キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

コヘレトの言葉 第6章

6章2節 ①

ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので…、

人が生れ自分で備えるものはわずかで、最初は親から受け、その親も先祖か受け、さらなる真実は全て神によって備えられたものを用いているだけです。

人は神から与えられたものを自由に用い、自分の望みを果たすことを考え実行します。しかし、これが太陽の下の不幸の一つだと言います。そこで神は、その人にいつまでもそれを享受することを許しません。 

なぜならば、神のものであることを忘れ、自分のものにするとは、それらを自分の命にすることです。様々のものが神からの恵みであることを知る時、恵みを通して神を知ることができますが、それを自分のものにした途端、自分が神になります。

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(Ⅰコリ4章7節)。

友よ。人は神からの恵みに慣れて、お金、家、名誉、健康、家族…を、もっと持つことで幸せになろうとします。そしてそのための手段として神をも持ちだします。ここにも、「方向違い・的外れ(罪)」があります。恵みを用いて神へ近づくのが正しい方向です。

6章2節 ②

ある人に神は富、財宝、名誉を与え、この人の望むところは何ひとつ欠けていなかった。しかし神は、彼がそれを自ら享受することを許されなかったので…、

創世記1章1節から2章3節までを第一創世記、2章4節から第二創世記とも言います。第一は天地万物の創造、第二創世記は人の創造が主な内容です。

神は土から人を造り(自然生命)、命の息を吹き入れて生きる者とし、エデンの園に置かれました。エデンからは、ビション(豊か)、ギホン(恵み)、チグリス(結実)、ユーフラテス(力)の四つの川が流れて園を潤していました。それら4つの川(豊・恵・結実・力)は、被造物である人間が、それらによってエデンの上流にいる神と継がり交わるようにする恵みでした。しかし人は、恵みを私物化し、目的の神へ来ませんでした。

貧しい牧師が、小学生の二人の息子と共に中国に聖書を運ぶために、有り金全部はたきました。行った先で、かつて中国で活躍し長年牢獄生活を強いられ、今は老齢のために目の不自由な老牧師に出会いました。帰り際に、彼は二人の子供を手招きし、手を置き祈ってくれました。二人は今、牧師とされています。

友よ。4つの川の恵みの水を飲むのは、その水を与えて下さる神のみ元へ行くためです。その恵みの水で満足する者はそれすらも取り上げられ、恵みにより神に行く者はそれを永遠に持ち続けられます。

6章3節

人が百人の子を持ち、長寿を全うしたとする。しかし、長生きしながら、財産に満足もせず死んで葬儀もしてもらえなかったなら…。

子供が100人いて長寿を全うした人は、豊かで、人々から羨望され、皆に慕われた人生だったに違いありません。しかし、葬儀をしてもらえませんでした。

アブラハムはウルで豊かに暮らしていましたが、彼の妻は不妊でした。「あなたは…父の家を離れ、私が示す地へ行きなさい。私はあなたを大いなる国民とする」(創12章)との神の声を聞きます。彼が神の声に従ったのは、子が無い彼に、子が与えられる可能性(大いなる国民とする)も決意の一因だったのでは。彼がウルを出たのは六十才頃、カナン到着は七五歳でした。しかし、その後二五年間も子は与えられませんでしたが、百歳でイサクを得ました。

「葬式をしてもらう」とは、「次の世に送ってもらう」ことです。しかし、だれが次の霊の世界へ送ってくれるのでしょうか。それは、家族でも宗教家もできません。それができるのは、「イサク」です。イサクこそ、信仰による「永遠の命」を表します。

イサクは、信仰によってその人の中に存在した御国の跡継ぎです。肉体を脱ぎ捨てる時、アブラハムはイサク(永遠の命)によって天国へ向かいます。

友よ。あなたは自分を葬ってくれる信仰の子イサク(永遠の命)を持っています。主に感謝しましょう。

6章4~6節 ①

流産の子の方が幸運だと私は言おう。その子は空しく生まれ闇の中に去り、その名は闇に隠される。太陽の光を見ることも(ない)…、その子の方が安らかだ。

日の光を見ることなく、母の胎内から闇に葬られる子供が数多くいます。また無事生まれても、諸々の病や戦争や事故などにより、成長し自分の意志を持つ前に亡くなる子供も数え切れません。これらの子たちはどこへ行くのでしょうか。キリスト教の教えでは、「イエスを主と信じた者は救われる」ですが、それでは、信じるという意志を持つ前に亡くなった子たちは救われないのでしょうか。

その問いの一つの答えをルカ福音書16章に見ます。「金持ちの家の門前に貧しく病のラザロがいた。二人とも死んだ。ラザロは、天使たちにより宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれた。金持ちは、陰府におり、苦しさから目を上げると宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが見えた」。

愛なる神の御心は、一人も滅びないで救われることです。ラザロは信仰告白した神の子とは思えず、その機会すらなかったのでは。彼こそ未熟な生のまま死んだ幼子の姿を啓示しているのではないでしょうか。

友よ。神は堕胎された子も、自分の意志を持つ前に死んだ子たちをも完成する、「アブラハムの懐」なる霊の世界を用意しておられます。しかし、今、神を信じる能力ある者は、その人の信仰により裁かれます。

6章4~6節 ②

その子は空しく生まれ、…闇に隠される。…その子の方が安らかだ。たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら何になろう。

金持ちとラザロの物語は、人が死んだ後に何処へ行くかの啓示を与えます。聖書の世界は、単に「天国と地獄」の二極に分けているだけではないようです。

パウロは、「十四年前に第三の天に引きあがられた人がいる(多分御自身)」(Ⅱコリ12章2節)と言います。また、天国(第三の天)に行き、父なる神を見た者はまだ誰もおらず、独り子(イエス)が神を示した(ヨハ1章18節)と主が言われました。

すると、第二の天…ラザロが行った所と、ハデス…金持ちが行った所があるとわかります。第二の天は、堕胎された子や不完全な者たちが主イエスを教えられる所。ハデスは、地上でまとったものをはがされて罪人の姿を知らされる所、と言えます。

よく地獄と言われる所は、地上の罪の罰を受ける所を思われますが、しかし「肉では死に渡されたが、霊で生きる者とされる」ために、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました」(Ⅰペト3章18~19節)ともあります。

友よ。霊の世界を完全に理解することは不可能ですが、霊の法則は、「イエスを主と信じ、主の御血潮で罪が赦され、復活の命を得て神の子となる」です。どこであろうとも、十字架なしに救いはありません。

6章7~9節

人の労苦は全て口のためだがそれでも食欲は満たされない。…欲望が行きすぎるよりも目の前に見えているものが良い。これまた空しく、風を追うようなことだ。

「働くために食うか、食うために働くか」は、昔からの問いです。単純に見えるこの問いは、「何のために生きるか」の根本的な問いでもあります。

太陽の下での行動を突き詰めると、「食べるため」にとなるが、いくら食べても満たされません。そこで、欲望に走るよりも目の前にあるもので満足することが良い、と。しかし、これも空しいと言います。聖書はそれについて、「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」(Ⅰコリ6章13節)と。

神は肉体とそれに必要な食物を与えましたが、「食べるために働き、働くために食べる」だけの人生は「滅ぼされる」と。それらは必要ですが、その目的は「主のため」だと言います。それは、主を信じ、主の愛の中に入り、主と共に生きるためです。

神は人を土のちり(親を用いた自然生命)で造り、命の息(神の命)を吹き入れて生きる者としました。土のちりは霊を受ける器で、霊に仕えるものです。

友よ。太陽の下(肉体を持ち食べて働く)の出来事とすべては、太陽の上(神の世界)へ行くためのものです。神はそこに来るあなたを待っておられます。

6章10節 ①

これまでに存在したものはすべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。

格言に「名は体を表す」とあり、名前はそのものの実体を表しています。神の名は、「主・ヤーヴェ(存在者・自存者・創造主)であり、「神・エロヒーム(父と御子と聖霊の三位一体の愛の神)」です。

名を御自分で表したお方は、天地万物の存在前におられた唯一の神だけで、その他の全ては主なる神によって名前を与えられました。

人間は、神によって土の塵で造られ、人(アダム)と命名されました。「アダム」の内容は、「我々に型どり(型=外形、愛の型・愛に生きる者・男と女に)、我々の形(形=内容、神の命を持ち神と交わる者)」でした。従って、人は神の御心によって創造され、人という名(存在意味)を与えられました(創1~2章)。

人は、神に命名されましたから、神を無視して生きると自分を見失います。しかし神に聞くならば、「秘められた所で私は造られ…胎児であった私をあなたの目は見ておられ、私の日々はあなたの書にすべて記されている。…あなたの御計らいは、私にとっていかに尊いことか…」(詩139篇15~17節)と分ります。

神から命名された友よ。神に向って、「神よ。私を究め、私の心を知って…私を試し、悩まを知って下さい(23~24節)」と父なる神に抱き着いてください。

6章10節 ②

これまでに存在したものはすべて、名前を与えられている。人間とは何ものなのかも知られている。自分より強いものを訴えることはできない。

聖書に登場する多くの者は、人生途上で名前を変えられました。アブラム(父)はアブラハム(多くの国民の父)に、ヤコブ(かかとを掴む者)はイスラエル(神の王子)に、シモン(葦)はペトロ(岩)に。名の変化は、存在と使命の変化で、肉の世界である太陽の下から、太陽の上なる神の霊の世界に移されたことでした。しかしそれは、新しい名が与えられたと言うよりも、むしろ古い名へ戻された、とも言えます。

神は一人ひとりに神の子として生きる人生を備えましたが、人類の罪がそれを挫き見失わせ、本来あるまじき生き方をさせていたのでした。

新しい名の者(クリスチャン)を迫害していたサウルは、天の光に倒され、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか。…起きて町に入れ、そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使9章)との主の声を聞き、迫害者から使徒へ名=存在を変えられました。

「主の口が定めた新しい名をもって(イザ62章2節)」呼ばれている友よ。「人間とは何者」、それは「神の子として生きる者」ですと答えてください。また、「自分より強いものを訴えることはできない」とは、「自分の存在を造った神に反抗してはならない」となります。神に与えられた名で生きてください。

6章12節

短く空しい人生の日々を、影のように過ごす人間にとって、幸福とは何かを誰が知ろう。人間、その一生の後はどうなるのかを教えてくれるものは、太陽の下にはいない。

太陽の下には、立派に生活していながら自分の名を知らず、「私は誰でしょう」と言って、さ迷いつつ生きる孤児のような人々が数多くいます。

名前を知らないとは、自分が「誰の子・なぜ生まれ・何を食べ・どこに住み・どう生き・どこへ行く…」をわからずに生きる人のことです。それは「人間、その一生の…どうなるかを教えてくれる者は,太陽の下にはいない」からだと言います。まさに事実です。

しかし人に名を与えたお方、神だけが正しく教えてくださいます。神より自分の名を知った人は、「神の子・神の言葉で生き・聖霊の水を飲み・神の国に住み・神の栄光のために生き・霊の体に変えられて天国へ行く…」ことを理解することができます。その人は、「私は、あなたがたをみなしごにはしておかない…」(ヨハ14章18節)という主と共に生きるので、「人生の日々は影」がなくなり、神の光に照らされ、実りある充実したものとなります。 

友よ。太陽の上から自分を見ると、人生の影は消されます。出生からのすべてが最善であったことを知ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを私たちは知っています」(ロマ8章28節)。

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