キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第21章

21章1節

イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。

主は、神殿で献金をしている人々の姿を見ておられました。ここから、神が喜ばれる献げ物について知らされます。

主が「目を上げて…見られた」とは、「神の眼(基準)で見られた」ことを表します。信仰については、「言葉でなく行い(金額)である(マタ7章21節のある解釈)」と、「神は心を見られるから行い(金額)は不要(サム上15章22節のある解釈)」の、二つの考えが出て来ます。

「人は行いによって救われる」も、「神が与えるのは当然で、人は受けるだけでよい」も違います。前者は律法主義に陥り、後者は、神を知識で知るだけで、神の愛を体験していない無責任な人の言い分です。愛を「受けた」者は、自己中心が溶かされ、愛してくださった方に自分のすべてを「与える」ものです。

友よ。神は、金品ではなく、「あなた自身との交わり」を求めます。金持ちが求めたのは「人々の評価」でしたが、貧しいやもめが求めたのは「神御自身」でした。賽銭箱にお金を献げた人は、自己満足と他者の評価を得ましたが、神に自分自身を献げた人は、罪の赦し・永遠の命・平安・人々の信頼……という恵みを受け取ります。神の恵みは、神との交わりの中にあるからです。献金は、神に自分を献げることです。

21章2節

ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、誰よりもたくさん入れた。」

主の眼は、金持ちが献げた額も、貧しいやもめが献げた額もしっかりと見ていました。まさに、全知全能の神です。

ある集会で、某メッセンジャーが言いました。「献金の多い少ないは、献げた額でなく、残っている額によって量るべき」と。金持ちは多く献げましたが、残っている額は絶大でした。やもめが献げたのはレプトン銅貨(一デナリの百二十八分の一、一デナリ=一日の賃金)二枚でしたが、残金はゼロでした。残った額から、貧しいやもめが断然多く献げたことになります。

献金する時、「神」と「他者」と「自分」の三つの目が光ります。人は、神には目をつぶってもらい、自分の良心の目は納得させて別の所(理由)に向け、他者(教会・牧師・人々)の目をいちばん意識する、となりがちです。

教会員の立場に立つ友よ。あなたの目が誰に向いているかを見極めてください。献金は信仰を量る大事なメーターですから、できれば毎月の献金額を自分でしっかりと決めてください。神の教会よ、できれば無記名方式を取り入れてください。献金は、神に・信仰によって・無記名で・精一杯、献げてください。

21章5~6節

イエスは言われた。「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」

BC63年からユダヤはローマに支配され、BC36年からヘロデ王がユダヤを統治しました。彼は、民から人気を得るために、神殿を再建しました。

「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物」と言ったのは弟子たちでした(マルコ13章1節)。目に見える現実が、見えない大切なことを見失わせるものです。神によってではなく王の見栄によって造られた神殿は、霊の眼をふさぎ、人々の信仰を堕落させました。

現代の人々を幸せにするはずの神殿なる物質的繁栄、情報を持ち歩く利便性は、人から霊的命を奪うものにもなります。素晴らしい石と建築物を誇っても、「一つの石も崩されずに他の石の上に残らない(完全に破壊される……四十年後に成就)」結果を受け取ることになります。

友よ。見えないものから見えるものが出てきましたが(ヘブ11章3節参照)、その見えるものが見えないものを表すこともあります(自然界は神の御手を、男と女であることは三位一体の神を、神殿は神の御姿と御業を)。見えるものが不必要なのではなく、見えるものに目をとどめると間違いが生じるのです。すべての見えるものの背後にいる、神に目を注いでください。何よりも、聖書によって神を見、神によって世界の出来事を見てください。

21章8節

彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

十字架へ向かう主は、弟子たちに今後のことについて語り、準備をさせようとしました。

その主の最初の言葉は、「惑わされないように気をつけなさい」でした。キリスト教の歴史の中で、多くの教派や教団が生まれましたが、その大きな理由は、聖霊論と終末論における解釈の違いだと言われます。確かに、聖霊論は、聖霊の多種多様な働きをそれぞれが経験したことが理解の根底となるので、皆が一様には理解できません。終末論は、まだ先のことであり経験していないので、推測の域になります。

そこで、大事なことは、「惑わされない」ことです。特に終末論については、細かく断定する解き明かしほど気をつけねばなりません。終末論に対しては、「はっきりとは分からない」が、最善で真実な答えというほかありません。

終末は、再臨は、いつ来るのか、と惑う友よ。終末は大事ですが、それ以上に大事なことは、今、自分が主との継がりと交わりを持ち続けることです。主は「アルファであり、オメガである」(黙1章8節)お方ですから、今日、自分が主にしっかりと支配される連続の先に終末があります。終末は命が完成される時であり、その時に命が与えられるのではないからです。

21章7節

そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」

主は終末について語ります。終末と聞くと人は恐れますが、終末とは何でしょうか。

終末は、「どんなことが・いつ・その前兆は……」と考える人には恐れとなります。ダニエル書や黙示録から、具体的に事細かに終末を解き明かす人もいますが、具体的であるほど疑問も出てきます。そこで、終末に起こる出来事以上に、終末の意味を大事にすべきです。

終末とは、「キリストと再び出会う時」(ヘブ9章27節参照)です。そして、最後の審判とは、「神の子として完成される時」(黙21章参照)ですから、恐れではなく喜びの時です。したがって、終末は主の来臨と十字架の時から既に始まっています。十字架と復活が、神に会う恐れを希望に変えました。

友よ。神に与えられた命は、永遠の命です。永遠とは、「過去、現在、未来を貫く」ということです。今日、神の命に生きる者は、個人的終末においても、世界的な終末においても、恐れる必要はありません。それどころか、「朽ちるものが、朽ちないものに。卑しいものが輝くものに。弱いものが強いものに。自然の体が霊の体に」(Ⅰコリ15章42~44節参照)変えられます。終末は、何よりも、キリストの花嫁になる時です。

21章8節

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。」

終末の兆候の一つは、「偽キリスト」の出現です。過去にも、今も、多くの偽キリストが出現しては消えていきました。さらに、これからも出てくるのでしょうか。

真の神である主イエスに代わるものはすべて偽キリストですが、それらは、聖書を用いる偽者と、もろもろの宗教や人物としての偽者の、二つに分けられます。神の子たちにとっては、前者の、聖書とキリストを語る偽キリストに注意が必要です。

聖書を用いるが、「私がキリストだ」と堂々と名乗る人であれば、明らかに偽者と見破れますから、まだ安心です。見破りにくい偽キリストとは、あたかも自分が神に直接聞いたかのように、間違った教えを語る人です。信仰はみことばを信じることなので、間違った教えを信じることは、偽キリストを信じたことに等しくなるからです。三位一体やキリストの贖罪が崩れていなくても、終末論は人を間違った方向に導きやすいものです。

友よ。生死を決定する終末は重要です。しかし、さらに必要なことは、現在から二千年前の出来事に自分が一体となることです。それは、主の来臨、十字架、復活です。先(終末)よりも、後ろ(主の来臨・主が語られたこと・十字架・復活)がもっと重要です。

21章9節

「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」

戦争や暴動では莫大な破壊エネルギーが動き、「これが世の終わりか」と心が騒ぎます。

かつて「エホバの証人」の指導者が、一九一七年の終末を予言しました。数年後の一九一四年に第一次世界大戦が始まりました。偽預言と出来事が重なり、人々の心は偽預言に捕えられ、クリスチャンだった人々も偽の王国に駆け込みました。戦争や暴動が人を殺すのでしょうか。いいえ、本当の命にかかわる戦争は、第一次、二次、三次世界大戦ではなく、罪との戦いです。

《中国、迫害の中での実話》

刑場へ運ばれる数十人の死刑囚たちは、狂乱状態でしたが、その中に一人のクリスチャンがいました。彼はトラックから降り、静かにひざまずき、神をあがめ、恐れることなく銃弾を受けて逝きました。いいえ、彼は完成されました。

友よ。人類にもあなたにも、本当の命の戦争は主の十字架の上で起こりました。人を殺すのは、戦争でも食料不足でも暴動でもなく、罪です。見える出来事に振り回され、神から受けた霊の命を殺してはなりません。本当の命のために出来事を用いるべきです。戦争と暴動の噂におびえず、むしろ罪のために泣く者になってください(ルカ23章28節を参照)。

21章10節

そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。」

終末の三番目の兆候は、民族と民族、国と国が敵対する争いだ、と言います。

日本の近代において、近隣諸国への侵略に始まり、太平洋戦争が終わるまで、国民は戦争に翻弄されてきました。それは、一部の人々だけの罪ではありません。国民の一人ひとりも、「これは間違っている」と言えない罪を犯し続けました。

第二次大戦後の世界は、国家間の全面戦争は影を潜めましたが、冷戦が続きました。民主主義の浸透(三権分立)と技術革新によって、世界の列強は食料増産に成功し、食料の安定を得ていたからです。世界の状況を突き詰めると、思想以上に「食糧問題」に行き着きます。

そして、争いのさらなる根本原因は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタ4章4節)の正しい優先順位を間違えるところにあります。それは、「パン(肉の命)」が、神の口から出る「パン(霊の命)」に先立つことです。

戦争の噂を聞きおびえる友よ。人類は、神のみことばのパンよりも肉のパンを優先して、血を流す争いを起こしてきました。しかし今、肉のパンが足りて、罪と戦う霊の戦いはないがしろにされています。それが、現在の先進国の教会を衰退させています。霊の問題が解決してこそ、肉の問題も解決されます。霊と肉の世界大戦は、今日も続いています。

21章11節

「…大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」

地震や飢饉や疫病は歴史上何度も起こり、その度に多くの人命が失われました。そして、その度ごとに、「これが終末か」と人々は不安を掻き立てられました。

ある人曰く、「世界に終わりが来ると言っても、自分の死こそ本当の終末だ」と。さらに、「戦争・災害・飢饉…などで死のうとも、畳の上で死のうとも、最後はみんな同じだ」とも。

しかし聖書は、「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブ9章27節)と記し、死は同じでも、その後が違うことを伝えます。

また、「死後の世界があってもなくても関係ない」と言う人がいますが、それも違います。死後の世界が「ある・ない」によって、地上での生き方が違ってくるからです。天国が「ある」と信じる人は、もろもろの災害や病に打ち負かされることはありませんが、「ない」と思っている人は、もろもろの災害や病に遭遇すると、人生の歯車が狂い、失望のどん底へ落とされます。

友よ。自然災害や飢饉や病に出会わないことが幸いなのではありません。どんな人生を歩もうとも、「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11章28節)。すなわち、「どのように生きたか」よりも、「誰と生きたか」が大事です。主イエスと共に生きる者にとっては、終末は、人生の目標ではあっても、恐れではなくなります。

21章12節

「これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。」

初代教会以来、迫害は絶えませんでしたが、それでも神の子たちは増え、ローマ帝国を、ヨーロッパを、全世界を席巻していきました。

キリスト教は「血の宗教」と言われます。それは、主の十字架の血もそうですが、迫害の血があまりにも多く流されたからです。ある人々は、「だから宗教は怖い」と言います。

それでは、なぜ、キリスト教は妥協できないのでしょうか。それは、命だからです。命には妥協が無いからです。馬とロバは同じ種に見えますが、多少違います。馬とロバの交配によってラバが産まれますが、ラバは子孫を残せません。

神の命は、「神と私」だけに存在します。これが例えば、「神と私と仏教(他のもの)」になると、少し欠けた命になるのではなく、「完全な死」となります。

友よ。血を流す迫害がなくても安心してはなりません。神の子の霊の命を弱らせ、主から離すものは、教会の中にすらあります。それは、自分の肉と世からの聖別を強調せず、妥協を許すメッセージです。命とは、神を愛すること、次に人々を愛することですが、それは妥協ではなく、自分が聖別されて相手に仕えることです。

21章13~14節

「それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。」

《中国の家の教会の兄弟姉妹より》
  • 「確かに私たちの生活の中では、大迫害を受けるとか、投獄されるとか、鎖につながれるというような十字架はないかもしれない。私たちは、主のために死ぬという環境には置かれないかもしれない。でも、主のために損をすることはできる。主のために誤解されることはできる。主のためにいやな思いをすることはできる。『キリストのために生きる』という十字架を、神様から託されているのではないでしょうか。だから私たちは、神様が、今、私たちに負ってほしいと差し出している十字架を、負おうではありませんか」(ある伝道者)。
  • 「キリストのために、雪に打たれ冷たい霜を踏み行く。キリストのために、今日も誤解を受け攻撃を受ける。でもそんな時、私は多くを語るまい……。果てしなく広がる空も大地も、神の愛の大きさに比べることもできないのだから……。さあ、共に天の道のりを行こう! 共に天の故郷へ帰ろう!その日、父なる神にまみえ、父は、あなたのその目の涙をぬぐってくださる、と約束してくださっているのだから」(ある姉妹)

21章16節

「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。」

江戸時代のキリシタン迫害、近年では中国の文化大革命における大迫害、イスラム圏での迫害、そして終末にはそれ以上の迫害が起こるのでしょうか?

人は、愛する家族に看取られ、痛みもなく息を引き取ることを願っていますが、死に方がどうであろうとも死は死であり、違うのはその先です。

魚は水の中で生きていますが、必ず引き上げられる時が来て、漁師によって選別されます。同じように、人は肉体を持ちこの世界で生きていますが、肉体を脱ぎ捨てる(霊の世界に移される)と同時に、「神の命の書」(黙20章12節)に従って選別されます。魚なる人が、漁師なる神に選別される基準は、民族や性別や年齢や能力ではありません。それは、魚が水の世界から空気の世界に移されるように、人が地上の肉の世界から天の霊の世界に移された時、「そこで生きる命を持っているか否か」によります(以上マタイ13章47~50節参照)。

友よ。死は終わりではなくプロセス(過程)です。プロセスは目的を達成するためにあり、目的によってプロセスが違ってきます。私たちの目的は、主に出会い完成されることで、そのためのプロセスは信仰です。肉体の死は、ヤゴがトンボに変わる時です。そして、ヤゴがトンボに変わる時につかまる棒こそ、十字架です。人は信仰に生き、信仰によって天に行きます。

21章18~19節

「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

主イエスへの信仰のゆえに、数え切れない神の子たちの命が奪われたのに、「髪の毛一本も失われない」とはどういうことでしょうか。

これまで主が言われた終末への徴は、偽キリスト、終末の時を定めること、戦争と民族紛争、地震や飢饉や疫病や迫害などで、それらは人々を不安に駆り立てます。

それに対して主は、それらは、「起こるに決まっているが…終わりはすぐに来ない」(10節)とも言いました。だから主は、「惑わされるな…」(8節)と忠告しました。惑わされるとは、主御自身以外のものに心を奪われることです。ですから主は、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10章28節)とも言われました。

友よ。「忍耐によって命をかち取りなさい」とある「忍耐」とは、嵐が通り過ぎるのを待つことではなく、嵐の中だからこそ、主に向かって体を伸ばし続けることです。他のものを恐れるのではなく、主を畏れることです。「髪の毛一本も失わない」とは、「たとえ地上で命を失っても、神があなたを完全な命に完成する」との意味でもあります。恐れるな、友よ。

21章20節

「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」

イスラエルの歴史においては、前五八六年にバビロニア軍の攻撃を受けてエルサレムは破壊されました。さらに、主イエスが来られ、復活してから40年後の紀元70年に、ローマ軍によってエルサレムは包囲され、何万人もの命が奪われました。

過去の2度の歴史において、敵に包囲された時に、エルサレムの周りから人々が市内に集ったことが、むしろ被害を大きくしました。神の都・礼拝する聖所・神の御臨在の場に皆が集ったのに、なぜ悲劇が起こるのか不思議です。

しかし、同じことが今でも起こっているのでは。形だけのエルサレム(教会)と神殿(礼拝)が、集まった人々を失望させ(霊の死者を生み)、偶像とこの世に人々の魂が奪われています(神の国から異邦人の国へ)。ヨーロッパで、教会が、サーカスの練習場やイスラム教のモスクにするために買収されている、と最近の新聞記事にありました。

友よ。時のしるしで重要なのは、教会が主イエスの権威を失い、礼拝・兄弟姉妹の愛・聖別・聖書の学び・祈りが欠けることです。たとえ社会が混乱しようとも、教会と神の子が神の命に満ちているならば、家族は回復し、共同体は真理を取り戻し、国家は再生されていきます。

さあ、神の子たちよ。立ち上がって、本当に命のあるエルサレム・教会を作りましょう。

21章21節

「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。」

「見えるものは、見えないものから出てきた」(ヘブ11章3節参照)ことから、歴史の事実は霊の世界の真実を表します。

今日のエルサレムなる教会で、教職者の後継が不足し、若者や子供たちが不在である現状に憂えます。パウロは、ユダヤ人にゆだねられた福音が、ユダヤ人に拒否され、異邦人に受け入れられ、異邦人がユダヤ人にこの恵みを返す時が来る、と記します(ロマ11章参照)。

現在の日本の教会の現状をどう打破すべきでしょうか。それには、形のエルサレム(既成の教会の姿)にこだわらず、霊のエルサレム(イエスを主として生きる、真実な信徒の交わり)を求める者たちが多く出て来ることです。それが教会の中からであっても、個人や家族や数人のグループからであっても、「神は霊である…神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(ヨハ4章24節)を目指すべきです。

友よ。エルサレムという形にこだわり、命を失ったユダヤ人の姿に自分を重ねてください。どうか形のエルサレムから逃れて、霊のエルサレムの中で、神から与えられた命を守り、キリストの体として歩み出してください。

21章23節

「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。」

AC70年春にローマ軍のエルサレム攻撃が開始され、9月8日に陥落。その間、数え切れない人が死に、城壁はほぼ完全に破壊され、「嘆きの壁(通称)」だけが残りました。

ユダヤ人は、唯一神信仰から選民意識が強く、支配されることを嫌う民族性を持っていました。最初はガリラヤ地方でローマ軍との戦いが起こり、敗残の者たちがエルサレムに集まり、さらに終末思想に駆られた多くの人々も集いました。この時、ユダヤ人たちは三つの党派に分裂して内戦状態になりつつ、ローマ軍とも戦い、悲劇をさらに大きくしました。

ヨセフス著『ユダヤ人の歴史』より

昔も今も、戦い争うのは強い者たちですが、傷つくのは弱い者たちです。同じく、信仰について争うのは強い者たちで、つまずき傷つくのは弱い者たちです。「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(ルカ17章2節)。

友よ。争いや不平不満の原因は、神以上に教会や教職者や兄弟姉妹に心を向けるからではありませんか。あなたが神以外に心を寄せる時、あなたの周りの弱い者が悲しまねばなりません。

21章24節

「人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」

主イエスの預言は四十年後の七〇年に成就し、ユダヤ人は近隣諸国へ散らされました。その後、ユダヤ人たちは、世界中に散らばる流浪の民となりました。

第二次世界大戦が終わった3年後1947年、国連総会にて、パレスチナにユダヤ人国家を造ることを承認するか否かの投票が行われました。各国の思惑が絡み、承認は当初不可能な数字でしたが、結果はわずかの差で承認され、翌年、現イスラエル国が誕生しました。主が語られてから1835年後の成就でした。さらに19年後の1967年の第三次中東戦争により、エルサレム市街もイスラエルに戻ってきました。

友よ。世界は人の予想を超えて動いていますが、動かしているのは神です。あなたの人生も動いていますが、動かしているのは神です。すると、動いている現実に目を留める以上に、動かしている神に目を留めて歩むことが大事です。病気、家族の問題、職場や学校、経済的問題、現在の環境などの、一つひとつの出来事に目を奪われることなく、その背後にいる神を見続けてください。神は、40年後、1835年後、19年後…と、イスラエルを忘れていなかったように、あなたをも忘れていません。ただ神の御顔を見続けてください。

21章25節

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。」

異常気象どころか、月や太陽までも変化し始めます。まさに天変地異です。地震予知や耐震技術などの、人の予防手段も役立たないほどの災害が起きると言います。

それらの終末的現象のことを聞くと、だれの心も不安になります。しかし、世界の終りよりも人を恐れさせるのは、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタ16章26節)と言われるように、自分自身の死とその後です。

しかし、永遠の命を得ており、その先は天の父の御もとで完成されることを確信できる者にとっては、病も死も災害さえも、終わりではなく、本当の希望と命に至るプロセスになります。

友よ。終末の嵐がやって来た時には、湖の嵐に死の恐怖を感じ慌てている弟子たちのようになってはなりません。その時、あなたがするべき最初の行動は、同じ舟の中にいるイエスを起こすことです。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ…凪になった」(マコ4章35~41節)。

主が眠っていたのは、主が同船しているのに、「あなたがイエスを主としていなかった(眠らせていた)」からです。神によって心と考えを守っていただきましょう(フィリ4章7節参照)。

21章26~27節

「この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。」

「世界の滅び」「人の子イエスはいつ来るか」よりも、もっと確実なことは、自分が死に、主に出会うことです。「人生の年月は七十年ほどのものです。健やかな人が八十年を…」(詩90・10)。

来臨のキリストは、罪人の罪を贖う神でしたが、再臨のキリストは罪を裁く神です。やがて主の再臨に出会うことと、肉体の死と共に主の御前に出ることは同じです。

神を知らない人は、天変地異による肉体の死を恐れますが、神の子は罪を恐れます。「おびえ、恐ろしさのあまり気を失う」ほどの恐れとは、肉体の死以上に、罪からくる恐れです。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタ10章28節)、と言われる方がおられるからです。

友よ。人が肉体の死を恐れるのは、この世での命を求めているからです。しかし、罪を恐れる者は神を求めるようになります。さらに、罪を恐れる者は、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る…」ことに希望を持つことができます。その時に完成されることが楽しみにさえなります。ですから、恐れは取り除かれ、「悲しむ人々は、幸いである。その人は慰められる」(マタ5章4節)をさらに深く体験します。

21章28節

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」

普通、災いを避けるために行動するのが人間ですが、「さまざまの災いが起こる時は、むしろ解放の時だ」と主は言われます。

人の解放とは、災いや困難からの自由ではありません。それは魂の解放であり、災いや困難から逃れるのではなく、罪と裁きから逃れて、永遠の世界に入ることです。人の力や知恵を超える出来事によって、人が神に近づく以上に、神が人に近づけるようになります。主はインマヌエル(神が共におられる)なるお方です。イエスは、父なる神と共におられ、イエスを主と信じる者に内住してその人と共におられるお方です。主と共にいることが救いであり解放です。

友よ。神は恐れ悩むアブラハムを「…外に連れ出し…『天を仰いで星を数えよ…』」と言われました。神は彼を、家の中(自分の世界)から、星が見える外(神の世界)に連れ出しました。イサク(跡取り・永遠の命)は、自分の世界にではなく、神の世界に用意されています(創15章5節参照)。同じく、「身を起こせ」と言われたのは、あなたが下を向いてこの世を見ていたからであり、「頭を上げよ」と言われたのは、あなたがうつむいて自分を見ていたからです! 終末の出来事は、あなたをこの世から神の永遠の世界へと追い出す恵みです。

21章31節

「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」

いちじくの葉が芽吹き、夏を知らせるように、植物は時間を間違えません。同じく、世界の出来事も神の御心の時を知らせます。

聖書のメッセージは、「①神の子の命を受け ②キリストの御形に成長し ③キリストの体とされて全世界に福音を伝え ④完成される時を待て」と要約できます。

世界と自分に起こる出来事はこのためです。戦争を経験し、人類に失望し、病気で肉体の限界を知り、天変地異に無力を知り、偽キリストに偽りの人生を教えられます。

これらのことは、既に起こっていますし、これからも起こります。「これらのこと」のすべては、「神を知り、神と交わり、神の国に生き、神に完成されるために用いなさい」と主が言われています。

友よ。「これらのこと」を通して神と共に生きるには、「狭い門・細い道」を通るしかありません。もっと楽に要領良く生きて、あわよくば天国へ、と思う者が通るのは、滅びに至る「広い門と広い道」(マタ7章13節参照)です。厳しく辛くても、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22章42節)こそ、最も安全な道であり、しかも近道です。終末を恐れず、主を畏れて堂々と生きてください。

21章32~33節

「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

神は、天地創造の時のように、第一日目、第二日目……と御計画通りに時を刻んでいます。そうすると、一人ひとりに対しての「すべてのこと」も用意されていることになります。

しかし、神の御計画と時間の中で、滅びるものと滅びないものがあります。滅びるのは「天地」で、滅びないものは「神の言葉」です。よって、人の生きる基盤を何に置かねばならないかは一目瞭然です。

昔の日本社会では、切腹に表されるように、「死ぬ」事実よりも「死に方」が評価されました。そこでは、信じる「神」よりも、神を信じる「自分」が大事で、「真理」のために死ぬのではなく、「死に方」が真理に置き換えられています。その意識は、人格を持った神を知らず、自然を神とする、汎神論から生まれます。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハ1章2~3節)。

友よ。自然界も世界の出来事も、神の目的に沿って動いており、あなたもその中にいます。起きた出来事に囚われるのではなく、それらを通して神の言葉を聞き、神の「言(イエス・キリスト)」を掴んで聴いてください。命は「御子の内」(Ⅰヨハ5章11節)にあります。

21章34節

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」

放縦や酒の酔いや生活のことに心が奪われる中で、最後の審判を受け取った人々がいました。それは、ノアの時代の人々と、ソドムとゴモラの人々でした(ルカ17章20~30節)。

聖書は、そのような人々のことを、「眠っている人」と言います。そのために、終末に関する記事では何度も、「目を覚まして祈っていなさい」(36節)と警告します。

それは、「人の子の前に立てるように」(同)とあることから、「眠っている」とは、主イエスが見えない状態を指し、「目を覚ましている」とは、主イエスが見えている状態を指していることが分かります。主が見えなくなる人は、現在を楽しみ、肉と世を愛し、神の人であるノアやアブラハムが神から受け取った啓示に従わず、多数に従って生きる人です。ノアとアブラハムは神を見、滅んだ人々はそれ以外のものを見ていました。

友よ。臨終の時に、その人のことが見えるものです。それは、その人に主イエスが見えているか否かです。主が見える人には、「死の陰の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない」という平安があり、「主の家にわたしは帰り、生涯そこにとどまるであろう」(詩23篇)との希望を持っています。主の日は、眠る者には罠のようですが、目覚めている者には香油を受け取る時です。

21章37節

それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。

主は、民衆と共に過ごせる時間がわずかになると、昼は神殿の境内で教え、夜はオリーブ山(畑)で過ごされました。主のゲッセマネでの祈りは、この時から既に始まっていたのでは!

終末の出来事は、「地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかる」(35節)とありますから、自分が備えるのはもちろん、人々にも備えさせねばなりません。世界的終末もそうですが、父母や家族や友人知人の終末は、平均寿命からも予想できますし、あるいは明日かもしれません。

主は境内でみことばを語り、オリーブ畑で祈って、最後の時間を過ごされました。みことばと祈りは、自転車の前輪と後輪のようです。前輪である真理のみことばは、人の進路を神に向けさせ、後輪である祈りは、聖霊の力を受け取って、神の御心の成就へと進ませます。

友よ。私たちが終末について、さらに追及し議論をすることはもう十分であり、足りないのは、実際に福音を伝え、祈ることではないでしょうか。終末は、イエス・キリストを信じる信仰によって乗り越え、成就されるからです。だから、「主よ、主よ」と言うだけの者にはならず、「天の父の御心を行う」者になりたいものです。

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