キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第13章

13章1~2節

ピラトがガリラヤ人の血を…。 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。」

「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け…」と使徒信条に名が出てくる人物が彼です。西暦26年から36年までユダヤ・サマリアの総督を務め、訴えられたイエスの裁判の席に就いたのも彼でした。ピラトはローマ的統治を行い、ユダヤ人から大きな反感を買いました。

人々は「ピラトに殺されたガリラヤ人や、シロアムの塔が倒れて死んだ十八人(4節)は、よほど罪深かったのだろう」と考えました。それに対して主は、「彼らが特別に罪深いのではなく、すべての人は悔い改めなければ同じように滅びる」と言います(3節)。また、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」という今日でも根強い疑問に対して主は、「本人でも…両親でもなく、神の業が現れるためである」(ヨハ9章)と答えました。

友よ。この盲人も、ピラトの狂暴なふるまいの餌食になった者たちも、シロアムの塔の下敷きになって死んだ者たちの悲しみも、その問題の根源はアダムとエバにあり、神から離れて生きている人類にあります。しかし、ここで主は、問題の解決を地上に求めることをやめさせ、神に求めさせたのです。過去の影響から逃れられなくても、これから受け取る結果(死と裁き)から解放する救いこそ、「悔い改め」です。

13章3~5節

「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じ様に滅びる。」

災いに遭うことを恐れていた人類は、心の奥底で罪を意識していました。だから、災いに遭遇しないために、身を清め、もろもろの神頼みに走りました。

それなのに、災いや不幸に見舞われた人を罪人と定めます。ところが、他者の罪は探せても、自分の罪は見えません。むしろ、他者の罪と災いを話題にしては、自分を善人の立場に置き、自分の救いをつくり出そうとします。主はそのような人の本質を見抜いて、「あなたも悔い改めなければ、滅びる」(4・5節)と、2度もはっきりと語りました。

「こんな人が教会にいるのはおかしい」と、「こんな人だから教会にいなければ」とでは、天と地の差があります。両者の違いは、自分の罪が見えているか否かです。自分の罪が見えない人は他者を裁きます。自分の罪が見える人は、「罪人の私が生きているのは、主の憐みだ」と、相手の罪を見るのではなく、主の恵みを見ます。

友よ。「あの人の罪は……」ではなく、あなたが神に真剣に向き合うことです。それは、ガリラヤ人の罪を主に問うのではなく、自分の罪を主に問うことです。カナンの女のように、「主よ、どうかわたしを助けてください」が、「娘を助けて」より先です。すると、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(マタ15章21~)との主の宣言を聞けます。

13章7節

「園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』」

いちじくの木が実を結ぶことを3年待ったのに、いまだに実を結びません。オーナーは切り倒すように命じますが、園丁が「もう一年待ってください」と嘆願しています。

このぶどう園の持ち主は、誰でしょうか。オーナーは父なる神で、園丁は主イエス、と考えがちですが、そうすると父なる神は冷たい営利主義者になります。

そこで、このぶどう園の持ち主を「人(特に他者を裁く人)」、園丁を「主イエス」と考えてはどうでしょうか。主人(裁く人)は、「この人(いちじくの木)は役立たず・クビにせよ・追い出せ」と、自分の利益に反する人を切り倒そうとします。しかし、園丁なるイエスは、「あの人の欠けや弱さを直しますから、もう少し待ってください」と、裁く人に嘆願している……と考えると、現実味があります。

神に赦されている友よ。自分こそ裁かれて当然な者でしたが、今なお切り倒されず生きているのは、ただただ神の憐みによるものです。あなたは誰かのオーナー(裁き主)になっていませんか。しかし、この世界も、あの人も、この人も、オーナーは神御自身であり、あなたではありません。裁くあなたのためにも、主は十字架につかれたことを忘れてはなりません。

13章8~9節

「木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」

園丁は主人の前で粘ります。それは、何とかしていちじくの木の命を守り、実を結ばせたいからです。

「あの人は……」と声高に他者を責める人こそ、身のほど知らずです。神はすべての人に憐み深いお方ですが、裁かれている人への憐みは特別です。園丁は、裁かれているいちじくの木(人)に対し、肥料をやり、手入れをし、心を注ぎます。

裁く人と裁かれる人の違いはどこにあるのでしょうか。人間同士では、裁く人も裁かれる人も、結局は同じ罪人です。しかし、裁く人は自己義認を押し通すので主の十字架に行けず、裁かれる人は主の十字架に行く以外になくなります。なぜなら、自分の努力では実を結べないので、自分を園丁にゆだねて実を結ぶ以外に生きる道がなくなるからです。

友よ。自分の罪を知って(実が無いことを認め)、園丁に自分をゆだねてください。すると園丁は、「もしそれでもだめなら、(私=園丁=主イエス)を切り倒してください」と、あなたの罪の身代わりに、御自分が罪の代価を十字架で支払ってくださいます。人の勝利は、自分の義を通すことではなく、罪を抱えたまま十字架のもとへ行くことです。

13章10~11節

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。

18年間も背中が丸くなり、腰が曲がったままの女がいました。リューマチなのか関節炎なのか?しかし聖書は、「病の霊に取りつかれている」と記します。

18年間の病が彼女に与えたものは、下ばかり見て過ごす挫けであり、治そうと頑張っても結局病気に負けた無力感でした。さらに、「病の霊に取りつかれている」という言葉は、彼女の力を超えた霊によって、彼女が縛られていることを表しました。

肉体が変形し、心が挫け、悪霊に取りつかれているこの女の姿を見た人々は、彼女を「罪人」と見なしました。「肉体・心・霊」の3つから成り立つのが人ですが、彼女に正常なものは何一つありませんでした。

失望・挫折・無力に沈む友よ。どうかこの女を見てください。それは、「自分はまだ彼女よりはましだ」と思うためではありません。見てほしいのは、これほどの失望・挫折・無力の中にいながら、なお神様を礼拝する会堂に通い続けている彼女の姿です。神に対して、「だから、失望する」人がいる一方で、「だから、求める」人もいます。

友よ。あなたには、「だから、(さらに熱心に神に)求める」人になってほしいのです。

13章12節

イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、

腰が曲がり、背丈は人の半分ほどになり、罪人のレッテルを張る人々の目を避け、皆の最後に会堂に入って来る女に、気づく者はいません。しかし誰が気づかなくても、ほかの誰を見ずとも、彼女に目を注ぐ方がおられました。

この女が病から解放された原因を、右の短い聖句の中に2つ見ることができます。それは第一に、女が会堂にいたことです。「私はこのような身なので、人前に出られない」と尻込みしたくなるのは当然です。また悪魔も、「礼拝や祈り会に参加しても、呪われたお前には恵みなど来ない」と退けます。しかしそれでも女は、会堂に来て礼拝しようとしていました。

第二に、より重要なのは、会堂に主イエスがおられたことです。主は、「あなたは再び『捨てられた女』と呼ばれることなく…。あなたは『望まれるもの』と呼ばれ、…『夫を持つもの』と呼ばれる。主があなたを望まれ、あなたの土地は夫を得るからである」(イザ62章4~5節)と、誰にもはばかることなく言われます。だからイエスは、「その女を見て呼び寄せ」られました。

友よ。誰の目を気にして主に近づけないのですか。自分で腰を伸ばし、もっとまともな姿になってから、主の御もとへ行くべきでしょうか。いいえ、あなたがするべきことは、腰の曲がった姿のまま、主の御もとへ行くことです。

13章13節

その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

女の人生は、18年の病から来る心の挫け、無力、敗北感、それに追い打ちをかける罪責感によって、地面ばかりを見つめる人生でした。それは、罪とサタンの束縛に苦しむ人の姿です。しかし、主の御手が女の上に置かれた時、女の腰は伸び、彼女は神を賛美しました。

人は、自分の前にある試練よりも、むしろ後ろにある試練に負けるものです。前にあるものであれば、自分にも選択の余地があります。しかし、出生・成育・病・環境などの中で負った過去の傷や、背負わされた重荷には、選択の余地がなかったものが多くあります。

女は、腰を伸ばして顔を上げようと必死にもがきますが、18年間も背負わされた重荷がそれを許しません。「病の霊」とは、「罪と死の束縛」そのものです。しかし、解放者である主は十字架の血潮によって罪を処断し、罪を無いものとすることで死を滅ぼし、復活の命を与えます。そして、復活の命がもろもろの霊の力や過去の傷や重荷を打ち負かします。

友よ。あなたの伸びない腰(出生・成育・重荷・病・傷・弱さ・身につけた悪習慣……)の上にも、主は御手を置いてくださっています。この女の解放は、主が御手を置いたことと、女がそれを信じて腰を伸ばしたことの、両方が合わさることで実現しました。主が「床を取り上げて帰れ」(マコ2章11節)と言われるのに、なお寝そべってはいませんか。

13章16節

「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

この女のいやしは安息日に行われました。会堂長はそのことに腹を立て、このいやしが無効であるかのごとく、異議を申し立てます。しかし主は、「この女はアブラハムの娘」だからいやしたのだ、と反論しました。

アブラハムは最初から完成していた人ではなく、主によって造り変えられた人でした。彼の人生は、エジプトに下る・ハガルによりイシュマエルをもうける・彼らを追い出す・約束を笑う……など、失敗の連続でした。それでも彼が祝福されたのは、失敗するたびに、主に向かって信仰の目を上げたからでした。アブラハムは「信仰の父」ですが、彼が後の子孫に救いを与えたのではなく、彼の足跡(信仰)が人々に救い主を示しました。18年も地面を見続けた女こそ、実にアブラハムの娘でした。腰は曲がっていても、父アブラハムのように、18年間も主に信仰の目を上げ続けました。会堂に通い続けたことこそ、その証です。

アブラハムの娘である友よ。会堂長は「安息日なのに」と言い、主は「安息日だからこそ」と言っているようです。あなたが主の前に出る時、周りの人々の目を気にしていませんか。女は周りの冷たい目に負けず、信仰の父の足跡をたどりました。ここに解放があります。

13章17節

こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

会堂に居合わせた人々は、主イエスの御業を見て、神をたたえ喜びました。信仰は理想や理念ではなく、現実(出来事)であるはずです!

カールフリード・デュルクハイムが、『HARA=肚』という本を著し、日本人の人格は「肚(はら)」にある、と言ったそうです。日本の古来の文化は「肚(呼吸法)」に表わされている、と。日本文化の代表としての「能」が、顔の表情は変えないのに、悲しみ、怒り、恨み、喜びを顔以上に表せるのは、訓練によって「肚」でそれを作り出しているからだ、と。日本には「肚に収め」「肚を決め」などの表現があります。しかし福音は、悲しみや喜びを自分の肚に収めて何事もないように振る舞うことではありません。むしろ神の恵みとして、神の事実を受け取り続けることです。それは、主イエスを自分より大事なお方とし、受け取ることです。

日本人であり、クリスチャンである友よ。私たちが恵みの福音に生きるのが困難なのは、受け取る文化(恵み・賜物)の中にではなく、自分で消化する文化(行い・肚)の中にいるからではないでしょうか。もっと恵みに左右される者に、聖霊に支配される者になり、神の御業が現される者になりたいものです。

13章18~19節

イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」

「種」は実に重要です。種の中にある命が、命のかたちを造り出すからです

人の体は肢体から、肢体は器官から、器官は細胞からできています。さらに、細胞はタンパク質から、タンパク質はアミノ酸から、アミノ酸は細胞核から、……染色体から、……核酸(DNA)から……。これが人の種のようです。

それでは、鶏が先か、卵が先か? あるいは、親が先か、遺伝子が先か? 結論は、「神が先」です。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人は…生きる者となった」(創2章7節)とあるように、神の命が神の子を造ります。神の命の種は完全ですが、「人が取って庭に蒔く」必要があります。種(みことば)を蒔く庭とは、自分の魂のことです。しかしその庭では、肉(親から引き継いだ種)が成長し、場所をふさいでいます。

友よ。最も激しい戦いは、命の世界で起こるものです。殺人も戦争も、人間一人の中の肉と霊の戦いの延長線上にあります。既に神は純粋な命の種をあなたに与えています。種を庭に蒔き続けてください。「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために…」(Ⅰテモ6章12節)。

13章20節

また言われた。「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」

からし種は胡麻の数分の1の大きさしかなく、パン種はパン粉全体の1/100にも満たない量しかありません。しかしそれぞれが、2メートルを越える木と、大きなパンになります。

2000年前にナザレから出た大工の息子が、「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1章15節)と言って蒔いた神の命の種は、何十億人の魂の中にとどまり、成長し、そこから派生した文化や生活様式は未信者にも及び、各国の法律の基礎にさえなっています。その根本は、神のパン種である「聖書」に起因します。「人は…神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタ4章4節)。この「一つ一つの言葉」は、過去形で「二千年前に出た」のではなく、現在進行形で「今も出ている」のです。みことばは、受け入れる者に聖霊と共に働き、生きたパン種となってとどまり、成長し、実を結ばせます。

パン種を受け取った友よ。小麦粉であるあなたは、パン種であるみことばに支配されねばなりません。そのためには、一度みことばを受け取ればよいのではなく、今も受け取り続けることです。また、パン種が大きくなるのではなく、パン種によってあなたが大きくされるのです。それは、キリストの御形(みかたち)に変えられることです。

13章23節

「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。

「救われる人は少ないのか」の質問は、「なぜ多くの人が滅びるのか」の質問へ発展します。

愛なる神が人々を滅ぼすはずはない、とは誰でも考えたいことです。しかし聖書には、「滅びに通じる門は広く、…そこから入る者が多い」(マタ7章13節)とあり、さらに、「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」(黙20章15節)ともあります。

愛なる神なのにひどい、と結論づける前に、「一人も滅びないで永遠の命を得るために」主イエスが人となって降臨し、十字架につかれたことを考えましょう。そうすると、正しい結論が見えてきます。「神は『義と聖の神』であって『愛なる神』ではないから、人を救えない」と考えるのは誤りです。完全で偉大な愛なる神であっても滅びから救い出せないほど、神の愛に反抗する人が多いのが現実だからです。

友よ。神の愛を疑う前に、救いを拒む人の罪を考えてください。主は、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(マタ23章37節)と嘆かれました。しかし、神の愛は人の罪を超えています。だから、神の愛を疑わずに、神の胸に飛び込んでください。その時、はっきりと愛なる神の姿が見えます。

13章24節

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」

ルカ福音書は「戸口」と言い、マタイ福音書では「門」と表現しています(マタ7章)。戸口も門も、分別や区別、世界の違いなどを表しています。

日本人は、白黒をはっきりさせることを好まないようです。仏教の教えは、地獄は認めても、「死」は輪廻転生をもって隠します。死を隠せるのは、罪があいまいにされているからです。真の神からの基準があってこそ、またその神が実際に生きて働いてこそ、罪が明らかにされます。神が神とされなければ、罪も救いも相対的なものにされます。すると、救いと滅びはその人の意識次第となり、天国に入るも入らないもその人の自由となってしまいます。

しかし、友よ。「立ち上がって、戸を閉め」る主人がいることを忘れてはなりません(25節)。戸はあなたの思いによってではなく、主人の判断によって開け閉めされます。だから、主人の考えに自分を合わせねばなりません。恵みの戸が開くのも閉じるのも、あなたの行いではなく心次第です。心が神に開かれているか、閉じられているかです。あなたが白黒を決めるのではなく、真理があなたを白(命)か黒(死)かに決めるのです。

13章25節

家の主人が…戸を閉めて…からでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。

主人に「知らない」と言われるまでの僕たちは、外で楽しみ、上機嫌で帰って来たのでしょう。罪の本当の恐ろしさは、最後に知ることになります。

罪が、恐ろしく、汚れた醜いものだったら、だれも罪には近づかないでしょう。しかし、むしろ罪ほど美しく魅力的なものはありません。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように」(創3章6節)見えます。そこで、美しく甘い罪を「取って食べ」ると、「一緒にいた男にも渡し」、他者をも巻き込みます。そして食べた後に、罪の苦さに気づきます。すると、それまでは互いに心の清さを表す「裸」であったのに、自分の心を隠すように葉を腰に巻きます。さらに、男は妻をかばうこともせず、「あの女が」と妻に責任転嫁し断罪しました(創世記3章6~7節参照)。そして、女も蛇に責任転嫁して自分の罪を認めません。

友よ。罪は、最初は美しく甘く、しかし食べると苦くなり、さまざまな問題を起こします。それでも人は堪え、乗り越え生き続けますが、「戸を閉ざされる」時に、罪の本当の恐ろしさを知ることになります。神から離れて楽しんでいても、最後に戸を閉ざされることこそ、人の本当の悲劇であり、永遠の死です。

13章26節

「そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。」

締め出された人々は、かつて主人が広場で話すのを聞き、みことばを喜び、さらに主人の家に上がって共に食事をした人たちのようでした、が。

人の救いとは、神の家に入り、「父と御子と聖霊の交わりの中にいる」ことです(ヨハ17章21~23節参照)。すると、罪とは神の家から離れていることです。神の子たちは、父の愛を安価なものにしています。それは、自分の罪の甘さに気づかないからです。「愛の神は、自分たちが罪を犯しても赦し続けてくださるから、最後にしっかりと戻ればよい」と甘く考えてもいます。

《寓話》

村祭りに行きたい猿が、人に化けて参加しようとした。仲間から忠告されても、「踊らにゃよかろう。酒飲まにゃよかろう」と振り切って出て行った。しかし、酒を飲み、踊り、尻尾を出して、ついに捕まったとさ……

友よ。「神は愛だから、何度でも赦してくれる」というのは事実ですが、天国の戸が閉まるまでに帰らなかった人がとても多いのです。神の愛を、もっと真剣に考えるべきです。もちろん主はどこまでも赦しますが、主の愛を真剣に受け止めずにもてあそんでいるうちに、あなたの方が主から離れてしまうのではないでしょうか。

13章29節

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」

神の国に入る門は、恵みの門です。恵みとは、自分の能力や行いによらず、だれかの能力や働きによって与えられるものです。

この恵みの門は価(あたい)なしに通れます。……「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」(イザ55章1節)

この門は、放蕩息子がくぐった門です。……息子の父は、肥えた子牛を連れて来て、屠って迎えました。この子牛こそ、罪の代価となられた神の子・イエス御自身でした(ルカ15章23節)。

この門は、だれでも通れます。……人種、性別、年齢、能力や、過去と現在の事実を超えて、「東から西から、また南から北から来て…」(29節)入ることができます。

価なしに、キリストの血潮によって、誰でも入ることができます。

友よ。人が滅びるのは、罪を犯したからではなく、恵みを拒むからです。この門から締め出される条件が一つだけあります。それは、あなたが拒むことです。同じく、聖別の門はだれにでも開かれていますが、拒む者にだけは開かれません。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」(ヨハ3章18節)。恵みを拒んではなりません。

13章30節

「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

何十年も信仰しているのに成長していない人がいる一方で、洗礼を受けて数年も経っていないのに成長している人もいます。なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。

神を信じて過ごした年月は、何ものにも代えがたい宝です。人々に主を証しした働きも恵みです。主が備えた霊の指導者との出会いは、神にある父母を得た恵みです。主が古今東西に備えてくださった聖なる器との本を通した出会いは、確かな知識の宝を得た恵みです。

しかし、信仰歴・働き・指導者・知識などに依存する「恵み信仰」になってしまうと、最近に神を信じた人の後になる可能性があります。神からの恵みの数々は、主イエスと自分が直接交わりを持つための手段だったのです。主は、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハ6章44節)と言いました。

友よ。父が引き寄せることができる人とは、主イエスが与え備えた恵み(長年の信仰歴、主の器として用いられたこと、素晴らしい霊の導き手との出会い、霊の知識……)などに目を注ぐ人ではありません。イエスという御人格(神格)に目を注ぐ人です。同じ年月、信仰生活を送りながら、前進する人と停滞する人の違いは、恵みに目を注ぐか、主御自身に目を注ぐかです。主に目を注ぐと前進でき、恵みに目を注ぐと後退します。今日も一歩先に進んでください。

13章31節

ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」

ファリサイ派の人々の忠告は、一見、親切で愛情深く見えますが、実際には、「狭い門」を語る主を追い出し、自分たちの「広い門」を正当化したい、という思惑がありました。

宗教家たちにとって、主イエスは邪魔者でした。そこで彼らは、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」(イザ35章4節)とのインマヌエル預言がイエスによって成就したことを否定し、人となられた神・イエスを取り除こうとしました。これではまさに「元も子もない(神を失い、恵みも得ない)」ことになり、彼らは自分が信じているはずの神を、自分で取り除くことになります。それこそ、「神の実体がなく、信仰だけある」もろもろの宗教と同じように、「自分で虚飾した自分の信仰を自分で信じる」愚か者に成り下がります。

友よ。私たちもだれかを諭すとき、その人から主イエスを除き、自分の義を入れてしまいがちです。そうするのは、自分の中で、主を退けて自分が主となっているからです。信仰は単純です。イエスを信じ、イエスを主として生きるために、自分の十字架を背負うことです。すると、「我生くるにあらず、我が内にキリスト生くるなり」(ガラ2章20節・文語訳)となります。

13章32~33節

「『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。…預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからだ。」

「主イエスを殺せる者は誰か?」とは過激な質問でしょうか。歴史を見ると、権力者たちも国家も、イエスを殺すことはできませんでした。

ヘロデのような権力者たちは、すぐに「狐」と見破られ、民衆によって権力の座から追い落とされました。ローマ帝国による初代教会への迫害も、実際には百五十年も続かなかったとも言われます。しかし、中世のキリスト教国での暗黒(暗黒の中世)は千年続きました。

イエスの働きを妨害するものは、国家でも独裁者でもなく、エルサレムです。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(34節)。エルサレムとは、神が住まう「神の宮」のことです。宗教家たちはエルサレムを我が物にしていました。そして、「あなた方はその神殿なのです」(Ⅰコリ3章16~17節)と言われるとおり、一人一人がエルサレムでもあります。

友よ。主イエスを殺す(排除する)ことができるのは、あなた自身です。しかし、主があなたの中で御業をやめることはありません。そして、主はエルサレム(あなたのその罪)のために死なれるのです。あなたのエルサレムは、主イエスが王となる場所です。

13章35節

「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」(34節)とまで主は言われましたが、それに応じることなく、滅びに向かう人が多くいます。

ユダヤの宗教家たちは熱心に聖書を読んでいましたが、的が外れていたようです。そこで、次の2つの表現、「神を用いて、神の言葉へ行き着く」と、「神の言葉を用いて、神御自身へ行き着く」の違いに注意してください。

前者はユダヤ宗教家たちの姿であり、彼らが神の御名を用いて到達したのは聖書の言葉です。そうすると、彼らは聖書の言葉を自分で成就せねばならなくなり、「律法と行い」の世界に入らねばなりません。後者は「福音」であり、聖書の言葉を通して神に到達し、神によってみことばが自分の中に実現されることです。

神を信じているのに、神が明確に見えず、空しさを覚えている友よ。あなたは神の言葉にとどまり、冒頭のみことばが告げるように、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と主を迎えていますか。それは、イエスを自分の主人として受け入れることを表しています。イエスを自分の主人とするとき、信仰の空しさが消えます。

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