キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルカによる福音書 第7章

7章3節

イエスのことを聞いた百人隊長は、ユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。

聖書に登場するどの百人隊長も、素晴らしい人格者であるのは不思議です。このような人格者の上司を持てたら部下は幸せです。

人格は、どんな「ことば(命・基準)」を聞くかによってつくられます。しかし、人類はアダムの末でありカインの末裔ですから、理想からほど遠いところにいます。

自己像(自己評価)が低く、自分を愛せず、他者を愛することもできず、理性を超えた罪という敵に押し潰されます。幸福と不幸、自由と不自由は、その人の選択を超えて臨みますが、しかし希望がないわけではありません。

友よ。次の賛美を口ずさんでください…ロンドンデリーの曲に合わせて…

「幸い薄く見ゆる日に、孤独に悩む時に、わが恵み汝(な)れに足れりと、静かな声を聞きぬ。されば、我わが目を上げて、十字架のイエスを仰がん。主よ、汝(な)が愛を思えば、われに乏しきことなしと」…。人の幸福は種々の条件を超え、「むしろ幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(ルカ11章28節)と主は言われます。主の御声を聴き続ける者は、神のような人(神)格者になれます。

7章6節

百人隊長は友達を使いにやって言わせた。「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。」

部下を遣わし、主イエスにこのように言わせた百人隊長は、ナアマン将軍とはえらい違いです。この後も、「わたしの方からお伺いするのさえふさわしくない」とさえ付け加えました。

アンドリュー・マーレー師曰く、「霊の結ぶ実は、『愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、節制』(ガラ5章22~23節)であるが、その中に「謙遜」がないのはなぜだろうか。それは、謙遜は御霊の実ではなく、御霊の実をいれる籠(かご)だからである」と。

謙遜な者とは、自分では生きて行けないと分かり、他者にではなく、ほかの何かにでもなく、神にだけ依存する人です。その人は、「心の貧しい者(神を求める者)」(マタ5章3節)です。反対に、高慢な者とは、自分の力で生き、自分の責任を自分で取ろうとする人です。「主はへりくだる(貧しい)者を広義(主の道)に導き」(詩25・9・新改訳)。「へりくだる(貧しい)者を、勝利をもって飾る」(詩149・4)。

引用文中(貧しい者)…新共同訳

友よ。聖書の中でいちばん祝福されるのは、謙遜な人たちです。「主よ、百人隊長のように、あなたを求める謙遜な者にしてください」と祈りましょう。

7章8節

「わたしも権威の下に置かれている者ですが、…わたしの下には兵隊がおり一人に『行け』と言えば行き…『来い』と言えば来ます。…『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

百人隊長は、権威の力を知っていました。ですから、「主よ、あなたの言葉だけで十分です、必ずそのとおりになりますから」と言えました。

ある本に、「信仰とは望んでいる事柄を確信し…」(ヘブ11章1節)の「確信」の言葉から、信仰が見える、とありました。「確信」は聖書でここだけに使われ、裁判所で被告に有罪を宣言する言葉だとか。そこから、「確信」するとは、神の言葉を「判決」するとなります。それは、高慢になって神の言葉を判断するのではなく、神の言葉の真実さを自分がどのように信じるか、すなわち自分自身の「信仰の判決」です。

そのことは同時に、神に自分を判決させることにもなります。百人隊長は、イエスのことを権威あるお方と確信し(判決し)、「お言葉だけで十分」と言いました。神は、彼の判決(確信)に御自分の判決を下し、「これほどの信仰を見たことがない」(9節)と言い、彼が確信(判決)したとおりのいやしを与えました。

友よ。信仰とは、神の言葉・御心に対する「私の判決」ということになります。私が神の言葉を判決したように、神の言葉が私を判決します。神から正しい判決を受けたいものです。

7章12節

イエスはナインという町に行かれた。…イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、

あるやもめの一人息子が、棺に入れられ運び出されるところに、主が通りかかります。

過去に、多くの葬儀に参列してきました。その時、この人はどんな家族と生活し、何を食べ、どんな仕事を…と考えます。しかし、この期においては一個の物体となり、土に還れば生前の違い(人種・性別・貧富…)はなくなります。この時点で人はすべて平等です。

死んだ一人息子を憐れみ、母親に同情と涙を注いでも、棺を止めることはできません。しかし唯一、それを止め、それ以上に棺(死)を砕くお方が通りかかりました。

  • ●死の使者…こいつも私の国へ連れて行く。
  • 〇主…それはならぬ。私が譲り受ける。
  • ●死の死者…彼は罪人だから私のもので、お前に権利はない。そもそも、罪の価は死と定めたのはお前だ。
  • 〇主…そのとおり。だから私は彼のために罪の代価を支払う。さあ、この者の代わりに私を十字架につけよ。

友よ。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14節)と主が言われた時、それは言葉だけではなく、死者の国の王との交渉が成立した瞬間でした。「彼は自らを償いの献げ物とした。彼は子孫(私たち)が末永く続く(永遠に生きる)のを見る」(イザ53章10節)。

7章15~16節

死人は起き上がってものを言い始めた。イエスはその息子を母親にお返しになった。 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、…「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

棺の中の青年が起き上がり、話し始めました。それを見た人々は神を賛美しました。

死者が生き返ること以上の奇跡はありませんが、たとえ生き返ったとしても、いずれは元の死者に戻らねばなりません。しかし、死者を永遠に生きる者とする奇跡は、主イエスによって全世界で実行されています。

それこそ、罪(死)を赦され、復活の命(永遠の命)を受け取ることです。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることです」(ヨハ6章40節)。そこで、棺から出て来た青年は、何を語ったのでしょうか。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が〝霊〟を限りなくお与えになる」とあるように、神について話せたのでしょうか。

友よ。あなたも棺から出て来た復活の証人です。そして、何を人々に語ってきましたか。自分について、世間話、時事評論、教会の兄弟姉妹の批評ですか。「言葉(表現)」は「言(ことば・命)」から出てきますから、「言葉」以上に「言」が大切です。人は「言(神の命)」で話せば神に栄光を帰しますが、「言葉(人の思い)」で話すと人々をつまずかせることもあります。すべての言葉の主語が、「神は・神が…」となりますように。

7章20節

わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」

ヨハネは、救い主イエスの来臨に先立ち、道を備える役目を仰せつかった者でした。彼は、領主ヘロデの悪事を責めたので牢獄につながれ、死刑の執行を待つ身でした。

らくだの毛衣、皮の帯、いなごと野蜜を食べ、荒れ野で叫ぶ声。雄々しく、王さえ恐れず神の義を貫く信仰の勇士。しかし今、彼の心には迷いがありました。彼が見たイエスは、「わたしよりも優れた方」(マコ1章7節)であり、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハ1章29節)と彼が紹介もしました。そのお方は自ら、「主の恵みの年(ヨベル・捕らわれ人を解放する年)を告げる」(ルカ4章19節)と宣言もしました。

しかし、牢獄で死を待つ彼の前に、解放者イエスは助けに現れません。なぜ、あの方は助けに来ない…と心は迷い、本当にあの方はキリストなのか、との思いに惑わされています。

友よ。ヨハネは不信仰ですか、それとも私もヨハネだと言いますか。「主よ、あなたに従ってきたのに、なぜこんなことが…。なぜもっと早く解放してくださらないのですか。これがあなたの御心なのですか」と叫び泣いたことはありませんか。主に自分を賭けた人ほどこの経験をするものです。しかし、主を心から喜ぶ体験もこの人のものです。

7章21節

そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。

「主よ、いやすことも、悪霊を追い出すことも後でできます。今、ヨハネが危ないのです。どうか彼の所へ行ってください」と頼みたくなります。しかし、主は行かれません。

主は、ヨハネの心を知りつつも行かず、病人、悪霊に取りつかれた人、盲人にかかわっておられました。そしてヨハネの弟子には、「見聞きしたことを告げよ」とだけ言われました。

この時、主は沈黙の中で、「ヨハネよ、わたしはあなたが告げたことを行っている解放者である。あなたはわたしの証人としての役目を十分に果たしてくれた。そして、わたしもあなたへの約束を果たそう。あなたとすべての人を解放するために、これから十字架へ向かう」と語っていたのです。主が十字架へ進むことが、ヨハネを解放することだったのです。

「主よ、なぜ早く助けに来てくださらないのですか」と叫ぶ友よ。主は、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハ14章18節)と言われ、ゴルゴタの十字架へと向かわれました。それこそ、すべての人に必要な最大の助けでした。病気、家族、経済などの問題解決も必要ですが、それにまさる助けを、主は今もあなたに与え続けています。

7章23節

「わたしにつまずかない人は幸いである。」

ヨハネが救い主に抱いていたイメージと現実は少し違っていました。人が持つイメージがつまずきを生み出すことがあります。

旧約聖書では、「神は来て、あなたたちを救われる」と語られました。それは、ユダ族に、男の子として、ベツレヘムに生まれ、十字架へ…と告げる来臨の主の姿です。それと共に、「わたしは…酒ぶねを踏んだ。…わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した。わたしが心に定めた報復の日、わたしの贖いの年が来た…」(イザ63章3~4節参照)とは再臨の主の姿です。

来臨の主は罪を罰して人を救う神ですが、再臨の主は罪人を罰してイスラエル(神の国)を完成する神です。再臨の神を待つ人には、ひたすら十字架へ歩む神は、あまりにも弱い神に見えてしまいます。

友よ。自分を完成してくださる「再臨の神」と、罪を背負うために降りてくださる「来臨の神」のどちらを求めますか。「世の罪に泣きて、祈るわが君を、父なる神は、捨てさせたまわず」(讃美歌133)とある、父なる神と御子イエスの執り成しが、私たちにはまだまだ必要なのではないでしょうか。それがあっての再臨の主との出会いです。

7章24~26節

「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。華やかな衣を着て、ぜいたくに暮らす人なら宮殿にいる。

絶対に変わらないもの(普遍であるもの)を見たいと皆が思っています。

人々が、「悔い改めよ」と語るヨハネを荒れ野に見に行ったのは、彼こそ旧約聖書に人格を与えたような人だったからです。ヘロデにも罪を罪と指摘したヨハネの清廉潔白な姿は、人々の良心と信仰を目覚めさせました。しかし、南風が吹けば北になびく「風にそよぐ葦」のように、宮殿に住む人々は時流の風に乗りぜいたくを甘受してやめませんでした。

真理とは、①普遍的(いつの時代でも変わらない)②有機的(だれにも当てはまる)③単純で美しい(愛的)と、ある哲学者が言いました。風に乗り宮殿に住んでも、逆風に遭えば倒されます。事実、ヨハネの首を切ったヘロデは、その後惨めに生涯を終え、ヨハネは今も聖書の中で生き生きと私たちに語り続けています。

友よ。「普遍的、有機的、単純で美しい」聖書の中に身を沈めてください。その時、神は「あなたがたの霊と心と体とを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨の時に、責められるところのない者にして」(Ⅰテサ5章23節)くださいます。時の流れの上にではなく、将来も変わらない神の上に立ち続けてください。

7章26節

「では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ、言っておく。預言者以上の者である。」

主イエスは、バプテスマのヨハネの存在と投獄事件から、旧約と新約を対比させて違いを表そうとします。

旧約からの律法は、新約になっても無効にも軽くもされていません(マタ5章17~18節参照)。旧約時代は、罪を指摘して神の御前に連れ出そうとし、新約の時代になってからは、神と人の正しい関係をつくる働きが強くなりました。それは、旧約の目的である、神の来臨と十字架の贖いが成就したからです。ヨハネは、旧約と新約とをつなぐ預言者以上の預言者でした。

無残に見える彼の獄中死は、モーセが約束の地カナンに入らずヨシュア(イエス)に後を託したように、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハ3章30節)の実現でした。ヨハネの死の報告を受けた主は、「これを聞くと、…ひとり人里離れた所に退かれ」(マタ14章13節)、ヨハネのことを祈られたのではないでしょうか。神よ、モーセとバプテスマのヨハネにもっと褒美を! と思いませんか。しかし、主にあって死ぬことは決して不幸ではありません。

友よ。讃美歌の中にある、「主にありてぞ、われ死なばや、主にある死こそは、いのちなれば」(讃美歌361・2)を賛美してください。主のために死ぬ、その時も主の平安があなたの魂を包んでくださいます。

7章28節

「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

バプテスマのヨハネは偉大な人物だが、神の国では彼も大きな者ではないと言います。

ここでは、歴史上の人物の中で、とは言わず「女から生まれた者」と言っています。それは、能力や影響力ではなく、「人として」という意味に理解できます。

偉大な人ヨハネは、「荒れ野で呼ばわる者の声(言・ことばはイエス、彼は言・ことばを伝える声・言葉)、主の道を整える者(道はイエス、彼はイエスまで導く者)」です。さらに、「その方の履物のひもを解く値打ちもない」(マコ1章3・7節参照)と謙遜です。彼は全存在をイエスに献げた最も偉大な人物でしたが、それでもなお、苦難に直面し、主に対する疑問を抑えられませんでした。

友よ。偉大な人物ヨハネでも、疑いを持ちました。それは、肉体と肉を持って生きる者の限界です。それに比べ、肉体と肉を脱ぎ捨て、「霊の体」(Ⅰコリ15章44節)を受け取り、直接神を見る天国の住人に不信仰はなくなります。それで、「彼よりは偉大」と言われる者にされます。地上では、不信仰との戦いがありますが、もうしばらくです。天国に希望を置ける恵みを感謝しましょう。

7章29~30節

民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで神の御心を拒んだ

ヨハネの教えを受け入れた人々は洗礼を受けましたが、拒んだ人々もいました。その結果、洗礼を受けた人々は「神の正しさ」を知り、拒んだ人々は御心が分かりませんでした

神の御心は、人の知恵や経験で分かるものではありません。それらは、啓示(神が人に御自分を示す)を受けて分かるものです。さらに、神の啓示を受け取るとは、神の御心を研究し、知識で理解することではなく、実際に神のみことばに従うことです。

つまり、洗礼の意味を探求して神が分かるのでなく、「ヨハネの教えを聞き…洗礼を受け」た者が神を理解できるようになります。なぜなら、神がその人に御自分を示すために、聖霊をお遣わしになるからです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(Ⅰコリ12章3節)。

友よ。あなたの神に対する姿勢は、研究型ですか、それとも受容型ですか。研究型は、自分の立場から神を見ようとし、いつの間にか自分が主になります。受容型は、神から自分を見ようとするので、イエスを主とします。「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」(ヤコ4章6節・口語訳)お方です。

7章32節

「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった」。

結婚式に招待されても踊らず、葬式に参列しても泣きもしない。これぞ、ひねくれ者としか言いようがありません。

葬式とは、ヨハネが罪の悔い改め(自分を葬る)を勧めたことでした。すると彼らは、罪を認めたくないので、「あれは悪霊に取りつかれている」(33節)とヨハネを引きずり降ろします。

結婚式とは、主イエスが来て罪を赦し、悪霊を追い出し、病をいやし、私たちをキリストの花嫁として迎えることでした。すると、イエスを主と認めることは、自分が主人の座から降ろされることになるので、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(34節)とののしります。彼らの思いには、自分の願いが通るかどうかがすべてで、真理のかけらもありません。

友よ。葬式と結婚式は、信仰生活においては一つです。それは、罪に悲しむ者が、赦された喜びに踊るからです。「今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです」(Ⅱコリ7章9節)。本当の喜びが、罪の悔い改めから始まるならば、罪を認めることは恐れではなくなります。弔いの歌で泣き、笛で踊る、罪の告白と十字架と復活の中を歩んでください。

7章36節

あるファリサイ派の人が、…願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。

主イエスとファリサイ派は、聖書の中で対立しました。それなのに、なぜこのファリサイ派の人シモンはイエスを招いたのでしょうか。

当時、大事な客や高貴なラビを招く場合、最初に足を洗ってあげるのが礼儀でした。しかし、主はラビのシモンに向かい、「あなたは足を洗う水もくれなかった」(44節)と言ったことから、彼はイエスを大事な客とは考えていなかったことが分かります。彼の意図は、今、人気絶頂のイエスを招くことで、自分の力量を示すことにあったのでは?

彼は、イエスを主人としてではなく、ほどほどの客とし、主人はあくまでも自分自身でした。

神と人の関係を分類すると次のようになります。

  1. 私だけ…自分が主人・未信者・自己中心
  2. 私とキリスト…信者だが、あくまでも自分が主体で、キリストは自分に従う神
  3. キリストと私…キリストが主人で自分がしもべ、キリストあっての自分
  4. キリストのみ…自分の全存在をキリストに明け渡している

友よ。とかく②の「私とキリスト」が強くなりがちですが、③の「キリストと私」を毎日、毎時間、毎分の目標にして歩んでください。

7章37節

一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、

主イエスとこの女の姿は、神と人の関係を表すのにとてもよいケースです。

彼女は、「罪深い女」と皆に後ろ指をさされていたので、人前には出ることをなるだけ避けていたに違いありません。しかし、人々の冷酷な目の間を通り抜け、主にささげる香油を携え、まっすぐにイエスに近づき、自分の涙で主の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に接吻し、香油を塗りました。

ここに出て来た彼女の姿は、「皆さん、私は見てのとおりの罪人です。この場にいられるような者ではありませんが、しかし、私にはどうしても主イエスさまが必要なのです」との告白に見えます。まさに、「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴28章13節)。

女が、自分をさらし者にしてまで出て来たのは、道徳レベルを超えた、存在の罪の自覚が彼女にそうさせたからです。道徳の罪は、隠して忘れることもできるでしょう。しかし、存在の罪(原罪)は、罪人の身代わりに十字架につかれたイエス以外に取り除けるお方はいません。

友よ。既にその罪を赦されたことを感謝しましょう。

7章38節 ①

イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

マルコ福音書にも場面は違いますが同じような記事があります。そこでは、女が主の足に注いだ香油は、三百デナリオンほどもの多大な犠牲であったと記されます(マコ14章)。

老夫婦の牛が子を産むことになり、子牛の色が赤か黒かによって、神に献げることを決めた。しかし、どちらにするかは、夫の心に秘められた。時至って産まれたのは黒い子牛であった。夫曰く、「私の心に決めていたのは、赤牛だった」と…(トルストイ短編より)。

結局、この老人は自分自身へ献げ物をしたのであって、神には偽りを献げたことになりました。神のため、貧しい人のため、と言いながら、本当は自分の肉のためであることが多々あります。この女が全財産を主に注いだのは、「この人は多くの罪を赦された」(47節)からであると主が後に解説して言われました。

友よ。あなたは原罪(存在の罪)から解放された価値をどれほどに見積もっていますか。それは、ガレー船(奴隷を運ぶ船)から、天の港へ向かう客船に移された恵みではありませんか。それなのに、その客船の中で自分のものにこだわって生きる必要があるのですか。永遠の命に対して、自分の命(三百デナリオン=全財産)を惜しんではなりません。

7章38節 ②

イエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

この家に入ってきた女の目は、涙であふれていました。それがイエスの足にこぼれ落ち、失礼と感じて髪の毛でぬぐったのでしょうか。

多分、イエスを見た時から、女の目は主の足を見ていたのではないでしょうか。それは、罪人の自分の所へ歩いて来てくださった聖い神の子の足が、自分の罪のために汚れて見えたからです。それが分かった時、彼女はイエスの足もとに身をかがめると同時に、目から涙があふれ出ました。その時、自分のプライドを保つ必要は全く失われました。それが、髪の毛(女性の大事なプライド)で、汚れた足をぬぐう行為となったのでは!

愛されていることが分かると、愛する人のために自分のプライドを失うことは何ともなくなり、その人の前では自分を裸にできるものです。

友よ。あなたが香油を持ち、イエスに塗るとするならば、イエスの頭に塗るのではありませんか。そこがいちばん目立ち、いつも自分の行為を感じて(嗅いで)いただけるからです。しかし、神のもろもろの恵みに対して感動して涙を流すときもありますが、自分の罪のために十字架へ歩まれる主の御足に涙を流す者となりたいものです。

7章39節

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

ファリサイ派の人々の魂胆は、イエスを「ただの人」にすることでした。神どころか、預言者からも引きずり降ろしたいと考えています。

主が、足を涙でぬらい、髪の毛でふき、香油を注ぐことをこの女に許しているのは、彼女が「罪深い女」だからこそです。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マコ2章17節)。D・L・ムーディー師が、夜の町で酔っ払い男に声をかけた。すると男は、「余計なお世話だ」と怒鳴った。そこで彼は、「それ(余計なお世話)が私のビジネス!」と答えたそうです。主イエスが、ファリサイ派の人シモンの家に来た理由は、この女を待つためでした。

友よ。あなたはどんな姿で主にお会いしますか。だれからも後ろ指をさされない立派な者として、神と人々に見せる姿ですか。多分、その時主は、あなたから逃げて父なる神に会いにヘルモン山へ行かれるのでは? しかし、あなたが罪に泣いているなら、主はヘルモン山からも、天からも下ってあなたのそばに来て、「あなたの罪は赦された」(48節)と言ってくださいます。主に触れることのできる人は、自分が本当に罪深いと思える人です。

7章41~42節

「一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人に返すお金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しに…。どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

この世と聖書の世界では、原因と結論が反対のことがあります。罪の赦しと高価な香油を主の足に注いだ、ということにも注意が必要です。

一般的には、女が高価な香油を主に注いだので、イエスが女に「あなたの罪は赦された」(48節)と言った、となります。しかし聖書の真意は反対で、この女が多くの罪を赦されたので、身に余る高価な香油を主に注いだ、となります。それが、この場面の五百デナリオンと五十デナリオンの借金の帳消しの記事にも通じます。

それではこの女は、どこでイエスの罪の赦しを受けたのでしょうか。それは、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ロマ10章10節)を女は実行していました。女が皆の前に、イエスの葬り(十字架)のための香油(信仰)を携えて来たことこそ信仰の告白でした(マコ14章8節参照)。

友よ。罪の赦しは、霊的な出来事で目に見えることではありませんが、全く見えないわけではありません。それは、あなたが主に自分を献げる量によって、受けた赦しの量を測ることができます。「赦されたことの少ない者は、愛することも少ない」(47節)。

7章47節

「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

主は、この女は多くの罪を赦されたので、多くの愛をささげたと言われます。愛の量は、どこで、どのように量るものでしょうか。

愛することが純粋か不純かは、相手のために自分を壊し捨てられるか否かで分かります。女が髪の毛で主の足をぬぐったことは、主のために自分のプライドを捨てたことでした。さらに、「高価なナルドの香油の入った石膏の壺を壊し」(マコ14章3節)ました。

その壺は、それまでの彼女の何よりの宝だったに違いありません。これらの二つの行為は、イエスを命と宝にすることでした。真珠と宝のためには、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタ13章44・46節)ものです。女は、プライドと宝を捨てても、イエスから受けた愛に比べれば小さいと考えました。

友よ。壺を壊し、髪の毛でぬぐうことは、自分の自我を割り捨てる行為です。主イエスは、決して間違っていない自分を、十字架上で罪人の私たちのために裂かれました。あなたが罪人の自我を、主イエスのために割ることは、主を心から愛することです。それは、あなたの命がさらに豊かにされることです。

7章48~50節

イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。…イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

救いは、完全に神の御業であり人の業ではありませんが、「あなたの信仰があなたを救った」の言葉には、少なからず戸惑いを覚えます。

「救い」と言うとき、それは罪の裁きからの救いです。そして、人の罪の裁きは、神の御子イエスの来臨と十字架の贖いにより終わりました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ3章16節)がそれです。

それでもなお、罪に定められるのは、神が人を裁くからではなく、人が自分で自分を裁いているからです。神が備えた罪の裁きを受け取らないので、その責任を自分で負っているのです。「…信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(同18節)。信じない者とは、主が備えた救いを受け取らない者のことです。

友よ。信仰とは、自分で救いをつくることではなく、イエスという御人格を信じ、救いの御業を受け取る行為です。それが、「あなたの信仰があなたを救った」です。神の責任は果たされました。あなたの信仰の責任だけが残っています。

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