キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第5章

5章1節

イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

主は、ガリラヤ湖北部のペテロの家に近い舟着き場にいました。そこに大勢の群衆が押し寄せて来たのは、神の言葉を聞くためでした。

教会に行き、「牧師の話を聞いてきました」と「神の言葉を聞いてきました」には大きな違いがあります。神の言葉は、「神が見た、人と人生」について語り、人(牧師)の言葉は、「人が見た、神についての説明」と言えます。

神の言葉は人の罪を除こうとし、肉には剣となりますが、人の言葉は罪への塗り薬となり、肉を多少戒めるだけで取り除けません。神の言葉には痛みと恐れがありますが、後に解放が来ます。人の言葉には温かみがあり、自分を肯定してくれますが、いつまでも解決はありません。

神の言葉は、「霊の剣」(エペ6章17節)のように、「…罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかに」(ヨハ16章8節)しますが、永遠の命を与える「種」であり、種を成長させて実を結ばせる「パン・糧」でもあります。

友よ。人の耳触りの良い言葉を聞くのではなく、剣のように見えても、あなたを聖別しキリストの御形に成長させる、神の言葉を聞くことを求めてください。

5章3節

そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。

シモンは兄弟によって主に出会い、しゅうとめの病をいやしていただいたほど主と親しい間柄でした。しかし、皆が神の言葉を聞こうと集まった時は、漁の網を洗っている門外漢でした。

かつて、主のみことばを聞き、祈りに応えていただき、恵みをいただいたのに、今はシモンのような所にいる神の子たちが多くいます。それは、「あなたは初めのころの愛から離れてしまった」(黙2章4節)ように、キリストの体から離れた所にいる神の子たちです。

するとイエスは、集まった大勢の群衆に話すのに、シモンの舟を選び、少し漕ぎ出させ、シモンの舟から民衆に話しました。それは、だれよりもシモンにいちばん近くでメッセージを聞いてほしかったからではないでしょうか。

友よ。主の御人柄も、御業も知っているのに、門外漢になっていませんか。あなたが主によそよそしくても、主があなたから目を逸らすことはありません。今、厄介なことに直面しているなら、主があなたの舟(人生)を漕ぎ出させているのでは。もしかして、それ自体が、あなたの耳元で語られている主のメッセージなのでは! 主はいつも、あなたの近くで語っています。聞き逃さないでください。

5章3~4節

そして、腰を下ろして、舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

主は、シモンの舟を少し漕ぎ出させ、そこから民衆に語られました。この時のメッセージは、「神の言葉を信じて行うなら、神の国の現実を見る」だったのでは?

みことばを聞くだけの人は、「扉はちょうつがいに乗って回転する。怠け者は寝床の上で寝返りを打つ」(箴26章14節)と賢者が言ったように、少しも先に進みません。そこで、主がシモンに舟を沖に漕ぎ出させ、網を降ろして漁をするように言ったのは、彼に神の国の現実を、その身をもって体験させるためでした。

神は、ある人を指名し、その人の舟(人生)に乗られ、舟を少し沖に出させ(神の御心に)、漁(行動)をさせます。するとその時、自分の家族や日常生活の中に、主のお言葉どおりの確かな証拠を見ることができます。「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(ヤコ1章22節)。

舟に主をお乗せしている友よ。その舟をもう少し沖に漕ぎ出してみませんか。それは、自分の生育歴の問題、親や他人を注視する自分、弱い自分、病の自分…そうです、「自分」から、「主の中に」もう少し漕ぎ出すのです。必ずや神の栄光を見ることができるでしょう。

5章5節

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

シモンはガリラヤ湖の漁師ですから、漁のことはイエスより知っています。彼は、疑問を持ちながらもイエスの言葉に従ってみることにしました。

魚の種類によっては、夜に回遊するものもあり、ガリラヤ湖の漁師たちはそれを知って「夜通し」網を降ろしていました、人生にも、夜型と昼型があるのでは! 「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません」(Ⅰテサ5章5節)。さらに、「…昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光(わたしは世の光である・8章12節)を見ているからだ。夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」(ヨハ11章9~10節)ともあります。主が言う昼間とは神を相手に生き、夜とは神を無視する人生のことでした。

友よ。あなたはどんな人生の収穫を得ましたか。収穫が少なかったのは、自分の知識と経験を先立てた夜の時間にいたからではないですか。ここから、シモンのように「お言葉ですから」と、自分をおいて、主の言葉に自分を委ねてください。み言葉が内の光となって、主の中(昼)を歩ませてくださいます。

5章6節

そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。

「しかし、お言葉ですから」と言って、網を降ろしてみました。すると、網が破れるほど多くの魚を獲ることができました。

「お言葉ですから」こそ、私たちの信仰なのですが、その前に「しかし」がついています。それは、「今の私には信じられませんが、『しかし』あなたのお言葉ですから従います」の「しかし」です。これを、「不信仰の信仰」と称するとか! これは、みことばをすぐに信じられなくても従ってみる、という信仰姿勢のことです。

それは、飢饉になりモアブに移住し、夫と二人の息子を失って帰って来たナオミの姿です。彼女は、「ナオミ(快い)などと呼ばず、マラ(苦い)と呼んでください。全能者が私をひどい目に遭わせたのです。出て行く時は満たされていた私を、主はうつろにして帰されたのです。…主が私を悩ませ、全能者が私を不幸に落とされたのに」(ルツ1章20~21節)と言いました。ナオミがこれほど神に噛みついているのは、それだけ信仰がまだ残っていたからでした。

友よ。「不信仰の信仰」でも、神はあなたが御自分に噛みついてくることを求めています。聖書の中では、「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」(哀歌5章20節)と、良い子にならず噛みつく悪い子を、神は喜ばれています。

5章8節 ①

これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

主のみことばに従って網を降ろし、多くの魚を見たシモンは、主への恐れのあまり「わたしから離れてください」と思わず言いました。

ここで、「わたしは罪深い者」とシモンが言った罪とは、沖に漕ぎ出して網を降ろせ、と言われたことへの不信仰のことではありません。彼が、主の足もとにひれ伏していることから、もっと根本的な罪、「イエスを主・神」として信じなかった罪のようです。

ルツは、ナオミと共にイスラエルに帰り、落ち穂拾いをします。そこで親戚(贖う人)ボアズを知り、彼による保護を求めます。その時、麦束の端で眠るボアズのそばに忍び寄り、「彼の衣で身を覆って横に」なりました(ルツ3章4~7節)。彼女の行為は、シモンが足もとにひれ伏したことと同じく、相手に自分を全く委ねる行為でした。これこそ、神を「主とする」信仰の告白でした。

友よ。罪が分かるのではなく、罪人であるところから霊の世界は開けます。罪人とは、神ではなく自分を信じる人です。その罪を恐れる者は、「主よ、離れてください」と叫びます。しかし主は、その人こそ離さず、むしろ使徒(遣わされた者)にされます。

5章8節 ②

シモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

旧約聖書でも新約聖書でも、人生の途上で名前が変わるケースが多くあります。

アブラム(父)がアブラハム(すべての者の父)に、ヤコブ(押しのける者・争う者)がイスラエル(神の王子)になったのは、存在の変化を表していました。シモンがペテロになったのは、ルカ福音書ではイエスにひれ伏したこの時、マタイ福音書では「あなたは生ける神の子キリスト」と告白した直後に、「あなたはペテロである」(マタ16章18節)と呼ばれました{注…マタイの初期では、「ペテロと呼ばれたシモン」(4章18節・10章2節)と表現}。したがって、「イエスを主」と告白した時から、バルヨナ・シモン(ヨハネの子シモン)から、ペテロ(神の子・岩)と呼ばれました。

名前の変化は、シモン(肉の人)→シモン・ペテロ(「肉の人」であり「霊の人」)→ペテロ(霊の人)へと、人格の変化を超えて魂(霊)の変化を啓示しています。

友よ。あなたは、「シモン(肉の人)」と「ペテロ(霊の人)」のどっちですか。あるいは、肉と霊が混在する「シモン・ペテロ」ですか。できれば、「栄光から栄光へと、主と同じ姿」(Ⅱコリ3章18節)に変えられ、いつもペテロと呼ばれたいものです。

5章10節

イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

右の言葉を聞き、実に多くの人々が主の働き人として自分を主に差し出しました。また、人生の方向を変えた人々がどれだけ多く出たことでしょうか。

《証 し》

学を出て会計士になった。彼には熱心なクリスチャンの友人がいて、いつか彼を負かそうと思っていた。ある時、一緒の仕事に出張になった。夜寝る前に友人が祈り始めた。彼も負けじと祈るが途中でダウン。しかし友人はいつまでも祈り続けた。

…その時、彼の清さ、温かさ、忍耐などが自分にないことがはっきりと示された。そして、「主よ、助けてください」と初めて真剣に神に向かって祈った。後に、「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」とのみことばを聞く。そして、お金を稼ぐ者から、人間をとる漁師になったこの人物こそ、後にイギリスとアメリカの大教会の牧師となり、数々のメッセージ、著書を残したアラン・レッドパス師(故人)でした。

友よ。あなたも「人間をとる漁師に…」との御声を聞きませんでしたか。伝道者に、と言うのではありませんが、「救われたのは、救わんがためなり」との先人の声は真実です。恐れず、「私を用いてください」と応えてください。

5章11節 ①

そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

「世界の歴史で、キリストほど人を愚か者にした人はいない」と言った人がいます。舟を、会計士を、恋人を、人々がうらやむ名誉や安定した生活さえも捨てさせるからです。

名のある大学を卒業した青年が、望めば適う就職を捨てて神学校へ…帰国し牧師になる。伴侶が与えられ、子供が与えられるが、三十歳過ぎに不治の病に侵され、三十六歳で父なる神の御もとへ帰った。闘病中のメッセージが録音され、今も多くの兄弟姉妹を励ましている。後に彼の父が言った。「私は、数十万トンの船を設計し造る責任を負ってきた。しかし、何十万トンの船も、今はもうスクラップに…私の仕事はすべて消えてゆく。しかし、息子の仕事は今も続いている…」と。「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリ13章13節)。

友よ。いつまでも残るものは、「信仰・希望・愛」であり、これらは神との直接のつながりによって生み出されるものです。神との関係だけが最後まで残ります。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハ6章27節)。さあ友よ、すべてを捨てて宣教師に、とは言いません。しかし、あなたの小さな舟(一時の楽しみ、テレビ、酒…)を捨てて従うことはできます。

5章11節 ②

彼らは…すべてを捨ててイエスに従った。

シモンとアンデレ兄弟は、漁師をやめて、すべてを捨てて主イエスに従いました。その結果、彼らの人生は最も豊かな人生に変えられました。

与えると貧しくなり、受けると豊かになる、と考えるのが常識ですが、神の国では反対です。十字架に御自分を献げられたイエスの姿を、「病に苦しむこの人(人々の罪を引き受けたイエス)を打ち砕こうと主(父なる神)は望まれた」(イザ53章10節)と預言者イザヤは語ります。そして、その結果について、「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受け取る。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ」(12節)と記しました。イエスが、父なる神と私たちに御自分を献げられた結果、多くの人々が「イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』」(ピリ2章11節)と告白し、父なる神を信じる者になることができました。

ただし、与えるのは人に対してではなく、神に対してです。漁師たちは、神に献げた結果、人々に自分を与え、その結果さらに豊かな人生を受け取りました。

友よ。私たちも、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(ヨハ6章27節)を受け取りましょう。

5章12節

そこに、全身重い皮膚病にかかっている人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。

イエスが伝道を始めたころの記事には、汚れた霊の追い出し(4章31節)、熱病のいやし(38節)、悪霊の追い出し(41節)、そしてここでは、「重い皮膚病のいやし」が記されます。これらの活動の一面だけを見ると、いやしと奇跡の宗教のように見えますが?

主の伝道の初期に奇跡が多く起こされたのは、イエスの言葉が、いやしや解放の出来事に直結する現実を示し、「イエスは神である」ことを示すためでした。「イエス(人格)=言葉=現実」が一つであることこそ、神である何よりの証拠となります。

しかし、伝道するには奇跡や霊的現象が起きないとできない、となると危険です。さまざまな奇跡や肉体のいやし以上に、罪と死からの救いと、肉と世からの解放が聖書の目的です。「イエス=言葉=現実」の中で、「現実」以上に、「言葉」に集中せねばなりません。見える奇跡は全身の皮膚病をいやしますが、みことばは霊の業病(罪)をいやします(赦します)。

友よ。あなたは「現実」と「言葉」のどちらをより待ち望みますか。現実から言葉を求めると、失望することが多くあります。しかし、言葉から現実を求めると、必ず答えが与えられます。なぜなら、「言葉」が現実になるからです(ヨハ1章3節参照)。

5章13節

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。

重い皮膚病(新改訳・口語訳の古い訳では「らい病」となっていました)は、不治の病で人の姿を変えることもあり、人の罪にたとえられていました。

この病を清くしたのは、主の言葉でした。イエスは、「わたしは言う」(22・28・32・34・39・44節)と断言します。律法学者も今日の教師たちも、解説者以上の者ではありませんが、イエスは御自分を基準とされます。それは、人のあらゆる問題…生と死、喜びと悲しみ、有意義と無意味、平安と不安などは、すべてはイエスの言葉を基準として実行される、との宣言でもあります。これまでも、汚れた霊(人の能力を超えたこと)、熱病(死の一歩手前)、重い皮膚病(絶望的病)、中風(運動機能・言語思考の麻痺)(17~26節参照)など、回復不可能な病が、イエスの言葉でいやされました。

主の御手は、いやしや奇跡などの見える現象以上に、見えない心と霊の領域にさらに強く触れられます。その御手こそみことばです。さらに、「わたしは言う」という「みことば」には「権威」があります。

友よ。今日も主の権威あるみことばに、自分を差し出して触れていただきましょう。

5章14節

イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」

だれでも奇跡を体験したら、人に言わずにはいられません。しかし、イエスはそれをいさめ、祭司に見せるように、とだけ言います。

「聖書の奇跡に目を向ける必要があるが、そこに目をとどめてはならない」とは、先人の知恵です。マルコは同じ記事で、「イエスはその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して…」(マコ1章43節)と記しますが、ここは原語で、「イエスはその人を放り出し、怒りと不快の念を抱き、だれにも話すなと言われた」と、もっと厳しく訳せるそうです。

主は、奇跡に酔うな、セールスポイントにするな、と言っているかのようです。主の厳しさは、目的と手段が取り違えられることへの恐れからでした。奇跡やいやしは、「イエスが主」であることに導く手段です。

しかし、いやしや奇跡は手段なのだから軽んじ祈らなくてよい、と言う訳でもありません。むしろ、病や人知を超えた出来事、心や愛の問題に呻き苦しみ、「主よ。あなたの奇跡に頼るほかありません」と必死に祈る人の方が、「イエスは主である」との確信を得ていることも事実です。友よ。的を外さずに、どんなことも熱心に祈ってください。

5章16節

だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

主のうわさを聞き、大勢の人が押し寄せて来たので、主は寂しい所へ退き祈っていました。

外国より来られた某師の説教の中に…「ある教会の牧師は、礼拝が終わるとすぐに礼拝堂から消えます。ところが、教会の兄弟姉妹は、帰る途中の小高い丘の上で祈っている牧師の姿を見るのです」と…。これは、イエスの姿とはかけ離れているようです。

「病をいやされる信仰」も、いやされなくても「病を受けとめる信仰」もあります。「主は、病をいやした人からすぐに離れて行かれます(実際は、主が離れるのでなく、いやされた人が恵みに満足して主から離れる)。しかし、病がいやされず、苦しみの中にいる人のために、主は人里から退き、その人のために祈っています」とは、もう一つの真理のようです。

自分の病や問題が瞬時に解決されても、そこから主を離してしまう人もいます。反対に、病も問題も解決できなくても、それを主によって受けとめ耐えて祈り続ける人のためには、主はいつまでも祈り続けてくださいます。

友よ。どちらが祝福された人か! 後者では! だから、悩みが解決できなくても、クリスチャンなのにと非難されても、この現実を主によって受けとめ続けてください。主は退いてあなたのために祈っておられます。

5章18節

中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、…群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし…イエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。

群衆が多くて戸口から入れないと分かるや、屋根に上り、瓦をはいで、中風の病人を床ごとつり降ろした男たちがいました。

シモンのしゅうとめのいやしは、「人々が彼女のことをイエスに頼んだ」(4章38節)からでした。重い皮膚病の人は、「主よ、御心ならば、わたしを清く…できます」(12節)と自ら願いました。時には、悪霊に取りつかれた人のように、「…かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか、正体は分かっている、神の聖者だ」(4章34節)と叫ぶ、間違った求めにさえ応えて悪霊を追い出しました。あるいは、ここのように、本人の願いや決意を超え、周りの人の熱意で主のもとに運ばれていやされる人もいます。

友よ。教会に来た人に福音を語り救いに導くことより、教会まで連れて来る方が何倍も難しいものです。それは、本人が歩けない(来る気がない)・群衆にさえぎられる・屋根に上る・瓦をはがす・つり降ろす、などの障害物があるからです。それに負けないために、「愛を増したまえ、わが主よ、我が主よ、心の底より、愛を増したまえ、わが主よ」(聖歌433)と祈らねばなりません。祈りによって、主のもとに連れてくるほかありません。

5章20節

イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

屋根の瓦をはがしてまで、病人を主イエスのもとに連れてきた熱意に、主は病のいやし以上のこと、罪の赦しを与えました。

最初から罪の赦しを求めて主のもとに来る人はわずかです。大方の人は、病気、生きる目的、家族問題、人間関係などで人生の暗闇を経験してから、やっと腰を上げてやってきます。

重い中風の人が主の前に置かれた時、主は病のいやしよりも先に、罪の赦しを宣言しました。それは、病人の願いを超えた恵みでした。しかし、これこそ最も正しい、病(人生問題)の解決手順です。もろもろの問題は、神から離れた「罪(原罪)」に端を発し、「罪々(自己中心から出てくる罪)」を産んでいるからです。原因の根絶なしには、本当のいやしを受けることはできません。

友よ。中風の人がいやし以上の恵みを得たように、あなたの問題がいまだ解決できていなくても、罪の赦しは既に与えられています。「神の慈愛と峻厳とを見よ。神の峻厳は倒れた者たちに向けられ、神の慈愛は、もしあなたがその慈愛にとどまっているなら、あなたに向けられる。」(ロマ11章22節・口語訳)という最大の慈愛と峻厳こそ、罪の赦しです。あなたは最大の恵みを既に受け取っているのです。そのことを、まず感謝しましょう。

5章23節

「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて歩け」と言うのと、どちらが易しいか。

主は、罪の赦しと病のいやしと、どちらが易しいか、と律法学者たちに迫ります。もちろん、病のいやしですが(?) そもそも、病のいやしと罪の赦しの違いはどこにあるのでしょうか。

「神が、今日ほど人々の病をいやされている時代はない」と言う人がいますが、それは真実です。もちろん、祈りによってというよりも、神が人類に与えた医療技術という賜物を用いてです。したがって、医療技術の発達した国よりも、遅れている国々や民族の中で、神の直接的ないやしの御業を多く見るとも聞きました。

一方、罪の赦しは、神の賜物である医療技術や、人類の英知や人生経験をもってしても不可能です。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」(詩49・8~9)からです。

友よ。病のいやしと罪の赦しの違いは、病のいやしは科学技術でも可能ですが、罪の赦しは神の愛だけができる、ということです。病のいやしは、なお不完全な人間の一部分のいやしですが、神の愛による罪の赦しは、「すべてを完全に結ぶ帯です」(コロ3章14節・口語)と言われる完全ないやしです。神の愛は、霊、心、体、他者との関係をも乗り越えさせる完全ないやしを与える永遠の命です。

5章24節

「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。

多くの人が病人ですが、病人であることを認める人はわずかです。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である」(31節)。

病気なのに、病気と分からない生き方に「無責任型」と「責任型」があります。無責任型は、親や他者に責任転嫁し、自分の怠惰やわがままを認めません。この人は、一見楽天的に見えますが、大人になれないので、やがて人間関係に苦しみ、病的になることもあります。

責任型は、社会常識、対人関係でも迷惑をかけない成熟した人に見えますが、起こる問題を自分の中に取り込むので苦しみます。両者とも、病気とは気づかない病です。そして、この病の根本原因は罪にあります。罪というのは、神ではなく人(他者か自分)に頼って生きることです。

友よ。この床から出たいのならば、神よりも他者か自分に依存していたことを「罪」と認めることです。そこから、罪の赦しが始まります。床を取り上げて家に帰ることは、「復活の命で生きる」ことです。「他者と自分」という離れられなかった床を捨ててください。神によって起き上がり、神と共に家(天国)に帰ってください。

5章25~26節

その人は…台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。…人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

歩けず皆に運ばれてきた者が、床を取り上げて歩く姿に皆が恐れ驚きました。

人々は、神の子たち(クリスチャン)に何を見たいと願っているでしょうか。それは、神に何を見たいと願っているか、でもあります。病のいやし、奇跡、商売繁盛、無病息災でしょうか。それらは他宗教からも聞かされ、時にうんざりしています。でも、背に腹は変えられない場面になると、お祓いやもろもろの宗教に駆け込むのが実情です。

しかし、いちばん見たいのは、その人が今まで寝ていた床(今までの人生)から、新しい人生に歩み出すことです。聖フランシスやジョージ・ミラーやマザー・テレサのような人々に持つ驚きと恐れは、事業の大きさにではなく、自己中心から解放された姿に対するものです。「自己中心という罪の床」から、神と人々を愛する者に立ち上がって行く姿こそ、人々を驚かせます。それによって、イエスを神と信じる者が、人々に神を正しく紹介することになります。

自己中心からの解放はどうすればいいのか、と悩む友よ。それは、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(ルカ9章23節)のみことば以外にありません。

5章27節 ①

イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。

レビなるマタイは、ローマ帝国の犬と言われる徴税人でしたが、十二使徒の一人になりました。あまりにも大きな方向転換です。

新約聖書の記者の中で、パウロとヘブライ書の著者(不明)とマタイが特によく旧約聖書を知っていたと言えます。マタイ福音書はユダヤ人向けに書かれ、旧約聖書の引用は他の福音書を圧倒し、九十個所に及びます。その内容は、イエスが神であり、律法はイエスによって完成されることを強調します。彼の名がレビであるように、正統的ユダヤ人の祭司の家系と思われ、小さい時より徹底的に聖書を学び、訓練を受け、祭司の道を歩んだと考えられます。そして彼の人生の振り子が右(宗教・律法主義)に上がり切った所で失望し、その振り子は反対の左(売国奴・徴税人)に向かいます。レビこそ、「全か無か」の経験者です。しかし今、彼の振り子(人生)は主の御手に握られました。

友よ。あなたの振り子(人生)が向いているのは、右(宗教的)ですか、左(この世)ですか。しかし、どちらも正しくありません。正しい振り子の位置は、イエスの手に握られて、どちらに傾きそうになっても、常に上(主イエス)を向いている状態です。

5章27節 ②

イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。

律法を知り尽くしたレビ(マタイ)が、なぜユダヤの敵、ローマ帝国の税金取りに?

マタイ福音書の5章から7章は、イエスがガリラヤ湖北端の小高い山で説教したことから、「山上の垂訓」と呼ばれます。それは、宗教とは何か、信仰とは何か、神の国とは何か、命とは何かについて、神であるイエスの考えをまとめたものです。

そして、6章では、「人から、見てもらおうと…善行(1節)・ほめられようと…施し(2節)・見てもらおうと…祈る(5節)」と、偽善者を激しく糾弾します。

友よ。あなたも偽善者である自分に失望したことはありませんか。レビは、収税所に座りつつ、かつては神の前に偽善者であり、今、徴税人になっても偽善者である自分に泣いて過ごしていたのではないでしょうか。情けないクリスチャンである自分に泣く友(レビ)よ。それでも、主はレビ(あなた)のところに来て「出て行って…見て…わたしに従え」と言われます。

5章27節 ③

レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。

主イエスは、エリートや家柄の良い者や品行方正な者たちではなく、収税所に座り民衆からユダヤの敵と憎まれるマタイを使徒に選びました。

「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」(Ⅰサム16章7節・口語訳)のみことばは、「神は私が私を知る以上に、私を知っておられる」ともなります。

レビは、徴税人として懸命に自分で自分を支え、信じて生きようとしています。しかし、心は空です。マタイ福音書の八章と九章には、多くの奇跡がまとめて載せてありますが、その真ん中に、「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて…」(マタ9章9節)と自分のことを記しています。これは、「皆さん、世界最大の奇跡は、神を裏切り、民を裏切った、どうしようもない偽善者であるこの私のところに、主イエスさまが来てくださり、救ってくださったことです」との涙の絶唱です。

そして、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招く…」(13節)と主が語られた、その病人と罪人こそ私です、と言っているかのようです。友よ。このマタイは、あなたであり私です。ただただ、主の前に泣いています。

5章27節 ④

「わたしに従いなさい」

罪人と思う自分に、声をかけてくださるお方。しかも、権威と愛に満ちて! マタイの心はイエスの眼の中に溶けたのでは!

D・L・ムーディー師が、シカゴの町で一人の酔っ払いに声をかけた。すると酔っ払いは、「余計なお世話だ」と怒った。するとムーディーは、「それ(余計なお世話)が、私の仕事だ」と返したそうです。

主イエスは、「わたしに従え」とその余計なお世話をするために来られました。それまでわたしたちは、親から、会社から、伴侶からも、「私に従え」と言い続けられてきました。しかし主の真意は、「あなたを弟子として仕えさせ、わたしの仕事を完成させる」ではなく、「友よ。あなたに仕えさせてください」です。「人の子は、仕えられるためでなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるためにきた」(マタ20章28節)そのものです。

友よ。主に仕えていただいたのですから、あなたも主に従ってください。さらに、独り子イエスを与えてくださったほどに愛してくださった神を愛するために従ってください。さらに、さらに、神と心を一つにして、人々に余計なお世話をするために従ってください。天国に行き着くまで従ってください。

5章28節 ①

彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

ペテロはすべてを捨ててイエスに従い(11節)、マタイも何もかも捨てて従った(マタ9章9節)とあります。しかし、そんなに簡単に今までの人生を捨てることができるものでしょうか。

「あなたの富のあるところに心もある」(マタ6章21節)とあります。その富こそ、人が命とするものです。その心を捨てることができるのは、今まで依り頼んでいた富に価値がないと分かった時です。ペテロは、漁をする人生が、「何も取れませんでした」(5節)と分かり、マタイは律法に生きて偽善だと分かり、徴税人になって生きてみても偽善者に変わりないことが分かりました。

ペテロもマタイも、それまでの人生の価値を失い、行き詰まりました。しかし、絶望こそが、ペテロを漁師から、マタイを徴税人から立ち上がらせ、主に従う人生に進ませる恵みのエネルギーになりました。神の国は、「心の貧しい者、悲しむ者、飢え渇く者」によって受け取られます。

友よ。この世のもので自分を満たす時、命は無(Nothing)になります。主に自分を委ねる時(自分がNothing)、命は満たされます(All)。「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(マタ10章39節)。

5章28節 ②

彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

マタイは、宗教界で律法を極めようとし、それを得たと思った時、その空しさを知りました。そこで、反対の方向へ向かい、この世のお金や権力を得た時、またもや空しさに閉じ込められたに違いありません。

人生の振り子は、右であれ左であれ、上がるほど、反対方向へ向かう力が強くなります。それなら、と一番下に止まってみると、自分を失う死の世界にいるように思えるので、そこにもいられません。そこで、右に、左に上がろうともがく人、両方を行き来する人とさまざまです。

その時、自分を主人公とする人生論の限界にある空しさを知ることが必要です。徴税人から使徒に選ばれたのは、彼の人生の主人が変わったからです。人生の主人が変わらなければ、根本的なことは何も変わりません。

空しさを覚えている友よ。主イエスに、あなたの人生の主人になっていただいていますか。右でも左でも下でも、結局は自分が主役でした。イエスに主人になっていただく者は、すべてを得るのです。「神の子イエス・キリストは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです」(Ⅱコリ1章19節)。イエスに主人になっていただく時、右でも左でも下にいても、あなたの人生は「然り」となります。

5章33節

人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」

イエスの働きが進むにつれ、イエスを見過ごしにできない人々が出てきます。ここから、ファリサイ派や律法学者との摩擦が表面化していきました。

宗教家たちの三大信仰要素は、「断食・祈り・施し」でした。いやしが行われても、この三つが守られているか否かで、本物と偽物を区別しました。すると、主の弟子たちには断食と祈りが欠けているように見えるので、師であるイエスをキリストとは認められなくなります。

本来の断食は、この世の煩わしさから離れ、神の御心を聴き祈り交わることが目的でした。しかし、断食と祈りと施しが、信仰の目的になり、神との交わりが見えなくなると、それらは律法主義に陥ります。断食は、日数や一定の時間、食を絶ち神の御心を聞き祈ること以上のことで、それは自分を神のために聖別することです。

友よ。祈る時間の聖別ではなく、祈るあなたが聖別されることが大事です。そのためには、日々の生活が神のために分けられること(聖別)が、神が願う本当の断食です。断食は、イエスを主として歩む一日一日のことです。したがって、主イエスと共にいるならば、断食の中にいることになります。

5章34~35節

イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」

婚礼は、人と人が結ばれる時です。ここで言う婚礼は、主イエスと人が一つの命で結ばれる、神と人の契約であり霊の交わりのことです。

すると、主イエスと生活を共にしている弟子たちこそ、婚礼のただ中にいることになり、断食の目的を達成しています。しかし、やがて「花婿が奪われる時が来る」とは、十字架、復活、昇天後のペンテコステまでの十日間のことで、その間弟子たちは主と共にいて交わることができない断食の日々を過ごしました。しかし今は、「父は別の弁護者を遣わし、永遠にあなたがたと一緒にいるように」(ヨハ14章16節)してくださいましたから、主は神を求める者といつも共におられます。

断食には、主と交わるために世や肉を絶つ聖別のための断食と、主との交わりを失う事実上の霊の断食の二つがあり、両者は相関関係にあります。すなわち、世や肉から断食しないと、霊の断食期間(神と交わりのない状態)に入り、世と肉を断食すると霊の断食はなくなり、婚礼の席に座ることになります。友よ。神の子となっても、世のただ中で生活せねばなりませんが、自分の中に世を入れてはなりません。それこそ神に喜ばれる本当の断食です。

5章36節

「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れ…新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。」

旧約聖書の目的は、救い主の来臨を告げ、待望し、その方に神の約束を成就していただくことでした。それは、新しい服をまとった花婿の登場であり、婚礼の日です。

花婿は、「律法」という古い服を脱ぎ捨て、「福音」という新しい服をまとっています。「いまや、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。…ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ロマ3章21~24節)。しかし、宗教家たちは、イエスの福音という衣をはぎ取って、自分たちの古い律法の衣に継ぎ当てしようと考えていました。

友よ。これは、ユダヤ人だけでなく、神の子となったあなたにも当てはまります。ガラテヤの兄弟たちはパウロから、「霊(福音)によって始めたのに、肉(律法)によって仕上げようとするのですか」(ガラ3章3節)と警告されました。私たちは、生まれた時に親から着せられた原罪という古い服を、イエスの血で洗って白くした新しい義の服に換えていただきました。それを、古い服に戻してはなりません。

5章37節

「新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」

主は、神の子たちの成長と完成を、ぶどう酒ができ上がることにたとえて諭されました。

ぶどうは、摘み取られ、つぶされ、濾(こ)され、皮袋に封じ込められ、発酵し、ぶどう酒になります。新しくぶどう酒を造るのに、過去に使った古い革袋に仕込むと、一度膨らんだ皮袋は、新しい葡萄酒の発酵する圧力に耐えられず破け、皮袋もぶどう酒も失われます。

神の子たちも、世から摘み取られ、罪を悔い改め、神の国という新しい革袋に入れられます。そこで、交わり、発酵するように聖別され、成熟した神の子になります。一般社会も教会も人の集まりですが、両者の違いは、一般社会は人が支配し、教会は神に支配されることです。古い革袋とは人の支配のことで、新しい革袋とは神の支配のことです。

友よ。あなたはどんな皮袋の中にいますか。神の子には、組織の教会(人の支配)ではなく、命の交わりの教会(神の支配)が必要です。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタ18章20節)。そうです、主と共にいる交わりで、さらに、「人ではなく、主に支配される交わり」でなければなりません。教会と兄弟姉妹の交わりが聖別される(神のものになる)ように祈りましょう。

5章38節

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」

罪から救い出され、神の子となったぶどうの粒が、ぶどう酒(聖別された者)になるには、新しい革袋の中にいれねばなりません。

神の子には、神に支配された皮袋・教会・キリストの体が必要です。ペンテコステの後、多くの人が救われて教会が出来ました。その時の記事、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使徒2章42節)は、教会のあるべき姿を啓示しています。使徒の教え(聖書の学び)、信徒の交わり(兄弟姉妹のみことばを基にした交わり)、パン裂き(礼拝)、祈り(神へ・とりなし)」が重要です。

友よ。罪を赦されて「神の子である」ことと、「神の子として生きる」ことは違います。神の子として生きるには、日々自分の十字架を負って主に従う、聖別に取り組まねばなりません。聖別こそ、「御霊に満たされ」(エペ5章18節)「御霊によって歩む」(ガラ5章16節)ことです。そして、それはみことばに聞き、分かち合い、礼拝し、祈る、真実な命ある教会の中で行われることです。神に支配された教会になることを祈りましょう。一人ひとりの信仰告白が教会を造り、教会がより真実な信仰告白を一人ひとりにつくります。

5章39節

「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

古いぶどう酒が、新しいものにまさって美味しいのは確かなようですが、右の個所の理解は、一つ縄でまとめるのは難しそうです。

自然科学の分野では、古いものは劣り、新しく開発されたものは何倍も性能が良いものばかりです。したがって、いつの間にか「古いものよりも、新しいものが良い」が人の常識となりました。しかし、信仰生活に関してはその逆である、と言っているようです。

そこで、古いもの…「神が定めたもの」、新しいもの…「人が解釈したもの」としてはどうでしょうか。また、古いもの…「初代教会」、新しいもの…「今の自分たちの教会」ともできそうです。さらに、新しいもの…「聖書を用いた教え」、古いもの…「聖書そのもの」とすら言えます。罪をぼやかすカウンセリング、いやしや賜物の強調、聖書を用いた成長論や可能思考、教理教派偏重主義などに気をつけてください。

友よ。神が定めた真理、神が教会のあるべき姿を啓示した初代教会、六十六巻の聖書を、今この時、この私に語られる言葉として受けとめ続ける…古いものにこだわり続ける愚か者でいてもよいのでは!

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