キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第1章

1章1~2節

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。

コヘレトの言葉を口語訳では「伝道の書」、新改訳では「伝道者の書」と呼ばれます。著者は、「私コヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」(12節)の記事から、ソロモンとする人もいますが不明です。

仮にソロモン王とすると、この書を貫いている「空の空」に真実味が加わります。貧しい人生に失望した人が「空の空」と言っても虚しくひびきますが、栄華を極めたソロモンが「空の空」と言うことで、この世界の空しさを認めることもできるからです。

この書を貫く教えは、この世の空しさを徹底的に暴くことで、この世界を超えた神の世界に人を導くことです。それが、「太陽の下(日の下)」と二十七回も繰り返され、「太陽の下」とは「この世・肉の世界」であり「罪の世界」を指します。

この世が太陽の下であるならば、太陽の上があります。それは「神の世界・霊の世界」です。人は土の塵で造られました(太陽の下・罪の世界)が、神は「その鼻に命の息を吹き入れられ…人は生きる者となった」ように、太陽の上で生きるのが本来の姿です。

友よ。聖書を読むとき、下(この世・肉)から上(神の世界・霊)を見るのでなく、上から下(神からこの世)を見ると真実がわかります。 

1章2節

コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。

「空の空、空の空、いっさいは空である」(口語)の言葉に接する時、大方の日本人にとっては違和感なく、むしろ同意できる親しみ易い言葉に聞こえます。

それは、東洋思想が「空」を説いてきたからです。「色即是空(色=宇宙に存在するもの)、空(実体が無い)」は、「般若心経(般若=悟り)」から出てきました。般若心経とは、「空を悟る」こととなり、天台宗、真言宗、禅宗などで教えられてきました。

インドで宣教した某宣教師が東洋思想の救いを尋ね歩きました。ある高僧に、「あなたがたの救いはなにですか」と尋ねると、「ブラーム(無自我)になること」と答えました。「ブラームになるためにはどうすればよいのですか」との質問には、「ニ・ネーバー(存在していない)を繰り返す」と説いたそうです。

それは、「世にあるもの(色)は、因と縁(因縁)によって存在しているだけで、本質は無い(空)ことを悟る(般若)ことの教え(心経)」となります。この教えは、「人間生活の苦悩や迷妄から開放され自由になること」すなわち自我からの解放を求めています。

友よ。「空」の世界観に同感していませんか。自我は悪ではなく、誰かを愛するために備えられた人格でもあります。それは捨てるのでなく、真の愛に生きる時に解放されます。その相手は主イエスです。

1章3節

太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう。

コヘレトは、「太陽の下」にある「空」について何度も語ります。そこで、太陽の「上」と「下」と言う意味をしっかりと把握する必要があります。

神は土の塵(自然生命)で人を形づくり、その鼻に命の息(神の霊)を吹き入れ、それで人は生きる者(肉体と神の霊=命を持つ者)となりました。

神は、その人をエデンの園に置かれました。園には中央があり、そこに「命の木」と「善悪を知る木」がありました。「命の木」は、「私は天から降って来たパン」と言われる主イエス。「善悪の木」は、人を主イエスに結び交わらせる「戒め(養育係り)」でした。

園の中央こそ、人の命の場=太陽の上で、園なる自然界は自然生命を満たす=太陽の下です。アダムとエバの時から、人は園の中央=太陽の上から、園という自然界=太陽の下で生きねばならなくなりました。

神の命から離れた人間は、自然界で生きねばなりません。それはちょうど、舟からの空気(霊の命)を受けて水中(自然界)で生きる潜水夫に、上からの空気が絶たれたのに似ています。すると人は、水(この世)から命を得ようと労苦します。しかし、そこに本当の命がないのであらゆることが「空」になります。

友よ。あなたも太陽の下に生まれた者でした。しかし今は、太陽の上に上げられました。主イエスの十字架で罪を赦され、復活の命に生きる太陽の上です。

1章3~4節

太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり永遠に耐えるのは大地。

「コヘレト」の言葉には、「集会を司る者・会衆に語る者・討論する者・講義する者」などの意も含まれると聞きます。先に著者不明と述べましたが、著者が誰であろうと、内容が真実であることが大切です。

「太陽の下は『空』」と語った作者は、太陽の下なる現実世界の真実を明かし始めます。先ずは、「労苦の空しさ」を取り上げました。

日本において、栄華を極めたソロモンのような人として豊臣秀吉がいます。草履(ぞうり)番から征夷大将軍に上り詰めたのに、最期の歌は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪花の事は 夢のまた夢」だったと。

また、「一代が過ぎて一代が起こり…絶えるのは大地」も真実です。諺に、「長者の三代目はイモ畑」と。一代目の労苦も代を重ねると跡形もなくなり、残るのは大地だけになります。ある哲学者が、「歴史はいよいよ古くなる」と言ったのは、ただ繰り返している人生と歴史だからです。

神の子の友よ。今の先に幸せや豊かさがあると考えてはなりません。人は先に進むのでなく、後ろに、主イエスの十字架と復活に戻るべきです。そうすると、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5章17節)の人生が始まります。

1章8~9節

日は昇り、日は沈み、あえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き、風はただ巡りつつ、吹き続ける。

朝太陽が昇り、沈んでは夜となり、風は方向や強弱を変えつつも、今日も同じに吹き続けて繰り返します。 

「日」を希望・救い・目的などに、「風」を時代の流れに例えることができます。昇っては沈み、吹いても方角が変わるだけで「空」を繰り返すだけです。

「一人の結核患者が退院の日に屋上から飛び降り自殺をする。長い間の闘病…病がいえて退院の許可が出た。…喜びであるはずの彼がなぜ自殺したのか。

院長は詮索し…一つのことを思い出した。明日退院…と言った時、彼は喜ばなかった。…彼はボソボソこんなことを言った。「私の会社は別に私が必要なのではないんです。私が入院すると次の日に他の人が私の机に座って仕事をし、それでどうということもないんですよ」。

院長は…彼の自殺の原因では、と考えた。 「別に私が必要なのではない」。一体そういう人生を苦労しながら生きて行く意味があるのだろうか。

(榎本保郎著一日一章より、一部割愛)

友よ。あなたの人生にどんな意味がありますか。ただ繰り返しているだけですか。それとも、目的に向って進む人生ですか。繰り返される日々も、その時代の流れも、全てはあなたを創造主の所へ導くためです。創造主に出会った時、人生の意味を教えられるのです。

1章8~9節

何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず、目は見飽きることなく…。かつてあったことは、これからもあり…太陽の下、新しいものは何ひとつない。

日は昇り日は沈み、風は巡り巡って元に戻り、川の水は海を満たせない。これが人類の営みであり、自分の人生でもあり、何もかも、もの憂いだけです。

「いつまでも、全ては繰り返すだけ」のことを「永劫流転」と言い、同じことをギリシャの哲学者ヘラクレートスが「万物は流転する」と言い、今日では「歴史は繰り返す」とも言っています。

ある人曰く、太古以来人生劇場はいつも同じであると。それは…人生のストーリーは全く同じで、違うのは演じる役者(国、人種、老若男女)と時(時代)だけである…と。まさに「何もかも、もの憂く、飽きることなく、繰り返しており新しいもの何もなし」です。

繰り返される人生劇場の根本原因は、自己中心という「罪」です。各自の人生は千差万別に見えますが、その支配者は「罪」です。人生劇場のストーリーが変わらないのは、主役(罪)が同じだからです。

友よ。人生を変えるには、「主役」を代えない限り「何もかも、もの憂く、繰り返すだけ」になります。人生の主役から自分が降りて、主イエスに主役になっていただいてください。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリ5章17節)。

1章10~11節

見よ、これこそ新しい、と言ってみても…永遠の昔から…この時代の前にもあった。…これから先にあることも、その後の世にはだれも心に留めはしまい。

新しいものが出てくると、これが幸福を与えてくれるかも、と期待して手にするが間もなく古くなり、別の新しいものを得なければならなくなります。

釈迦は…「苦」を克服する為に「執着を捨てろ」と言い、世の全て必ず変化し「無常」である。それが分からないから欲望(煩悩)が判断を誤らせる。欲望が「執着」を、執着が「苦しみ」を生む。「無常」という真実をあるがままに受け入れることでしか心の平安(悟り)は得られない。だから、全てのものに対する執着を絶て…と説いたと聞きます。

彼の説く救いは、自分で自分の心(自我)を制し、繰り返す自然界の法則を受け入れ逆らわないこと、と言っているようです。しかし、自我は、神が与えた自由意志であり、独立した存在として必要なものです。

神が人に自我を与えたのは、愛なる神だからです。神は「父・御子・聖霊」の三位一体の中に人を入れるために自我を与えました。愛は、両者の自由意志から、相手を選び、継がり・交わる中に作られるからです。

友よ。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる」(ロマ10章10節)とあるように、自我を自分で捨てるのでなく、その自由意志をもってイエスを主として受け入れることで救われます。

1章11節

わたしコヘレトはイスラエルの王…天の下に起こることを全て知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさった…。

この書の作者は、「イスラエルの王」と自称します。イスラエルの王とは、神を信じ世を治める知恵者であることを表します。王である方が、心と知恵を用いて天が下のことを調べた結果が「空」でした。

人生論には、「プロセスの先に得る結果」と、「結果を知ってのプロセス」の二つの方向があります。とかく日本人は「一生懸命やったのだからそれで良し」とする…プロセス重視人生論…となり、西洋人は…結果重視型人生論…になり易いと言われます。

神を知らない人の人生論(東洋的)は、結果が分からないのでプロセスに力を注ぐしかありません。神を知る人(西洋的)は、人生の結果は「生か死か」であることを知り、生死は、真の神イエスを信じるか否かに係わることを知ります。

神を知らない人は、自分の人生を悔い改めることはできません。なぜなら自分の人生の失敗を認めることになるからです。神を知る人は、悔い改めこそ命へ至る道であることを知り、神に依り頼みます。

友よ。神も結果も知るあなたの人生論は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタ6章33節)では!その神の国はやがて行くところではなく、今、主イエスと結ばれて生きるところです。

1章14~15節

わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空で…。曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。(口語訳)

コヘレトは空しさの原因を、「曲がったもの」と「欠けたもの」にあると突き止めました。

「曲がったもの」とは、羊飼いの杖のことで、真直ぐだった木を火に焙って曲げました。その杖は、不従順な羊の首にかけて引き戻し、従順な羊にするために使いました。しかし、一度曲げた杖を元に戻そうとすれば、柔軟性を失っているために折れます。

「欠けたもの」とは、茶碗の淵が少し欠けたものや、あるいは五個で一セットなのに四個では差し出せない物のように「不完全なもの」を指します。「曲がったもの・欠けたもの」こそ、人間の中に入ってしまった「原罪」であり、人間の命の本質を表します。

しかし、人は自分の曲がりや欠けを努力や教育や科学の発達により直せると考えていますが、それは人が太陽の上に行けないように不可能です。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」(ロマ3章20節)

友よ。曲がりと欠けを直せるお方がいます。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者全てに与えられる神の義(完全)です」(21・22節)。

1章16~17節

…私の心は知恵と知識を深く見極め…熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり愚かである…ことだ。これも風を追うようなことだと悟った。

昔、「哲学自殺」という言葉があり、人生を深く考え過ぎる人のことでした。コヘレトも知恵を尽して見極めたが、風を追うように何も得ることができませんでした。それどころか、「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」(18節)と言います。

それでは、あまり深く考えず、悩まず、真面目過ぎず、世に合わせて生きるのが幸せなのか。否、人の悩みは悪いものではなくむしろ必要です。人が悩むのは、「神は…永遠を思う心を人に与えた」からです。

その永遠は、太陽の下にはありません。永遠を思う思いは、自分を造った神を求める思いです。さらに、永遠は神の性質、「義・聖、愛」を求める思いでもあります。しかし、太陽の下には無いので、求めれば求めるほど、「風を追うようなこと」になります。従って、悩まなければ一番大事なことを知らずに一生を終え、死が待ち構える所へ行くだけになります。

友よ。体に起こる痛みが肉体を守るサインであるように、生きる悩みは、霊の死から守るためのサインです。だから主は、「貧しいもの、悲しむ者、義にうえ渇く者は幸いです」と言われました。「悩む→自分と世の限界を知る→神を求める→神に至る」です。「我思う故に我あり」は、「我悩む、故に我神に生くる」です。

1章18節

知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す

より多くの知恵と知識を持てば幸せになれる、との思いに反し、もっと悩みも痛みも増すと言います。それは、正しい知恵と知識を持たないからです。

本当の知恵と知識は、人に命を与えるものであるべきです。そこで聖書は、「主を畏れることは知恵の初め」(箴1章7節)と言います。「畏れる」とは“神を敬う”を超え、神に愛され神を愛することです。そのことをパウロは、「あなた方がキリストに結ばれ(Ⅰコリ1章5節)…私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられるのです(同9節)」と言いました。

人の命は、一人の中にも、他者との交わりにもなく、神と「結ばれ、交わる」ことにあります。この知恵は、「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」(箴2章6節)とある神から受け取ります。

さらに「知恵」と「知識」には立場の違いがあります。知恵は「神に関する知識」、知識は「自然界や世に関する知識」と理解できます。ですから、知恵(神と自分の正しい関係)を持つと、正しい知識(人間社会のこと)を正しく理解することができます。

友よ。知恵が知識を作りますが、知識は知恵を作れません。ですから、神の愛を受け取り、神を愛する本当の知恵を求めてください。そうすると、自分についても他者との関係についての知識が与えられます。

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