キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第4章

4章1節

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を霊によって引き回され、

いよいよイエスは、「救い主」として公に活動を開始しました。その活動の中で、聖霊とイエスの関係を随所に見ます。

この後、「イエスは、霊の力に満ちて…」(14節)、「主の霊がわたしの上におられる」(18節)と続きます。父なる神に御子が従い、御子から御霊が遣わされる三位一体の秩序からすると、ここでは父→聖霊→御子となり、聖霊と御子の秩序が逆転しています。そして、十字架、復活、召天、ペンテコステ以降は、「イエスは神の右に上げられ、約束の聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(使2章33節)と秩序が戻ります。

これら一連の記事から、人性を持った時のイエスが、どれほど聖霊を必要とされたかが分かります。神の子は、顔を主イエスにまっすぐ向け、そのほかのことはすべて聖霊に寄り頼んで生きねばなりません。

友よ。私たちはなおさら聖霊に寄り頼まねばなりません。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(Ⅰコリ6章19節)。聖霊の神は、今日もあなたの中に助け主としておられます。

4章1~2節

イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を「霊」によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。

イエスに対する悪魔の誘惑は徹底し、四十日に及びました。その間、主イエスは何も食べずに戦われました。

試練は神から与えられ、誘惑はサタンから、と記されています(ヤコ1章13~16節参照)。そして、試練も誘惑も、人の肉に向けられます。神の試練は、人の肉を取り除いて神に人を引き寄せるためにあります。サタンの誘惑は、人の肉を用いて神から人を引き離すためにあります。

しかし、主イエスには罪はありませんから、サタンに告発されるものは何もありません。この時のサタンのイエスへの攻撃は、罪と肉の領域を超えた、神と悪魔の主権争いでした。さらに、主がサタンに打ち勝つ模範を、人に示されたことでもありました。ですから聖書は、「霊に引き回され」との表現を用いているように思えます。

友よ。試練と誘惑は表裏一体です。神があなたを試みるのは、あなたの中の悪いもの(自己中心)を捨てさせ、神の良いもので満たすためです。反対に、サタンはあなたの中にある良いもの(神からのもの)を閉じ込め、捨てさせ、人の肉を助長させます。肉を自分で解決しようとするとサタンに支配され、神の御手に委ねると聖霊に支配されます。

4章3節 ①

悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

サタンの誘惑が始まりました。最初は石をパンにすることでした。これは、食料や経済問題でなく、「だれが神か」の根本的な大問題です。

サタンはイエスのことを、「…正体は分かっている。神の聖者だ」(マコ1章24節)と知っています。ですから、イエスが石をパンにする能力があることも知っています。サタンは、イエスは神ではないと言っているのではありません。サタンの隠された魂胆は、イエスを「父なる神から独立した神」にすること、すなわち父なる神から孤立させ離すことです。

そこでサタンは、「イエスよ、お前が自分だけで(父に関係なく)命を造れ」と言ったのです。イエスの命は、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(ヨハ17章21節)と言われたように、何をするにも単独ではなく、父の御心の中にいることが彼の命でした。御子イエスは、父から離れては何一つなさいませんでした(同5章19節参照)。

友よ。サタンの誘惑を見破ってください。サタンは、あなたの生まれ持った性質や欲求を否定するのでなく、むしろ大いに肯定します。ただし、神になど頼らなくても、自分の命と力量で願いどおりに生きなさい、とそそのかします。それこそ、神からあなたを離す巧妙な手口です。主イエスにだけ、「つながり・とどまり」(同15章1~10参照)続けてください。

4章3節 ②

「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」

石をパンに、という途方もない奇跡は、神であるイエスならば起こせるが私には…などと考えていませんか。聖書は人の存在について、「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ」(詩8・5・口語)と記します。人は家を造り、飛行機を造り、インターネットを駆使する創造者で、まるで小さな神のようです。事実、お金や財産(石)を神(命)に変え、自分の考え(石)を絶対(神)とします。人も奇跡(?)を起こしています。

人は命の無いものを、自分でパン(命)に造り変える名人で、似非(えせ)創造者です。人の命は、聖霊によって御子に、御子によって父につながり交わる中にあります。「わたしはまことのぶどうの木…わたしにつながっていなさい…」(ヨハ15章1~10節)。

友よ。自分の命を自分で造ってはなりません。主イエスだけが、「道であり、真理であり、命です」(同14章6節)。むしろ、石のようなあなた自身を、主に委ね、聖霊の命に満ちたパンに造り変えていただいてください。「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申6章5節)とは、全存在をかけて主イエスに依存しなさい、でもあります。すると主は、罪人(石)をパン(神の子)に変えてくださいます。

4章4節 マタイ4章4節

「人はパンだけで生きるものではない」、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

誘惑を退ける勝利の言葉が、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」です。人は、食物を超え、神の言葉で生きるものです。

土の塵(自然生命)で造られた人には、「パン=食料」が必要です。そして、命の息(神の霊)を吹き入れられて生きる人には「神の言葉・霊のパン」が必要です(創2章7節)。自然生命と霊の命との間には、少なからずギャップがあるようにも見えますが、しかしそれは矛盾でもギャップでもありません。

両者の関係は、「霊によって体の働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」(ロマ8章13節)が解決します。肉体と心と霊の関係には、人を創造されたお方が秩序を定めておられました。

友よ。この世と神では、人生の問題を解決する方向が逆です。世は、「環境→制度→健康→心→豊かな命(幸せ)」と進みます。神は、「霊(神の命)→心(知性・感情・意志)→体→隣人(家族・友人知人)→制度・環境」と進みます。したがって、言葉を豊かに持つことが最優先課題です。神の言葉は、「絶対の義・絶対の愛・永遠」ですから、その基準で心→体→隣人へと神の命が流れていきます。その言葉が、「言(イエス)」を与えてくださるからです。

4章5~6節

悪魔はイエスを高く引き上げ、…そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。」

悪魔の次の誘惑は、「わたしを拝むなら…この世の権力と繁栄を全てあなたに与える」です。

人は、土の塵で造られ、命の息を吹き入れられた者ですから、肉体を持ち自然界と社会の中で生きるためには、衣食住、能力、お金はとても大切で魅力的です。それゆえに、「それらを多く得ることで幸せになれる」と錯覚します。

しかし、人の肉(自然生命)は、神の霊(永遠の命)を入れる器であり、しかも肉体には死という時間制限があります。器(肉体)と命(霊)、手段(世)と目的(神)を間違うと、サタンの申し出は魅力を増します。しかし、「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16章26節)がその答えです。

友よ。サタンの武器は、全世界は自分の所有物だと思わせることです。そしてこの誘惑によっても、イエスを父なる神から離そうとしています。サタンのどんな種類の誘惑も、目的は一つ、「あなたを主イエスから離す」ことです。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えなさい」(8節)を今日も確認してください。

4章7~8節

「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 イエスはお答えになった。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。

「あなたがたの富のあるところに、…心もある」(12章34節)は、「あなたが富とするものがあなたの命である」とも理解できます。

聖書はダビデと息子ソロモンについて、「…彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。…ソロモンは…父ダビデのようには主に従い通さなかった」(列上11章3~6節)、と記します。一方ダビデは、「わたしはいつも主に目を注ぐ」(詩25・15)「戦車を…馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」(同20・8~9)人でした。ソロモンは、父の信仰を学ばず遺産に目を注ぎ、それを守るために周りの国々の王女を妻としました。彼は、神殿建築に7年、しかし自分の宮殿には13年費やしました。その王国は彼の子レハブアムの代に分裂しました。

友よ。悪魔を礼拝するのに特別な儀式は必要ありません。富や名誉や家族や、自分の健康であっても、それを命や宝とすることが、既に悪魔礼拝につながっています。「心の清い者は幸い…」の「清い」は「潔い(いさぎよい)」のことです。それは「神も富も」でなく、「ただ…主を拝み、主に仕える」潔い者のことです。

4章9節

悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」

悪魔の誘惑の第三弾は、「エルサレムの神殿の屋根から飛び降りよ」でした。かつて、エリヤを天に引き上げた(列Ⅱ2章11節)お方イエスは、塔の先端から降りても怪我などしません。しかし、サタンの思惑は別にあります。

この記事はマタイ福音書では二番目の誘惑

人の救いは、神のみことばがその人に成就した出来事でした。しかし、救われた後にみことばを自分勝手に用い、御心であるがごとくに行動することもできます。サタンは、「主はあなたのために、御使いに命じて…守らせてくださる」(詩91・11~12)のみことばを用いました。

教会においても、ペテロの権威、聖霊充満、教会成長、死人の蘇りなど、自分の思いをみことばに勝手に託し、御心だと言っては飛び降り、天使に支えてもらえず怪我人(つまずいた人)が続出します。主は、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」(ヨハ5章19節)と言って、決して父なる神の御心から離れませんでした。

友よ。みことばは命であり力ですが、自分勝手に用いない抑制が必要です。私たちは、神に服従するのであって、神を服従させるのではありません。神を服従させることを、「神を試みる」と言います。

4章12節

イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』…」とお答えになった。

「神殿の屋根から飛び降りよ」というサタンに対する答えが、「主なる神を試みてはならない」でした。

サタンの誘惑に、「サタンよ、退け」と何度も繰り返すより、サタンが人の肉に働くという原則を知ることが大事です。サタンは、イエスと人を引き落とすのではなく、むしろ神殿の頂き(宗教の峰)に引き上げ、「あなたの信仰なら天使に支えてもらえる」と言います。

ここでも、イエスを父なる神から、人を主イエスから引き離すことが、サタンが隠している目的です。主は、第一の誘惑には「神の口から出る言葉…」と言い、第二の誘惑には「ただ主だけを…」と言い、そして今回は「神を試みるな」と言って退けました。そのいずれも、「わたしが」ではなく、「父なる神が」を貫き通しました。

友よ。恵みは「神は・神が」から出て、罪は「私は・私が」から出てきます。「私が」を「神が」に逆転させるのが「自分の十字架」(マタ10章38節)です。十字架によって私の肉が死に、神の御霊が働き出します。十字架抜きの聖霊の満たし、賜物の強調、カウンセリング、奉仕などは、人の肉を満足させますが、福音とは似て非なるものです。「我生きるにあらず、主、我が内に生きるなり」(ガラ2章20節)こそ福音の神髄です。

4章14~15節

イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

マタイとマルコの福音書では、主イエスの宣教の初めの言葉は、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じよ」であったと記されています。

荒れ野から帰った主の最初の行動は、会堂に入り聖書を教えることでした。今も、人となられたイエスが教会に来られるならば、まずみことばを教えるのではないでしょうか。それは、「主イエス・聖霊・みことば」の三つが一体となって、人を神の命へと導き、とどめ、完成するからです。「主が『会堂(教会)』に入り『聖霊』によって『聖書』を教えた」ことは、教会に対する大事な啓示です。神の子にはさまざまな必要がありますが、みことばと聖霊こそ、何よりも必要です。なぜなら、みことばと聖霊が一つとなる所に主イエスが御臨在されるからです。「神が永遠の命をわたしたちに与え…この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があります」(Ⅰヨハ5章11・12節)。

友よ。あなたの教会で、みことばを解き明かす人が、聖霊によって語ることができるように祈ってください。「よく指導している長老たち、特にみことばと教えのために労苦している長老たちは二倍の報酬を受けるにふさわしい、と考えるべきです」(Ⅰテモ5章17節)。

4章18節

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」

イエスは、会堂に入り聖書を朗読しました。最初に開いた個所は、右のイザヤ書61章のみことばで、それは自己紹介でもありました。

「主がわたしに油を注がれた」とは、「父なる神が、わたしをキリストにされた」との意味でした。それこそ、自分が神であり、人となった救い主である宣言です。いまだかつて、自分を神と宣言した人は、世界最大の嘘つきか、イエスだけです。そして、私たちが「イエスはキリストです」と言うのは、真理の御霊が、最大の真理を告白させてくださるからです。主は、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(12章9節)と忠告しました。

友よ。あなたは人々の前で、「私はクリスチャンです」と言えますか。もちろん、告白は口の言葉だけではありません。他者への思いやり、人生の取り組み方、聖別された日常生活の一つひとつが、「救われる者にとっても滅びる者にとっても、神に対するキリストの香り」(Ⅱコリ2章15節)です。キリストに倣う者(クリスチャンという言葉の始まり)であることを、いつも証明したいものです。

4章18~19節

「主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

自分がキリストであると紹介したイエスは、さらに使命と働きを紹介します。「主の恵みの年」とは、ヨベル年(七年の七倍の四九年の次の五十年目の年)のことです。この年は、売られた土地と、全住民の解放を宣言し、すべての畑を休耕にしました

特に、「捕らわれ人の解放」は重要です。人は「罪と死」に捕らわれています。人生を数学で表現すると、人生は(カッコ)でくくられ、その中に《出生・男女・成長・学び・仕事・家族…》などすべてが入りますが、カッコの前には「原罪」というマイナスが付きます。そして、イコール「死」と書かれます。そのマイナスを、主が引き受けてくださったことで、カッコの前にはプラスがつきました。そのプラスこと、主イエス・キリストの十字架です。

友よ。マイナスがつく生涯に、大小・高低・長短、貧富、男女などは無意味になります。しかし、あなたがどんな者であろうとも、「もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(ヨハ8章36節)のです。ですから、「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(Ⅰペテ2章16節)。人生の前に付けられたプラス(十字架)を感謝しましょう。

4章18~19節

「主がわたしを遣わされたのは、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

ヨベルの年は、解放者、神が来られる時です。その神は、視力も回復させることができます。

見えるためには、健康な目が必要ですが、目が健康でも光がなければ見えません。イスラエル十二部族の父ヤコブは、兄エサウから逃亡する旅路で光なる神と出会い、神を見る健康な霊の目を与えられました。しかし、その後の二十年間、彼は二人の妻と二人の側女を抱え、妻同士の子供たちも巻き込んだ争いや、叔父ラバンとの確執に霊の視力は失われました。

そこで神は、彼が肉の眼で見る世界を暗闇にし(行き詰まらせ)、叔父ラバンのもとから引き出し、再び御自分を現して光を注ぎます。神が彼の腿の関節を外したのは、肉の眼を霊の目に変えるためでした(創32章)。その時から、ヤコブ(押しのける者)はイスラエル(神の王子)に変えられました。

霊の視力が衰え、神が見え難いという友よ。神の光は、どんな状態のあなたにも届いていますが、ヤコブの眼ではぼんやりとしか見えません。神の世界を見る視力が欲しいのならば、なおさら光を見つめてください。「みことばが開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩119・130)。

4章18~19節

「圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

主イエスは、人生苦からの解放者であり、もろもろの圧迫からも解放してくださいます。しかしそれ以上に、「罪人」を解放してくださるまことの解放者です。

多くの人が、男女差別から、労働から、社会差別から、人種と南北問題などからの解放に取り組んでいます。しかし、本当の圧迫者は、外部にあるのではなく、自分自身です。自分の中に潜む罪こそ、最大の圧迫者です。それに気づかずに、行いによって自由になろうとすれば律法主義に陥り、さらに不自由を増します。

神が人に律法を与えたのは、人が正しい自由に生きるための基準を示すためでした。律法は、神の完全と人の不完全の両方を教えます。その両方によって、人を神に連れて行く養育係の役目こそ、律法に与えられた最初の働きでした(ガラ3章24節参照)。

律法は、「完成するために来た」(マタ5章17~21節参照)と言われる主イエスによってのみ満たされます。律法からの解放は、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタ16章25節)の、逆転の真理の中にあります。そして、この真理は単純です。それは、自分の願うことよりも、主が望むことを優先することです。

友よ。あなたがそれを願うなら、聖霊があなたの助け主になります。

4章21節

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

会堂にいる人々は、イエスの言葉に驚きました。それは、神だけが宣言できることを、ヨセフの子が宣言したからでした(22節)。

苦難や悲しみが、今、この場で、一瞬にして解決されることを願いますが、現実には一生かけても解決できないこともあります。しかし、イエスは「今日…実現した」と言います。それは、聖書が告げる救いとは、神の力や知恵をいただいて問題を乗り越える人になることでなく、問題を解決できるお方と一体となることだからです。

したがって、「問題が無くなったから救われた」のではなく、「問題があっても解決主イエスと一つとされたから救われた」となります。神と一体になることは、問題を霊のものに変えます。神は霊ですから時制を超え、問題は神が時至って必ず解決してくださいます。「これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」(ゼカ4章6節)。

友よ。あなたの問題は、病、経済、自尊心の確立などではなく、「神と共に生きているか、否か」です、聖書の言葉は今日実現しています。ただし、時間が経たないと見えないこともあります。「忍耐によって…命をかち取りなさい」(ルカ21章13節)。

4章24節

そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。」

「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚き…」の声を上げる者もいますが、「この人はヨセフの子ではないか」(22節)と不信を口にする者もいます。民衆の間から賛辞と失望の声が、同時に聞こえてきました。

賛辞の声は、イエスの教えと、「病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者…いやされた」(マタ4章24節)ことに対するものでした。賛辞は「イエスの業」に向けられ、不信は自分を神と宣言した「イエスの人格」に向けられました。

彼らは、イエスの「言葉・業・人格」を一つに見ることができませんでした。しかし、カファルナウムの百人隊長は、「(あなたが)ひと言おっしゃってください」と頼み、主は「これほどの信仰を見たことがない」と言って、彼の部下の病をいやされました(7章1~10節参照)。

友よ。あなたの求める神は、「大能の神(御業)」ですか、それとも「愛の神(人格)」ですか。御業を求める者は、自分の願いを叶えようとします。しかし、主の御人格を求める者は、主の心に自分を合わせようとします。そうする者が本当の神の御業を見るようになります。それは、御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)(ガラ5章22節)を豊かに宿すことです。

4章26節

エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。

アハブ王は、国を治めるためにシドンの王の娘イゼベルを妻にします。彼女は、バアルと多くの神官を引き連れて輿入れ、イスラエルは偶像礼拝に満ちました(Ⅰ列16~19章)

神は、エリヤにこの国の宗教改革を委ねます。エリヤは、ケリテ川に身を寄せ、水が枯れるとサレプタに向かいます。その間、神の言葉どおりに三年六か月の間、雨は降りませんでした。どの時代でも、神(御人格)と神の言葉(業)を一つに信じた者は、神の栄光を見ます。聖霊の賜物・死者の蘇り・いやし・教会成長…などに期待して主の御業を見ようとしますが、イエス御自身のみことばを聞き、静かに祈ることは後回しにされがちです。

友よ。大宗教改革者エリヤの三年半のほとんどは、ケリテ川ではカラスから、サレプタでは壺から粉を、瓶から油を取り出し、やもめ女と彼女の息子と共にその日のパン(みことば)を食べる日々でした。その間、エリヤはただ主の御前に静まりました。個人でも教会でも、世界を変えるためには、まず、静まって、真剣にみことばを食べて祈ることです。それによって、キリストの御人格と結ばれると、主自ら、あなたに必要な行動を起こされます。

4章27節

預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。

主は、エリヤの次にシリアのナアマン将軍を引き合いに出します。彼は重い皮膚病を患い、一縷の望みをかけてイスラエルの預言者エリシャを訪ねました。

エリシャは、ナアマンに自ら手を置くでもなく、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい」とだけ伝えます。怒るナアマンですが部下になだめられ、神の人エリシャの言葉どおりに下って行って、川に七度身を浸すと、彼の体は元に戻りました(列下5章14節参照)。

怒りながらであっても、エリシャの言葉を聞いて従ったナアマンを神は祝福されました。しかも彼は異邦人であり、イスラエルの敵国の将軍でした。異邦人で敵の将軍と比較されたと感じたユダヤ人たちは感情を逆なでされ、イエスを町の外へ追い出し、山の崖から突き落とそうとしました(29節)。

友よ。出来事を見たら信じるのか、信じたら事実を見るのか? 出来事は肉に満足を与えますが、みことばは信じる者の霊に満足を与えます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハ20章29節)「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコ1章22節)。

4章32節

「安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

主は、行く先々で会堂に入り、聖書からみことばを教えました。人々の心を捕えたのは、語る主イエスの言葉に権威があったからでした。

人類の歴史は、食べるため、国のため、より豊かに…など、良し悪しは別として、常に上からの社会的命令が下されていました。そこから解放されたころに産まれ育った子供たちは、精神的弱さを抱えているとも言われます。それには、上からの権威(命令)を受けずに成長したことも理由に上げられます。権威の下に身を置かないと、自分が何者で、何をすべきか分からなくなります。したがって、人の自由の上には正しい権威が必要です。

正しい権威が正しい自由を生み出します。「真理はあなた方を自由にする」(ヨハ8章32節)。「愛・義・聖・永遠」の真理の中にある神の言葉こそ、人に必要な権威です。

友よ。あなたは羊飼いイエスの権威の下にいる羊です。羊飼いの「囲い」の中に、「門」を通り、「名前を呼ばれ」「声について行く」のが羊です。主の権威は、あなたを「救い・牧草を与え・守る」ためです。ヨハネ福音書十章と詩編二十三篇は、あなたの原点を教え、あなたの住まいがどこにあるかを教えています。

4章35節

イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。

一声で悪霊を追い出すとは、なんと力と魅力に満ちていることでしょうか。さあ、私たちも見倣って…。はたして、これはどうか?

アメリカで一人の青年と出会い、現地のある教会に戻りました。その青年は悪霊に取りつかれていました。三日間の激しい祈りの戦いの後、青年は解放されました。決め手は、罪の告白と十字架でした。主イエスが一声の下に追い出したのは、基本=「罪の赦し」あってのことです。それ抜きの悪霊の追い出しは、「ほかの七つの悪霊を連れて来て…入り込んで住み着く」(11章26節)ようになりかねません。また、さまざまな好ましくない出来事を、「悪霊の責任」にすることは、悪霊が最も喜ぶことです。なぜなら、その人の罪が解決されないで残るので、いつまでもその人の中に住み続けられるからです。

友よ。悪霊が出て行った現象以上に、追い出した原動力、「主のみことばの権威と力」に注目してください。そして、あなた自身が「みことばの権威」に服従してください。それによって、悪しきものの姿と働きを見抜いて退けることができます。「神の武具を身につけて」(エペ6章)悪しきものと戦ってください。

4章36節

人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」

聖書には、繰り返し繰り返し、悪霊との戦いが記されています。それは、悪霊がこの世の君として事実君臨しているからです。

もろもろの宗教も、病のいやし、浄霊、家内安全、商売繁盛、奇跡などの魅力をアピールします。しかし、唯一それらの宗教がアピールできないものは、罪の赦しです。なぜなら、もろもろの宗教の根底には、神に反逆するサタンが君臨し、彼らは人の罪を隠れ家とし、そこで人の思いと行動を支配しているからです。だれでも自分の住み家を取り払うことはしません。

聖書は、「あなたがたの体は、聖霊が宿ってくださる神殿」(Ⅰコリ6章19節)と言います。人はサタンを宿すことも、聖霊を宿すこともできます。そして、サタンは神を無視する心の中に住み、聖霊は神によって命の息を吹き入れられ、神に従って行く者の中に住まわれます。

友よ。主は、「まず強い人(サタン)を縛り上げ…、その家に押し入って、家財道具(神の子)を奪い取る」(マタ12章29節)と言いました。神があなたの中に押し入るのは、みことばによってです。みことばは主の御人格と一体ですから、悪霊を縛り、追い出し、あなたを聖霊の宮に変えることができます。

4章38節

イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスに頼んだ。

この当時、教会はまだ形がありませんが、ここに家の教会が存在しています。

主がシモンの家に行かれました。シモンのしゅうとめが高熱であることも、主にはすべてお見通しです。しかし、「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」との記事に、小さくても命ある教会の姿を見ます。教会の命の交わりには、動脈が通る交わり(主中心)と、静脈が通っている交わり(人中心)があるように思えます。前者は、イエスの命の血が直接流れ、後者はまず清められねばならない血が流れています。両方が必要ですが、動脈の血が先に流れ、次に静脈であってほしいものです。

友よ。あなたの教会や兄弟姉妹の交わりには、動脈と静脈のどちらの血管が太くなっていますか。主の血を運ぶ聖霊の命は流れていますか。それとも、肉の間を通り、清められねばならない血が流れていますか。それは、主に祈って(主に期待して)いるか、人々に祈って(人々に期待して)いるかで分かります。シモンの家の隣人たちは、直接主に知らせ、主に頼みました。これからは、誰かのことを、ほかの誰かに知らせる前に、直接主イエスに知らせ、お願いしませんか。神の恵みをいただいて、その恵みを分け合うのが神の子たちの交わりです。

4章40節

日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。

人々は、日が暮れてから病人たちを主のもとに連れてきました。病人たちは、この世の光がしぼみ、「夜」になった人々でもあります。人は、夜にならないと主のもとに来ません

それ以上に、「人々が…イエスのもとに…連れてきた」ことが大事です。ある人が、良い教会とは人々を連れて行きたくなる教会だ、と言いました。さらに、悪い教会とは親しい人ほど連れて行けない教会だ、とも加えました。前者は、そこにキリストがいるからで、後者は人が中心になっているからではないでしょうか。

しかし、教会や牧師や兄弟姉妹の責任以上に、人々を主のもとに連れて行けない本当の理由は、自分自身の中にあります。それは、自分の中に主が生き生きと宿っていないため、あるいは自分自身がもっと主に近づきたいと願わないからです。「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタ6章23節)と主が言われました。

世の光とされた友よ。もっと主イエスから遣わされる聖霊に内側を照らされ、清められ、主の光を反射できる者になってください。だれにでも、この世の光が消える時があります。その時、あなたの内にある光によって、人々をイエスに導くことができますように。

4章42節

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようしきりに引き止めた。

人々は、主イエスの魅力のとりこになりました。しかし、人々の「心」が主イエスの霊によって捕えられた、とは言い難いようです。

だれでも、目に見え、手で触れられる現象に心を奪われるものです。主の奇跡や、悪霊の追放や、病のいやしや、聖書の教えなどのすべては、ある一つのものを人に与えたいからです。その一つとは、「内住のキリスト」です。パウロも、「キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」(ガラ4章19節)と言いました。

人々は主の御業を見、教えを聞いても、キリストを内に宿すことができません。彼らは、自分の内側にキリストを探すのではなく、外側の現象にキリストを探しているからです。

友よ。あなたは、あなたの内と外のどちらに神を探していますか。外側であれば、周りの状況の好転を見ないと不安になります。内住のキリストを見るならば、周りの状況が好ましくなくても、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリ4章7節)。

4章43節

イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」

主は町々、村々を回って神の国の福音を一人でも多くの人に伝えようとしています。

十数年前に中国で聞いた話…貧しい田舎の教会では、伝道者の話を直接聞くことはめったにできません。ある婦人伝道者が、ある地の集会で、何日かにわたってみことばを語りました。それが終わって帰る時、彼女の靴がありません。実は、隠されてしまったのです。犯人は、その神の器である婦人伝道者を帰したくなかった(!)人たちでした…。主は靴を隠した人々を喜ばれたことでしょう。しかし、主をとどめ悲しませる者もいます。

それは、

  • 主の御心を受け入れないために、ほかの人に御自分の使いとして遣わすことのできない人
  • その人の中に光なる主がおられるのに、自分の闇(肉)で光を隠している人

彼らは、キリストを自分の中に閉じ込め、聖霊を悲しませます(エペ4章30節)。

あなたは世の光として、人々に主を紹介しているでしょうか。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(マタ5章15節)。友よ。あなた自身が主によって輝くことが、ほかの町に福音を告げるために、主を送り出すことです。

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