってはなりません。聖書の教えは、「わたしがあなた方を愛した(赦した)ように、互いに愛し合い(赦し合い)なさい」(ヨハ15章12節)です。

神と自分との関係がいちばんよく分かるのは、隣人を赦せるか、赦せないか、という他者と自分との関係からです。特に、だれかが自分に罪を犯す時、その人を赦すことはできなくなります。そこで他者を責めても、自分の愛の無さを嘆いても、問題は解決できません。自分に罪を犯す者を、自分の力で赦すことは不可能です。そして、「我らに罪を犯す者を、我らが赦す」の祈りに直面して、他者を赦せない自分の罪を知らされ、そこで神の御前に自分が出るように導かれます。

友よ。神は赦せないあなたの罪を裁こうとしているのではなく、「このことを通して、あなたはわたしのもとに来なさい。そうするなら隣人を赦す命を、わたしがあなたに与えます」と招いているのです。神はいつもあなたの味方です。

11章1~4節 主の祈り⑦

「我らを試み(誘惑)に合わせず、悪より救い出し給え」

小さな動物ほど、身を守るために岩の隙間や土の中などに隠れて身を守ります。しかし、人は最も偉大な被造物で自由を与えられたゆえに、むしろそれが罠となり罪となります。

口に出して祈る主の祈りでは「試み」と記されていますが、「誘惑」の方が適切です。神は、アブラハムをはじめ多くの者を試み、御自分に近づけました。

  • 「試み」は、人の中にある悪いものを捨てさせ、神のもので満たそうとします。
  • 「誘惑」は、神からの善いものを捨てさせ、人本来の罪の姿・肉で生きるようにさせます。

試練は神から、誘惑はサタンから来ます。しかし、サタンは独立して働くのでなく、人の罪に端緒を得て、その中に居場所を作ります。聖書は、「聖霊に満たされ」(エフェ5章18節)「霊の導きに従って歩め」(ガラ5章16節)と勧めます。この祈りは、自分の中に巣くう「肉」との戦いのための祈りでもあります。

友よ。神の子の最大の敵は、サタンではなく、むしろ神に支配されず、自分の命で生きようとする自己中心という「肉」です。サタンは既に頭を砕かれています。「重荷や絡み付く罪をかなぐり捨てて…完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブ12章1~2節)歩んでください。神はあなたを必ず守ってくださいます。

11章5~6節

「…友達がいて、真夜中にその人のところに行き、…『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』」

主は祈りを教えた後、真夜中に訪ねてきた友に出すパンの無い人の話をしました。

主の祈りを、真正面から祈れる人はいるでしょうか。その崇高さと真理の深さに後ずさりします。声に出して祈っても、祈りの要求に何一つ応えられません。そこで、夜中に訪ねてきた友こそ「主の祈り」を表し、それに応じられない自分の霊的姿こそ、「無いパン」です。自分にパンの無い者にできることは、近くの友人に借りに行くことです。

この友人こそ、主イエスです。主の祈りは、神の子のあるべき姿ですが、そのように生きる命(パン)は人の中にありません。だから、「主の祈りを実現するために、友なるイエスに求めよ」がこのたとえ話です。さらに、友人の必要を満たすパンは、主イエスから与えられる聖霊なる助け主です。

友よ。主の祈り(聖別・神の国建設・宣教・罪の赦し・日毎の糧・守り)を満たすお方こそ、友であるイエスです。「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました」(テト3章6節)。今日も、友なるイエスに、「主の祈り」を祈ってください。

11章9節 ①

その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。

裕福な友人ですから、すぐにパンを分けてあげても! と思いますが、しぶしぶでした。はたして、主イエスという友はどうでしょうか。

祈りの原動力には、①神の御心に促されていること(主の祈りこそ神の御心と促し)、それに対し②与えることができない自分への失望と限界(友人の来訪は買い物にも畑にも行けない「真夜中」であった)の二つが必要です。

しかし、達成すべきビジョンと、それに対する絶望だけでもだめです。訪問を受けた彼には、「良き友人」がいたように、自分の目的をどこで満たせるかを知っていなければ祈りは出てきません。祈りは、目的を果たせない自分の無力を知り、本当の友である主イエスに求めて行くことです。

友よ。友なるイエスが、戸を一~二回叩いても開けてくださらないのは、あなたの信仰を試しているのです。「神も・あの人も・自分も」から「神のみ」になる時を待っておられます。「義人は信仰によって生きる」(ハバ2章4節・口語)は、「信仰によって義人とされる(神の御心が成就する)」とも読めます。神の御心は信仰によって成就されます。

11章9節 ②

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

これほど有名な聖書の言葉はありません。そして、これほど誤解されている聖書の言葉もありません。それは、皆が自分の欲求を満たすためにこの言葉を使っているからです。

求めるのは…無いから、探すのは…失ったから、叩くのは…必要だからです。しかし。それでは何が「無く・失い・必要」なのでしょうか。恵み、命、平安、愛、希望、健康、食糧…でしょうか。確かにそれらは人に必要ですが、それらを失ったさらなる根源の理由は、「神」を失ったからです。だれでも、「神が無く・神を失い・神を必要」としています。神を求めずに、あのこと、この祝福を求める時、ただの我欲の追求になり下がります。

友よ。神以外のものを求めるのは下等な祈りである、と言うのではありません。愛を求めてください。健康を求めてください、必要な物質を求めてください、ただし、そのことを通してさらに神を求めてください。愛が無い現実から神の愛を求め、病気を通してさらに神を探し、経済的必要からさらに神の御臨在を求めるのです。

その時、神は必要なものを、不足の中に満足する心を、病に負けない希望すら与えてくださいます。人の問題は、神を求めるためです。

11章10節

「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」

口語訳

聖書は命の書です。皮膚も臓器も同じ命の中にあるように、一節に聖書全体があり、聖書全体で一節を読みます。そこで、一つの言葉を超え、文脈で理解することも重要です。

「求めよ・捜せ・叩け」は、主の祈りを教えられた文脈の中にあります。すると、求め、捜し、叩くのは、主の祈りが自分に実現されるように、「求め、捜し、叩く」ことであると分かります。

この祈りには、下記の事柄が含まれていました。

  1. 父よ、と呼ぶ神との親子の交わり 
  2. 神の子としての聖別 
  3. 神の国建設 
  4. 宣 教 
  5. 日毎の生活の満たし 
  6. 赦し(愛し合う) 
  7. 罪(肉)や悪(サタン)との戦い

これら全体は、キリストにつながり、キリストに委ね、キリストによって生きる(ヨハ15章1~17節参照)ことを祈り求めるように教えています。

あなたが「主の祈り」を祈る時、それが実現することを本当に信じ願っていますか。それとも、お題目を上げているだけですか。お題目ならば気休めしか受け取れませんが、真剣な祈りであれば、神が実現に向かって働き出します。神の御心を実現させるのは神ですが、それはあなたの祈りを待ってからです。

友よ。主の祈りこそ、何よりも真剣に祈りましょう。

11章13節

「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

人間の父は、魚や卵の代わりに蛇(汚れたもの)やさそり(害し傷つけるもの)を与えることもありますが、天の父は「聖霊」を与えてくださいます。

主の祈りは、唱えるだけなら何も起こりません。主の祈りを生きようとするならば、自分の無力と罪深さを知らされます。主の祈りは、神の子の生き方を示し、人の業によってではなく、友なるイエスから受け取るパン(聖霊)によって成就されます

主は、「聖霊を与えてくださる」と言いました。聖霊は、人が神の御業(聖別、教会、宣教の業、日毎の糧、赦し…)を行えるように助けますが、聖霊のもっと大事な務めは、父なる神と主イエスという御人格をあなたに与えることです。すなわち神を、「天の父よ」と言う信仰と交わりを豊かにすることです。

友よ。あなたが欲しいのは、聖霊の御業や賜物による行いですか。たしかに、素晴らしい御業と賜物は人を助けますが、人を救うのは神の御臨在と、神との人格的交わりです。聖霊の神は、みことばに従う者にそれを与えてくださいます。主の御人格があなたの中で大きくなる時、問題が無くならなくても、問題は解決されます。

11章14節

イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。

当時も今も、この世にはもろもろの諸霊が存在し、事実働いていますが、それらの霊が働いていることすら分からずに皆が生きています。

言葉は、人にとって何よりも大事です。言葉は、会話の道具以上のもので、その人の存在を表し、「霊」でもあります。誰と、何を話すかによってその人の存在が見えてきます。

人は、神の「言」によって造られました(ヨハ1章3節参照)。この「言」は、神であり、神の命です。ですから、人は神の命を持つ神の子として造られ、神の語りかけを聞き、神に応える者です。しかし、神から離れたために、人は本当の言葉(神との交わり)を失い、悪霊の支配下に置かれ、この世の言葉を話すようになりました。そして、神に対して「口の利けない者」になりました。

友よ。あなたは誰の言葉をいちばん多く聞きますか。日本語を聞き続けたから日本語を話せるように、聞いた言葉から話す言葉が出てきます。また、語彙(ごい)を多く持ち豊かに話すには、より多くの言葉を聞かねばなりません。悪霊からの解放の本質は、神の子の言葉の回復、「言葉=言=霊=命=愛」の解放です。

11章20節

わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている。

過去の歴史の統治者たちは、支配した国の言葉を変えようとしました。日本は韓国や台湾を日本語へ、ドイツはポーランドをドイツ語へ、英国はインドやアフリカの国々を英語へ、スペインやポルトガルは中南米の国々をスペイン語やポルトガル語へ…と。

「神の指で」とは、神の支配を表し、言葉は「支配権」と関係します。悪霊に支配されている人は、この世の言葉を語り(この世の基準に生きる)、神に支配される者は神の言葉を語ります(神の基準に生きる)。

ノアの洪水の後、「世界中は同じ言葉を話し」とは、「神という基準」で生きていたことを表します。そこから移住したことは、土地や場所の移動以上に、言葉(基準)を、「神」から「人」に移したことでした。すると、塔(権力者)を建て、町(権力者による支配)を造り、人が人を支配するようになります(創11章1~9節参照)。

友よ。聖書は「言=イエス・キリスト」を表す書物です。この言葉を聞くと、「この言の内に命があった」(ヨハ1章4節)ように、神という「人(神)格」が顕れてきます。みことばによって「言なるイエス」が内住し、この言なるイエスに支配される時、神の国があなたに実現しています。

11章21~22節

強い人が武装して自分の屋敷を守っている時には、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。

この個所をマルコの福音書では、「まず強い人を縛り上げなければ、…家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(マコ3章27節)と記します。

この世界と一人の心(家)は、サタン(強い人)に支配され、家財道具(神の子供たち)は思いどおりに使われていました。

そこに、もっと強い人(主イエス)が現れ、サタンを縛り上げて、家財道具なる神の子たちを奪い返しました。ただし、主イエスはこの時にサタンを殺したのではなく、縛り上げたとあります。それは、サタンの行動は、主イエスの血潮で縛り上げられて制約されていますが、口はまだ自由だということです。サタンは、神の子の中の「肉の人」(Ⅰコリ3章1~3節参照)に語りかけ、肉はサタンの声を喜びます。主の御声は霊の耳に喜ばれ、サタンの声は肉の耳に喜んで受け入れられます。

友よ。神はあなたを贖いました(奪い取った)が、なお自由を許し与えています。だから、神とサタンの両方の声が届きます。イエスを主とすると神の声が、肉の願望に同意するとサタンの声が聞こえます。あなたは家具ではなく人格ですから、選ぶのはあなたです。

11章23節

「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

主イエスこそ、罪とサタンと死に支配された世界から、人々を奪い返して神の子とし、御国に入れるために来られたお方です。

だから、主は人のために十字架につき罪を贖うのは当然、と言ってはなりません。「救われたのは救わんがため」は、主の勇士たちの口癖でした。それ以上に、愛していただいたならば、愛することは当然です。「主の味方」になるとは、自分を主の側に置くことです。「一緒に集める」とは、神の御心が実現するために、「神の国の建設(御国を来たらせ給え)と、罪人の救い(御心の天になるごとく地にもなさせ給え)」のために主と共に労することです。神の子たちは、主イエスが十字架で戦い、罪とサタンから奪い取った大事な神の家の家財道具(マコ3章27節)です。

主に健康にされた友よ。健康にされたことで満足しているだけなら、病が治ったのに、なおベッドに寝ているのと同じことです。そこから立ち上がってください。そして、主の陣営にはせ参じ、主の兵士とならせていただきましょう。そして、指揮官イエスに従い、次の家(未信者)に家財道具(救われていない魂)を奪うために押しかけて行きましょう。「進めつわ者、いざ進め、主の十字架は先だてり」(聖歌300番)

11章24節

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。」

神は人を土の塵で造り、命の息を吹き入れました。それを「神は人に永遠を思う思いを与えた」(コヘ3章)と表現し、神の子を「聖霊の宮」(Ⅰコリ6章19節)とも言います。

人の肉体は心の器で、心は霊のための器であり、ここが神の命を受け入れる場所として造られました。この場所は、「空(から)」であることはできないようです。ですから、常に命の主人を求めます。ただし、この場所には外から強引に押し入ることはできません。その人の許可を得たものだけが、主人として入る権利を得ます。

偶像礼拝という罪(神社仏閣への参拝、自然崇拝、拝金、霊媒、占い…)を犯している者の中には、悪霊が居着いて働くようになります。いずれにせよ、この場所は、「神の霊」か「それ以外の霊」が存在できる場所です。

友よ。霊の存在を軽んじないでください。しかし、むやみに恐れることも危険です。天地創造の神であっても、あなたの許可なしには入れないのですから、もろもろの霊はなおさらそうです。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩51・12節)と、ダビデのように祈りましょう。

11章25~26節

家は…整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」

人の中に霊を受け入れる部屋があり、そこに住む主人を求めるように、もろもろの霊も自分の居場所を人の中に探しています。この人から出た悪霊は、ほかの悪霊と共に戻りました。

信仰の告白は、それまで信じてきたものと決別し、イエスを神・主として受け入れることでした。それは、もろもろの霊を追い出し、聖霊を受け入れることでもあります。しかし、聖霊を受け入れたなら、自動的に神の子として成長するとは言えません。その聖霊を閉じ込めることもできます。それが、「聖霊を悲しませる」(エフェ4章30節)ことです。

聖霊が喜んで働ける所は、「イエスを主」とする人の心の中です。悪霊に戻られた人は、イエスを神と信じても、「イエスを主として生きる」ことを選ばなかった人です。中途半端な信仰を続けているうちに、サタンに隙を与えてしまいました。

友よ。自分で自分を制御できる人はいません。だから、誰に主人になっていただくかが重要です。自然界も人に関しても、外側の環境が命を造るのでなく、命が姿かたちや環境をつくっていきます。主イエスは、「命・真理・愛」なるお方です。このお方が内住するならば、命・真理・愛があなたに与えられます。それは、キリストの御かたちになることです。

11章27~28節

「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」…イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

イエスのような子を産み、乳を与える母がいたら、それこそ母親冥利(みょうり)に尽きます。しかし主は、本当の幸せは違うと言います。

人は、母から産まれ、母乳を飲むことからスタートします。しかし、どんなに理想的な環境からスタートした人生も、必ず壁に阻まれ、山に塞がれ、もろもろの社会状況の影響に翻弄され、理想どおりに行くことはほとんどありません。たとえ親子であっても、人間的つながりの限界があります。しかし、最悪の家族関係であったとしても、その中でまことの神とのつながりを持つ時、「私の人生は最高であった」と言えるようになります。幸いなのは、母親の乳(肉的関係)から離れ、みことばなる霊の乳を飲める神の子たちです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(Ⅰペテ2章2節)。

友よ。親離れ、子離れは、「世離れ・人離れ」ではないでしょうか。そして、神の命の乳であるみことばを食べ、「天の父とのつながり」を持つ者こそ、「なんと幸いな人」と言われる者です。目線を、この世と人々から天の父に向けてください。

11章29節

群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

主イエスの話を聞いた人々は大満足のようですが、しかし主は不満のようです。なぜなら、彼らは聞くだけでその先がなかったからです。

人々が聞きたかった話は、「しるし」でした。それは、奇跡や病のいやしや、時には律法学者やパリサイ人へ向けられる真理の剣の言葉でもありました。それらは彼らの肉を満足させる、

「耳当たりの良い話」でした。しかし、主イエスが人々に伝えたいことは、ヨナに表されたしるし、十字架と復活です。人を変えるのは、奇跡や上手なお話ではなく、十字架と復活以外にはありません。しかし、十字架の赦しの裏側には、「罪の悔い改め」が必ず付きまといます。罪の痛み、悔い改めが伴わない十字架の恵みは安価で、自分の都合の良いことだけ受け取る恵み信仰(キリスト教的御利益信仰)に終始します。それは、上っ面の救いと恵みであって、根本から人を変える命の恵みとはなりません。

メッセンジャーなる友よ、十字架の裏側の罪を語っていますか。みことばを聞く友よ、罪の悔い改め抜きの十字架を求めていませんか。あなたと教会が聖別される真理こそ、十字架と復活です。ヨナのしるしを求めましょう。

11章31~32節

「女王はソロモンの知恵を聞くために…。ソロモンにまさるものがある。…ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

シェバの女王はソロモンの知恵を聞き、ニネベの人々はヨナの説教を聞いて悔い改めました。しかし、イエスから直接みことばを聞いたユダヤの人々は、依然としてしるしを求めます。

シェバの女王が聞いたソロモンの知恵も、ヨナの説教も十分に神を語り尽くしたわけではないのに、人々は悔い改めて神を信じました。それでは、「ソロモンの知恵にまさるもの、ヨナの説教にまさるもの」とは何のことでしょうか。「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人」(28節)なのに、「しるしを欲しがる」(29節)とあり、さらに「ともし火(みことば)」(33節)と続く文脈から、それは「聖書」です。

ソロモンを教え諭したのは聖書であり、ヨナが授かった十字架と復活の説教も聖書そのものです。そして、聖書はイエス・キリストについて書いています(ヨハ5章39節)。

さらに聖書は、「命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(40節)と続けます。聖書の中に、奇跡や自分の慰めや都合を求めても、イエスを捜さない人は、「聖書読みの聖書知らず」になります。

友よ。聖書を読むことは、みことばの中に主イエスという人(神)格を読むことです。

11章33節

「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」

現代人には分かりにくいのですが、ともし火を置く場所があるようです。聖書で「ともし火」は、聖霊とみことばの代名詞となっています。

ともし火なる神の言葉はどこに置かれるべきでしょうか。

「穴蔵の中」
それは地面の下であり、みことばを「自分の下」に置くことで、自分がみことばより上に立つことでは。
「升の下」
火を消さないためテーブルの上の升の中に保存します。それは自分と同じ位置であり、自分もみことばも、というように、みことばを「自分の横」に置くことでは。
「燭台の上」
灯りが人を照らしますから、みことばを「自分の上」に置くことでは。

友よ。あなたはともし火なる神のみことばをどこに置いていますか。自分の下に置くことは、結局「自分が光」となることになります。次に、自分の横に置くことは、自分の都合の良い時は升から出し、都合が悪くなると升の中に戻すことです。利害で使い分ける、「神も自分も」の二心の者となります。みことばを置く正しい場所は、自分の上です。それは、みことばに自分を照らさせ、解釈させ(あらわにさせ)、自分をみことばに支配させることです。

11章34節

「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」

人と話す時は、相手の目を見るものです。目は、その人の内側にある真実さ、真剣さ、清さなど、人の命の質を表すからです。

「あなたの体」とは、人の存在のことで、それは「目」にいちばんよく表れるものです。「目が澄んでいる」とは、人間としての健全さを表します。また、その人の状態を表す目が澄んでいるか否かは、「ともし火」に関係があります。先に、ともし火は「みことば」であると記しました。

だれが持つ聖書にも、同じ言葉が書かれていますが、大事なのはみことばを置く位置です。みことばを自分の上に置き、自分を照らさせ、支配してもらうと(主イエスに支配していただくと)「澄んだ目=健全な心」がつくられます。その健全な目(心)は、神を愛し、隣人を愛する生き方へと導きます。反対に、みことばを正しい位置に置かないと、「濁った目」になります。

友よ。あなたの立つ場所は、「主の上・主と同じ位置・主の下」のどこですか。人の価値は、何を持ち、何ができるかではなく、主との関係がどうかによって決まります。主に全身を照らさせ「光の子」になって輝いてください。

11章35~36節

「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、…ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」

ともし火を受け取ったとしても、そのともしびが消えることもある、と右のみことばが告げています。ともし火が「消え・輝く」のはどうしてでしょうか。

ともし火はみことばであり、聖霊をも指します(マタ25章の「十人のおとめ」の記事)。罪を悔い改めてイエスを主と信じると、「賜物として聖霊」(使2章38節)を受け取ります。しかし、聖霊は人を自由にコントロールすることはできず、その人の許可を必要とします。その許可こそ、その人がみことばに従うか否かの決断です。

みことばに自分を従わせようとする者の中では、聖霊は喜んで働き、みことばに伴うしるしを起こします。しかし、みことばに従うことを拒むと、偉大な力を持つ聖霊でも引き下がります。それが「聖霊を悲しませる」(エフェ4章30節参照)ことです。

友よ。あなたのともし火は輝いていますか。神に従わない者は、升の中や寝台の下や穴蔵という自我の中にともし火(みことばと聖霊)を押し込めます。ある人は、能力・体力・特技・人々の評価によって輝きますが、それは一時的です。しかし、みことばと聖霊によって輝く者は、キリストの人格でいつまでも輝きます。

11章37~38節

ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。

ここよりしばらく、主イエスとファリサイ派や律法学者との議論に入ります。そこでは、命と宗教の違いが鮮明にあぶり出されます。

もろもろの宗教には、その神仏をあらわす形(像・社・人物)がありますが、聖書は「いかなる像も造ってはならない」と明記します。それでは、キリスト教の核心はどこにあるのでしょうか。それを聖書は、「初めに言があった。言葉は神と共にあった。言は神であった。…言の内に命があった」(ヨハ1章1~4節)と記します。そして、「言」なる神を表現するのが「言葉」であり、聖書です。ただし、聖書そのものは神ではなく、神を証しするものです(同5章39節参照)。それでも、神の受肉以前の旧約時代は、幕屋とその中の祭具、動物犠牲などで、見えない命を現わそうとしました。

宗教と命の間に迷う友よ。命と宗教の違いは、人が神を表すことを「宗教」と言い、神が人に御自分をあらわすことを「命」と言うこと、と定義できないでしょうか。したがって、聖書は「啓示の書(神が御自分を人に示す書)」であり「命の書」です。神を切に求めてください。しかし、神を自分で表してはなりません。神があなたに御自分を与えてくださいます。

11章39節

主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」

形や像はないのが聖書なのに、それに代わるものが登場します。その一つが律法主義です。律法主義は、クリスチャンにとって目に見えない偶像になります。

律法主義は、神の命を持たずに神の戒めを守り、神が望む祈り、断食、施しなどの宗教的行いをすることです。その目的は、自分の業で救いと命を造ることです。しかし主が山上の垂訓の中で言われた、「あなたがたの立派な行いを見て」(マタ5章16節)の「立派な行い」の聖書的意味は、「天的な行い(人の業でない神から与えられる行い)」のことです。そして、人が栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていくのは、「これは主の霊の働きによることです」(Ⅱコリ3章18節)。

ファリサイ派の人々は、「外側をきれいに」することで、内側に神の命を造ろうとしましたが、そうすればそうするほど「内側は強欲と悪意に満ちる」だけです。

友よ。神の法則は、「人が神へ」ではなく「神が人へ」、「行いによる命」ではなく「命による行い」、「かたち(組織など)による命」ではなく「命によるかたち」です。外側によって内側がつくられるとき、それはすべて偶像になります。

11章42節

「ファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。」

何もしないで怒られるのは当然であっても、一生懸命に良い行いをしたつもりなのに怒られてはたまりません。しかし、ファリサイ派の人々はそうでした。

神への感謝としての献げ物は、神から恵みを受けたから神に返す、というものです。それが逆転し、神から得るために献げることは、自分が主人になり、神をしもべにすることです。ファリサイ派の人々の献げ物や行いは、神への献げ物ではなく自分への献げ物になっていました。

それには神が応えられませんから、人々の評価に報酬を求めます。さらに、評価というものは他者との比較につながり、比較は自己宣伝と他者非難へと行き着きます。それが、主イエスへの激しい攻撃になりました。神が求めるものは、「正義の実行と神への愛」です。それが、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサム15章22節)です。

友よ。神は、聞き従うことを喜ばれます。「主よ、お語りください。しもべは従います」の心を、神は御自分への「正義と愛」の贈り物とみなされます

11章43~44節

「ファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。…人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」

ファリサイ派の人々への、主の激しい攻撃がなおも続きます。主の怒りは、聖なる怒りと真理の擁護であり、神を神として提示するためでした。

主イエスの御生涯から、本物の命の特質は「へりくだり」であると教えられます。自分を空しくして人の姿をとり、弟子たちの足を洗うしもべとなり、罪の身代わりに十字架につき、パンと葡萄酒を食べよと渡されたように、主は御自分を与え尽くしました。

へりくだりは、相手のために自分が仕えます。一方、ファリサイ派の人々の行為は、表面は白く塗られた墓のようですが、その心には相手から良い評価を得るため、という偽善が詰まっていました。「その上を歩く人は気づかない」とは、彼らの教えを聞く人々は、偽善に気づかず、彼らと同じことをするようになる、と言うことです。

友よ。ここで主に責められているのは自分自身だ、と思うならば幸いです。信仰生活に「遅い」はありません。信仰は、神の御業で完成されることで、自分の業ではないからです。そうです、今気づいたこの時に、あなたの目を主イエスから離さないならば、主があなたを完成してくださいます。

11章46節

「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」

主は、「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、…『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」(マタ23章7~10節)と明言されました。

ある人が、「私の教会では、いつも教会生活についてのメッセージが多く、主御自身については少ない」と言いました。実に、律法学者たちの教えがこれだったのでは?

律法や教会生活の教えは、受け取った救いを守り完成するために必要です。しかし、本質である命そのものが明確にされなければ、どのように正しく律法を守り、魂を成長させるのかが分からなくなり、方法論(律法・教会生活)が本質論(命)に代わってしまうものです。

友よ。命は、聖霊と聖書から示されるイエス・キリスト御自身の中にあります。「命なるキリスト」を語らずに、教会、奉仕、献金、伝道についてばかり語るメッセージは、むしろ「重荷を負わせる」ことになりかねません。重荷は主が負ってくださいます。あなたは、主を、主だけを求め続けてください。すると、主は聖霊とみことばにより、正しい知識と判断と、あなたの次の行動を示してくださいます。

11章47~48節

あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てている…。先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。

「歯に衣を着せぬ」どころか、主の歯は研ぎ澄まされた刃物のようです。この時、迫害された預言者たちの顔が、主の脳裏を横切っていたのではないでしょうか。

「ある預言者が神の言葉を語る。人々は反対して殺す。時代が過ぎると迫害された人が聖人や英雄になる。一体、何が変わったのか……神の御心が変わったのか。否、人々の信仰が変わったのである。どのように、『自分の信仰を信じる信仰に』」。

これは、ある本から得た説明で、説得力があります。また、「夫の癌の祈りを要請したら、『信じて祈れば必ず治る』と。これは本当に信仰なのか。なぜなら、信仰とは主を信じることであって、主の御業(いやし・家族円満・経済的繁栄…)を信じることではないはず」。これもある人の告白であり、アーメンと言うほかありません。

友よ。「神からの信仰」と「自分の信仰」を見分けてください。「自分の信仰」を信じてはなりません。病気がいやされて「イエスを主」とし、いやされないことで「イエスを主」とし、問題が解決されてもされなくても「イエスを主」としてください。御業を行う神ではなく、共にいてくださる神を信じるのです。

11章52節

「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」

律法学者たちに対する主の怒りは、彼らによって神の国を閉ざされた人々への愛が、聖なる怒りになって表れたものでした。

「知識の鍵」とは、天国へ入るための知識であり、それを与える最たるものが聖書です。歴史をさかのぼると、聖書は紀元五百年に入ると、一般の人々から取り上げられ、「公教要理」がそれに代わりました。しかし、一般の人々はそれすら目にできませんでした。それから宗教改革までの約一千年間を、「暗黒の中世」と呼び、それこそ「みことばの光を失った暗黒」でした。暗黒は、内なる光(キリスト)が、外なる形(組織・政治・律法・行い)に包まれて生まれた暗闇でした。「夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」(ヨハ11章10節)。主が言われる「不幸な人」とは、外側で内なる命を造ろうとした人々です。神の真理は、内側(命・信仰)によって外側(行い)がつくられると語ります。

「内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう」と主が憂いました。友よ。不幸な人にならないでください。人の幸不幸は、光であるイエスを持っているか否かです。

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