キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第17章

17章2節

「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」

「自分があの人をつまずかせたのではないか?」と疑心暗鬼に陥ったり、「あの人こそ海へ投げ込まれるべきだ!」と人を裁いてしまったりしていないかと、身が引き締まります!

「小さい者」とは、文字通りの幼子や若者や知識・経験の少ない者も含みますが、それだけではありません。「小さい者」とは、「その人の内にキリストが小さい人」、すなわち「信仰の弱い者」と言うこともできます。霊的な幼子はあらゆることにつまずきやすいものです。そしてそのような人は、霊の高嶺に登れないからつまずくのではなく、自己中心に振る舞う肉のクリスチャンに対してつまずくのです。霊の人が肉の人に出会うと執り成して祈るようになり、肉の人が霊の人に出会うと悔い改めますが、信仰の弱い者が肉のクリスチャンに出会うとつまずきます。したがって、「つまずきは避けられない。だがそれをもたらす者は不幸だ」(1節)と言われます。

 友よ。「小さい者」が自分であると自覚できるならば幸いです。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(マタ23章12節)からです。だから、主が自分を受け入れてくださったように「信仰の弱い人を受け入れなさい」(ロマ14章1節)を心に留めてください。

17章3節

「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。」

相手の罪を指摘し、悔い改めさせることは難しいものです。相手が百パーセント罪を犯していても、指摘する側の対処が悪いということで、立場が逆転することさえあります。

罪を犯した者が罪を指摘されて悔い改めることも、被害者が罪を悔い改めた相手を赦すことも、同じように難しいものです。それらが難しいのは、「自分を基準」にしているからです。

そこで、聖書は人間関係について、「愛に根ざして真理を語り」(エフェ4章15節)なさい、と勧めます。「愛と真理」こそ、「キリストを基準」とすることです。

さらに、「一日に七回罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦しなさい」と続きます。一回でも難しいのに、七回は人の限界を超えます。

友よ。「赦す・赦せない」「赦された・赦されていない」にとどまってはなりません。「赦す・赦される」には目的があります。それは、「頭であるキリストに向かって成長」(エフェ4章15節)する、という目的です。相手と良い関係を作るため以上に、主があなたを赦し続けている、というあなたと主イエスとの関係をよく知るためです。「神によって、私は赦され、あなたも赦されているのですから、私たちも赦し合いましょう」こそ、両者の正しい関係です。

17章4節

「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

堪忍袋の緒が切れる、とはまさにこのことでは! 「イエス様は神様だから赦すことができても、我々俗人には無理です」と言いたくなります。

「赦す」という言葉には、「許す」以上の意味があります。聖書は罪に対しては、「赦す」の言葉を使います。「許す」は、相手の行動や現状を許可する(認める)ことです。「赦す」は、相手から受けた犠牲や不利益を、自分で受け取ることを良しとすることです。

したがって、赦すことは、自分の自我が死なないとできません。まして七回も繰り返すことなどできませんが、一つだけ道があります。それは、相手が云々ではなく、自分自身を主に取り扱っていただくことです。それによって、「自分が死んでも(自我・肉)死なない命(永遠・神)」(ヨハ6章50~51節参照)を受け取ることができます。

友よ。主は、「父よ、わたしが飲まねばならないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(マタ26章42節)と祈り、ゴルゴタの丘へ向かわれました。主は、御自分の命を父の中に持っていたので、すべての人のために死ぬ(赦す)ことを受け入れられたのでした。

17章5~6節

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば…。」

使徒たちは自分の信仰が小さいことを知って、それを大きくしてください、と主にお願いしました。すると主は、からし種一粒の信仰があれば十分なのだ、と言われました。

実際のからし種の大きさは胡麻の半分もありません。しかし、「天の国はからし種に似ている。…畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」(マタ13章31~32節)と言われる植物です(筆者の体験では、日本で植えても二メートル五十センチを越えました)。人は小さな種の外観を見て、それを自分の信仰と思います。しかし、主は小さな種の中身を見られます。その中にはその人の命を超える偉大な神の命が宿されており、無限の可能性が潜んでいます。

 自分の信仰に失望している友よ。失望するのは、怠惰で、喜んで聖書を読めない、小さな種粒の自分を見るからです。たとえそうであっても、今一度、あなたの中に宿る聖霊の命に目を向けてください。小さな種だったペトロは後に、「私たちを見なさい…。金銀はないが持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(使3章4~6節)と、種の命である聖霊によって大胆に語り出しました。

17章6節

「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことをきくであろう。」

信仰の力は、山を海に沈め(マタ21章21節)、桑の木を海に飛び込ませます。しかし、山や桑の木とは何でしょうか。

だれでも生きる上で、外(外部)と内(内面)に問題を抱えています。外側にある問題を「山」にたとえ、内側にある問題を「桑の木」にたとえることができます。信仰によって、人生の大きな「問題の山」を海に移し、平地にします。桑の木は、地上に伸びる倍以上も地中深く根を張り、乾燥地でも生き延びる植物です。それは、人の心に深く根を張る「自我」を表し、だれも抜き出し捨てることはできません。それができるのも、信仰という小さな種の命の力です。

信仰は、「キリスト・イエスに結ばれ…その死にあずかる…共に葬られ…一体になって…共に十字架に…共に死んで…共に生きる…」(ロマ6章3~11節参照)とあるように、人を主イエスに結び付けます。すると、主の御業がその人に行われるので、山も桑の木も海に移されます。

友よ。自分では根を引き抜けませんし、「海に入れ」と命じるだけでもだめです。まずは、からし種の殻(あなた)が主の愛に包まれて破れることです。すると聖霊が自由に働き、自我を抜き去り(自分の十字架を背負わせ)、海に沈めます。

17章10節

「自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

僕は、畑から帰ってもすぐに食卓に着かず、主人の給仕をした後で食べるものであり、しかも、「しなければならないことをしただけです」と言うべきだ、とあります。

仕事を終えた僕は、務めを十分に果たしたとしても、主人の先になってはなりません。人は、信仰を働かせ、山や桑の木を動かして海に沈めると、それが神の命(からし種の中の命)の力でなく、自分(種)の力であるかのように勘違いするものです。

「信仰が無くては神に喜ばれません」(ヘブ11章6節)の「信仰」を、自分の能力と考えてはなりません。主人に先立つ者(主人よりも前に食事をする僕)は、やがて僕の職を失います。そのことを、「つまずきに先立つのは高慢な霊」(箴16章18節)と先人が忠告しました。

友よ。問題の山と自我の桑の木が動かなくとも、それで失望してはなりません。病気が治らないからこそ、主に熱心に祈り、隣人を愛せないからこそ、より主の愛を求め、失敗し自分に失望するからこそ、神の栄光を見る、などといった恵みを受け取ることができます。人にとって幸せなことは、信仰によって問題を無くすことではなく、いつも主の御前に正しい僕でいる信仰を持ち続けることです。

17章11~12節

イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ったまま大声を張り上げて…言った。

主がエルサレムに行く途中、ある村に立ち寄った時、十人の重い皮膚病の者たちが大声でいやしを請いました。そこで、主は彼らをいやされました。

この物語の順序を逆にすると、反対方向からのメッセージが見えます。すなわち、「重い皮膚病を患い苦しむ十人の者がイエスの噂を聞き、出会いたいと願った。しかし、行動範囲が制限されているので、彼らが主を訪ねることはできない。そこで、主の方が彼らに会うために、サマリアとガリラヤの間にある村へ出かけられた」と。

すべては神から始まりますが、人の求めがないと実現されません。主の準備は整っていて、御自身の御心の時に必ず来て、触れてくださいます。そして、主がなさる御業には一つの目的があります。それは、「わたしが主であることを知るようになる」(エゼ7章4・9・27節。11章10・12節)ことです。

主から心が離れている友よ。主は遠回りしてでもあなたのところへ行こうと願っておられます。どうぞ自分の病(不自由、病、悲しみ、苦しみ、不和、不安……)を隠さず、「イエスさま、先生、どうか私たちを憐れんでください」(13節)と叫び、祈ってください。

17章14節

イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

重い皮膚病の者たちが、「イエスさま、先生、私たちを憐れんでください」と言ったのに対し主は、「あなたの病はいやされた」とは言わず、ただ「祭司に見せなさい」とだけ言いました。

同じように、土につばをして泥をこねて目の不自由な人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗え」と言った記事もあります(ヨハ9章参照)。この時、「土につば」の泥を塗ったのは、人が土の塵で造られ、命の息を吹き入れられて生きる者となったことを象徴します(創2章7節参照)。

「土(自然生命)」と主の「つば(主の命・息)」に、神の再創造の御業を見ます。しかし、神の再創造はその場の一瞬のいやしの出来事ではありませんでした。盲人は行って洗ってから見えるようになり、重い皮膚病の者たちは祭司に見せに行く途中にいやされました。

友よ。聖書のみことばを読めば主が分かるはずなのに、なかなかわからない、と言う人はいませんか。しかし、読み続けてください。彼らがみことばに従って「行ってから・途中で」いやされたように、従い続ける中でいやしが始まり、回復が行われ、自由にされていきます。一気にではなくても、途中で必ず主の愛の御業が見え、主御自身が見えてきます。

17章15~17節

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。…イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」

重い皮膚病の者たちは、祭司に体を見せに行く途中で十人全員がいやされました。しかし、主のもとに感謝するために戻ったのは、十人の中の一人だけでした。

十人とも同じ体験をしたのに、その内の九人と残りの一人では、その後の歩む方向が違いました。九人の者たちは祭司のところへ飛んで行き、完治の証明書をもらい、そしてこの世に胸を張って出て行ったに違いありません。しかし、一人は賛美しつつ主イエスのもとに戻ってきました。九人が見たのは「恵みと自分」であり、彼らは恵みを受けるに値する自分を誇ったことでしょう。「恵みと主イエス」が見えたのは一人だけでした。彼には、祭司に見せる前に、受けるに値しない自分に恵みを与えてくださったお方のもとへ駆けつける必要がありました。

友よ。恵みを受けて、十分の一は主に栄光を帰しても、十分の九は自分の栄光にしていませんか。神の恵みは、私たちが自分を誇るためではなく、私たちを主御自身のもとに導くためにあります。重い皮膚病をいやされた九人は、恵みを間違って受け取って「主を失い」、主のもとに戻った人は、恵みによってさらに「主を得ました」。パウロの勧め……「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(Ⅱコリ6章1節)。

17章17節

そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。

主がいやしを行われたのは、彼らがこの世で健康で不自由なく生活するためだけではありません。主の目的は、彼らを御自分のもとに戻すことでした。しかし、いやされた十人の中で、主に感謝するために戻ったのは一人だけでした。

いやしは、見える現実の恵みを通して、見えない霊の恵みに導くためです。同じいやしでも、小さなはれ物をいやすのと、癌をいやすのとでは、いやしの意味と感謝が違ってきます。小さなはれ物のいやしは人を体の不自由から解放し、癌のいやしは人を死から解放するからです。

聖書で言う「重い皮膚病(かつては「らい病」と表記)」は、人を死に至らせる病、「罪」の代名詞でした。戻らなかった九人は、重い皮膚病を、肉体の死を招く恐ろしい病とだけ考えました。しかし、主のもとに戻った一人は、病からの解放を罪からの解放と結び付けて受けとめたに違いありません。だから彼は、主のもとに賛美しながら戻りました。

友よ。バト・シェバと姦淫した罪を指摘されたダビデは、「あなたに、あなたにのみにわたしは罪を犯し」(詩51・6)ました、と神に対する罪の告白をしました。罪意識が深いほど恵みの価値は大きくなるので、「(罪に)悲しむ人々は(主に向き合うので)幸いである」となります(マタ5章4節)。

17章19節

それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

病をいやされ、神を賛美しつつ帰って来た人は、体のいやしの何千倍もの恵み、「永遠の命」を受け取りました。しかし他の九人は、健康を取り戻しても、結局は土に還ることになります。

主が彼に語られた言葉こそ、何千倍の恵みであり、まさに罪の赦しの宣言です。彼は体の健康以上に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちて」(ヨハ1章14節)いるお方、イエス・キリストを得ました。

病のいやしや恵みの数々は、それ自体が救いなのではなく、人を救い主のもとに導き、救い主に直結させるためのものです。「あなたの信仰があなたを救った」とは、「あなたの体のいやし(恵み)が、魂の救い(永遠の命)を得させた」ともなります。

友よ。「主イエスは恵みを与え、恵みは主イエスに導く」健全な信仰に立ち続けてください。不可能が可能になった、小が大になった、異言や預言や賜物を与えられた……どれも神の恵みです。しかし、その恵みを見て、主の御もとに戻る者にこそ、本当の恵みが与えられます。恵みによってさらに大きな恵み=主イエスを得てください。

17章20節

ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。」

自分がいつ結婚し、いつ病気になり、いつ死ぬのか分かるのは、良いことか否か? それでは、いつ神の国が来るのか、分かる方がよいか、知らない方がよいか?

神の国はいつ来るのか、キリストはいつ再臨されるのかは、大きな関心事です。聖書には、偽キリストの出現、戦争や戦争の噂、国や民族間の争い、天変地異、迫害、偽預言者の出現、世界宣教、異邦人の時の終了、愛が冷える、とその徴(しるし)が記されています(マタ24章・ルカ21章参照)。しかし主は、「見える形では来ない」と言います。

事実、神の国とは、物理的な範囲や統制ではなく、霊的領域における支配権の問題なのです。それは、イエスを主としてお迎えし、聖霊に心を支配していただき、心と行動が主の御心に沿って働き、それが他者に仕える愛となっていくことです。

友よ。行い、教会の人数、建物、組織などの、見えるもので神の国を造ることはできません。あなた方の「霊、心、体」が神に支配され、主を中心とした「二人または三人がわたしの名によって集まるところ」(マタ18章20節)が、神の国です。「国」とは支配のことです。神に支配されたところが神の国です。神の国は、もう既に来ています。

17章20~21節

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

見える形で神の国を造ろうとした人々は、いずれも完成できませんでした。なぜならば、神の国は「形」ではなく「命」だからです。

神の国の命については、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(Ⅰヨハ5章1節)「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ロマ8章14節)と言われます。さらに、「御霊によって歩み」(ガラ5章16節)「御霊に満たされなさい」(エフェ5章19節)のみことばも神の国を教えています。したがって、神の国は御霊によって「生まれ」、御霊に「導かれ」、御霊に「支配」される者の中にあります。それは、「イエスを主として生きる」者であり、その人は「光の中(神の命の中)」(Ⅰヨハ1章7節)を歩みます。しかし、イエスを主と信じても、自分の命で生きる者は、「闇の中を歩く」(同5節)人です。

友よ。あなたは神の子ですが、「光」と「闇」のどちらの世界で生きていますか。「光」は、イエスを主として生きる人が住む世界です。「闇」は、イエスを主と信じても、自分を主として生きる人が住む世界です。神の子でも罪を持ちます。その罪とは、「闇(肉)」にとどまっていることです。そこを出て、いつも「光」の中(神の国)で生きてください。

17章23節

「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。」

主イエスが来臨されて以来、偽キリストは数え切れないほど現れました。また、数えきれないほど多くの偽物の終末預言を聞かされてきました。

主は、「神の国はいつ来るか」よりも、「神の国は何か」が大事であると語ります。主の言葉をまとめると…

  1. 神の国は見えない(物理的な国ではなく霊的である)
  2. あなた方のただ中にある(信者の中にある神の命である)
  3. 神の支配である(イエスが主となり、聖霊に支配される状態)
  4. 主の来臨と十字架、復活、昇天から既に神の国は始まっている。
  5. やがて主が再臨し、地上に千年王国が実現される
  6. 最後の審判の後に天において完成される

…と、聖書全体から理解できます。

神の国は二千年前に到来し、「個人の内」と「互いが愛し合うただ中」に存在し、やがてより完全に地上と天で完成します。

友よ。再臨のキリストの噂に惑わされ、「出て行って…その人々の後を追いかけてもいけない」とあります。あなたがイエスを主としてお迎えしていれば、永遠の神の国も既に来ているのです。浮き足立ってはなりません。聖書の真理によって見分けてください。

17章26節

「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。」

「今は終末だ、世界は間もなく終わる」と何度も聞きます。今は終末ですが、主は間もなく再臨するのでしょうか。むしろ、終末を強調する偽キリストと偽預言者に注意が必要です。

彼らには次のような特徴があります。

自分をキリスト・預言者と呼ばせてはばからない
それは高慢そのものです。キリストの行動は、「人の子は…多くの苦しみを受け…」とあるように、人に仕えるためであり、人を自分に仕えさせることも、(金銭的なものも含めて)人に求めることもしません。
カリスマ的であり、しるしを強調する
しるしは人をキリストの御人格に結びつけるためですが、彼らが力や恵みを強調するのは、自分自身に人々を引き付けるためです。
自分だけが特別な啓示を受けた、他の人の教えは間違っている、と言う
新しい啓示はもうありませんし(黙22章18~19節)、キリストの体として生きることが大事です。

友よ。自分自身が偽者になっていませんか。①自分を誇る高慢、②人々をキリストにでなく自分に引き付ける、③自分の信仰を強調する、などは、小さな偽キリスト・偽預言者の姿です。へりくだり、仕え、キリストだけを示しましょう。

17章26~27節

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが…、」

徐々に目に見えるかたちで終末が来るなら良いのに、と願いますが、そうはいきません。「稲妻がひらめく」(24節)ように主は来られる、とも聖書には記されています。

それは、皆が普通に生活している中に起こることを教えています。普通とは、衣食住や家族のことに夢中になっている人の営みです。しかし、この普通は人が考える普通であり、神にとっては異常なことです。神の普通は、「神の国とその義を求める」ために日常があることです。

人は皆、神の国に生きるべき者です。神の国とは、神の命を受け取り、それを他者と分かち合う、愛に生きる生活のことです。ノアの時代に普通(人が考える普通)に生きていた人の中で、救われた者は一人もいませんでした。彼らが滅んだのは、彼らが神の国を持っていなかったからであり、霊(神の命)ではなく肉(人の命)で生きていたからです。ノアとその家族だけが「命の霊を持つ肉(人)なるもの」(創7章15節)になっていました。

友よ。あなたの普通は、この世と神の国のどちらにありますか。前者の人々は、「地上で動いていた肉なるものすべて…息絶え」(同21節)ます。箱舟(神の国)を造ること(自分がキリストに支配されること)を普通として生きたノアとその家族に倣ってください。

17章29~30節

「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。」

ある青年が、「神を信じない人は、天から火が降って来て殺される」と友人のクリスチャンから教えられ、キリスト教嫌いになったとか。言葉どおり、火と硫黄が降るのでしょうか?

しかし、主の再臨は世界の終りではなく、千年王国の始まりです。すると、世界が焼けただれ、不毛の地になることはなさそうです。

来臨の主は御自分の十字架で罪を滅ぼし、人を救いました。再臨の主は罪人と義人を分けることから始められます。それは、アダムとエバが罪を犯す前のエデンの園を回復するためです。来臨の主は人の「罪」を取り除きましたが、再臨の主は罪を取り除くのではなく、「サタンと罪人」を取り除かれます。ソドムへの裁きによって、ロトとその家族はかろうじて救われましたが、他の人々は罪に対する裁きの火と硫黄を受けてハデスに移されました。

友よ。その火と硫黄は、人々の罪を引き受けた十字架上のイエスに、既に下されました。だから、「主は陰府に下り(使徒信条)」ました。イエスを主と信じた者は、既に天からの火と硫黄の洗礼を受けたのです。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者と」(ロマ6章4節)なったのですから、もう罪の裁きは過ぎたのです。ハレルヤ!

17章30~31節

「人の子が現れる日にも、同じことが起こる。その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。…畑にいる者も帰ってはならない。」

イエラエルの歴史の中で二度、この忠告を思い出す出来事がありました。最初は、前五八六年のバビロニアによるエルサレム陥落。次は、後七〇年のローマ軍によるエルサレム陥落です。民は聖なる都エルサレムを過信し、そこに集結しましたが、それが災いを大きくしました。

それでは、屋上から降りず畑から帰らないで、何をすべきでしょうか。当時の記録によれば、民がエルサレムに集結したのは、偽預言者たちの甘い言葉を聞いたからでした。彼らが人々に見せるのは、似て非なるキリストです。それは宗教的儀式であり、彼らは、神の御心(バビロニア捕囚は神の御心でした)を、バラ色の御心(エルサレムは神の都だから神が守ってくださる)にすり変え、民の心を引き付けました。今日でも、教会とは「霊の教会(霊の体)」であるはずですが、「箱の教会(組織・人中心)」にすり変わる危険性があります。それらを取り違えてはなりません。

友よ。だれでも再臨の主を迎える時が来ます。必ず来るその日は、あなたが自分の肉体を脱ぎ捨て、神の御前に立つ時です。その時、キリスト以外のものは何も役に立たず、必要もありません。ですから、その場、その時のために、今日もキリストだけを求めてください。

17章33節

「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」

上述の言葉を伝える聖書個所は、福音書中ほかに6ヶ所あります(マタ10章38節・16章25節、マコ8章34節、ルカ9章23節・14章27節・ヨハ12章25節)。そして、この言葉は信仰のキーワードになります。

ノアの時も、ロトの時代においても、人々が滅んだのは、彼らが自分の命を生かそうとしたからでした。彼らが失ったのは、天国に入るための永遠の命です。

この言葉は、未信者に対しても神の子たちに対しても語られています。神の子たちがこの言葉に従わずに失う命とは、「神の子として生きる勝利の命=聖霊の満たし・聖別の恵み」のことです。肉は偽預言者の偽りの祝福を慕い、霊はみことばによって神への服従を願います。

しかし、霊と肉の両方を受け取ろうとする者は、神の御霊を悲しませます。未信者は自分を主として永遠の命を失い、神の子たちは神も自分も両方を主としようとして聖霊の満たしを失います。「イエスを主とする者=自分の命を失う者」は、今も後も、勝利者になります。

友よ。「逃れて自分の命を救いなさい」(創19章17節・口語)とは、「自分の肉の命から逃れて、霊の命を救いなさい」という、神の子たちへのメッセージです。人はパン(肉体と世の命)によって生きる者ではなく、神の口から出る言葉(霊の命)によって生きる者です。

17章34~36節

「その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」

当時の狭い家では、二人の男が一つのベッドで眠り、重い臼は二人の女が力を合わせて挽きました。二人とも同じ所にいるのに、一人は取り去られ、一人は残されると言います。

この記事は、「その時」の設定により理解が異なります。「携挙」の時であれば、連れて行かれた者は義人で、残された者が悪人です。「主の再臨」の時であれば、残された者は義人でそのまま千年王国に入り、取り去られた者はハデスに送られる人です(筆者は、主の再臨の時に地上から悪が除かれて千年王国が始まり、携挙は最後の審判で行われる、と考えていますが、真実は分かりません)。いずれにせよ、「『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。…父の御心を行う者だけが入るのである」(マタ7章21節)が明確な答えです。

友よ。終末のことはだれにも明確には分からないので、不安になりますが、恐れる必要はありません。ただ「狭い門、細い道」(同13~14節)を歩むことに心を注いでください。それは、「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラ2章19~20節)のみことばの中で、日々生きることです。

17章37節

そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

死体のある所には、はげ鷹が集まりますし、霊的命のない肉のクリスチャンの周りにもはげ鷹なるサタンが集まり、さらに、類(肉)は友(肉のクリスチャン)を呼ぶものです。

礼拝や集会でみことばを聞いた後、兄弟姉妹の会話が世間話だけになるならば、互いの分かち合いも祈りも出てきません。それは、命なるみことばが捨てられているからです。その時、はげ鷹は上空で舞い始めます。はげ鷹が狙うのは人の「肉」です。

再臨の主を迎える神の子の心が、みことばと聖霊の支配の中で生きていないならば、はげ鷹は舞い降りて、「一人は連れて行かれ」(36節)るように、サタンと世に奪われます。

パウロがテモテに、「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい」(Ⅰテモ6章14節)と言った「掟」とは、肉に死んで霊に生きる「聖別」の生活のことです。

友よ。それは「どこで・いつ」でしょうか。答えは「あなたの中で・今」です。信仰は神に直結するので、永遠性を持ちます。よって、神にあっては「今」と「永遠」は同じです。あなたの心がはげ鷹に狙われないように、光の中を歩んでください。

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