1章1節
士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。
荒れ野で40年過ごした民は、新しいリーダー・ヨシュアに率いられてヨルダン川を渡り、ヤコブの時代に後にしたカナンに入りました。その後、サウル王が出現するまでを士師の時代と呼びます。
そのある頃、カナンが飢饉に襲われ、エリメレクと妻ナオミと二人の息子はモアブへ移住します。しかし、そこで妻ナオミは夫を失い二人の息子たちが妻を得たものの死にます。残されたナオミは嫁の一人ルツと共にカナンに戻り落ち穂を拾う生活をします。間もなく嫁ルツがボアズと結ばれ、オベドが生まれ、エッサイ、ダビデが生まれ、さらにイエスの誕生に至ります。
しかしこの物語は、古い一家族の物語を超えた人類の物語であり、今の家族の物語であり、一個人の物語です。天国を離れた人類、神を知りながらも神から離れた家族、異邦人なのに神を求め、神の国(カナン)に入り、ボアズなるキリストの花嫁となるルツ。
ルツ記は、嫁と姑の物語ではなく、全ての人の霊的現実を短い物語の中に見事に凝縮させています。
愛する友よ。あなたは既に神の国の子ですが、しかし今、どこに居ますか。カナン(神の国)からモアブ(この世)に移っていませんか。あなたの本当の飢饉は、穀物の飢饉ではなく霊の飢饉ではないのですか。
1章2節
その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身の…。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。
エリメレ家は、飢饉に見舞われ一時的に避難するために故郷を離れたのではなく、「モアブに移り住んだ」ことが1節と2節で繰り返されます。それは、強い意志をもって移り住むことを決断したことになります。
飢饉には、「物資(食料飢饉)、心・霊的」の三種類あります。食料飢饉に見舞われるなら、自国を離れ外国へ行き生き延びねばなりません。心の飢饉は、家族の中から始まります。夫婦が愛し合えず離婚し、親子が争い、家族と断絶して自分を守らねばなりません。
しかし、人類にとって最も深刻な飢饉は「霊の飢饉」です。人間には、エデンの園の中央にある「命の木」からの食糧が必要です。その命の木こそ、「わたしは道・命・真理」と言い、さらに「わたしは命のパン」と言われる主イエス御自身です。それを食べるとは、主イエスに「継がり交わる」ことです。
霊の飢饉が最初に作り出すのが、心の飢饉です。愛し合うことができない自己中心病に侵され、互いを裁き憎みます。次に、心の飢饉が物質的飢饉を作り出します。世界を見れば、軍事費の10%を差し出せば、世界から食料は余るとも聞きます。
友よ。人はパンによって生きる者ではなく、神の口から出るパンによって生きることを忘れないで下さい。
1章3節
夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。
せっかく生き延びようとモアブに来たのに、そこで一家の柱である夫エリメレクが死んでしまいました。
聖書から受ける取るモアブ(死海の東側)の代名詞は「この世」と言えます。何よりも、「ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブと名付けた」(創19章36~37節)とあるように、近親相姦の子どもの子孫でした。
聖書は霊の書物です。彼らがモアブに移住した理由は飢饉でしたが、ルツ記を読み進むと彼らには「有力な親戚ボアズ」(2章1節)がいました。有力とは莫大な富を持つ親戚といえます。エリメレク家が飢饉に襲われても、この親戚に依り頼めばよかったのです。
聖書の「贖い」の言葉は、「親戚」からが発生したと言います。すると、ボアズは彼らの「贖い人」でした。しかし、彼らはボアズへ行かず、モアブに来ました。
全ての人には「親戚=贖い人」がいます。そのお方こそ「イエス・キリスト」御自身です。彼に飢饉はありません。全能者「ヤーヴェ・イルエ(主は備えてくださる)」お方です。
友よ。あなたにもボアズなる贖い人イエス・キリストがおられます。しかし、ベツレヘム(主が生れる所)からモアブ(この世)に来るならば、最初に失うのが主人(主なる神)です。あなたは裕福な親戚(贖い人・主イエス)にいつも助けを求めてください。
1章4~5節
息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。
この家族がモアブに住んだのは十年程でした。その間、主人を失いますが悲しみに打ちのめされず、二人の息子は青年期を迎え、兄マフロンはオルパを、弟キルヨンはルツを嫁にもらいました。
ベツレヘムからモアブに移ったことは、神の世界からこの世に移った信仰の経歴を表します。この世で最初に失うのは夫なる主イエスです。この世の主人は、イエスではなくこの世の君なるサタンだからです。
主人を失った二人の息子たちは、モアブの女を妻に迎えました。夫婦の関係こそ、人間としての一番深い関わりです。異国の偶像礼拝をする者を妻に迎えることは、深くこの世に入り一体となる姿を表します。
「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛(命)はその人の内にありません」(Ⅰヨハ2章15節)。神から離れ、世を愛する者は霊的死人になります。「マフロンとキルヨンの二人とも死に」とは霊的現実です。
友よ。神の国からモアブに行った人々を知りませんか。さらに進み、世の人を愛し信仰を失った人を知りませんか。実に多くの兄弟姉妹がその道を行きました。しかし、あなたは親戚から離れないでください。
1章6節
ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。
モアブに来たのに夫を失い、さらに最愛の二人の息子を失ったナオミは、自分の国に帰ることにしました。
人は、失望がなければ現実を変えられませんが、失望だけでは動けません。失望とともに、希望があると動き出すことができます。それは、罪を知る(失望)とともに、赦される希望を持てる時、悔い改める(方向転換)ことができるものです。
その希望は、「主が民を顧み、食べ物をお与えになった」という福音でした。すると、彼らが飢饉でモアブに移住したのは、彼らの属していた「教会が飢饉」になっていた、とも言えます。教会こそ、5つのパンを5,000人に分けるほど、主イエスから命のパンなるみことばを委ねられているところでなければなりません。
人が教会に集うのは霊の食事・みことばを求めるからです。しかしそれが与えられず、奉仕や献金や伝道することを求められるなら、飢饉(空腹)になります。さらに、皆が教会に来るのは、「神の愛」を求めるからです。そこが争いの場となり人の支配するところとなるならば、モアブなるこの世へ逃げ出します。
友よ。みことばと神の愛を豊かに与える教会とは、それは徹底的に、「主イエス」を与える教会です。みことばと聖霊は一体となり、主イエスを与えます。
1章7節
ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。
飢饉から生き延びるためモアブに移住した家族は、命を得るどころか三人の家族を失いました。実に多くの神の子たちも、信仰はあっても主との交わりを避けて世に入り、多くの霊の損失を受け取っています。
彼らが立ち帰るには、最初に自分の現実を認めることと、原因なる罪を正しく知ることです。それは、自分の努力や他者のことや社会的条件も超え、神よりも世を愛した罪に気づくことです。
ダビデは姦淫の罪と夫ウリヤ殺しの罪を預言者ナタンに指摘され、「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」(詩51篇6節)と言い、神を第一としないからバテセバとウリヤへの罪を犯したことを告白しました。
同じように、エリメレク家の不幸も、モアブの土地が合わなかったとか、悪い病に侵されたから、とかではあません。この家族の根本的な罪は、贖い人の親戚ボアズを信頼しなかったことでした。
友よ。罪に気づき悔い改めるために必要なもう一つは、主の恵みを見ることです。ナオミが帰る勇気を得たのは、イスラエルの回復の報告でした。このイスラエルこそ教会を指します。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェ1章23節)。主イエスの御臨在だけが、人の必要を全て満たすことができます。
1章8節
ナオミは二人の嫁に言った。「自分の里に帰りなさい。あなたたちは…よく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいます…。
ナオミが帰ろうとすると、二人の嫁たちも着いて来ます。ナオミは彼女らに故郷で嫁ぎ先を得て暮らすように諭します。さらに、今、自分が子を産んだとしても、あなたたちの夫となることもできないとまで説き伏せます。しかし、二人とも帰ろうとはしません。
ここから、ナオミ、オルパ、ルツが帰ろうとする三人の「三つの道(人生)」が描き出されています。
友よ。あなたはどの道を歩いていますか。
1章13節 ①
「…あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
ナオミの言葉は、神の子たちだれもが一度は口にするものです。神の恵みの中を歩むはずが、それから外れた現実に出会う時、「なぜ、神は」と考えます。
神の子だからこそ、「神」を抜きに物事を考えることはできません。そこで最初に出てくる思いは、「神は神だから自分勝手にすることができる」との考えです。
確かに神は、「ヤーヴェ(自存・創造者)」ですから、御自分で計画し、実行し、完成することができるお方です。しかし、全能者は「愛の神」です。愛は自分の望みではなく、相手のゆえに自分を犠牲にされます。
主は、「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た…」(マタ20章28節)と言われました。
人は、いつでも自分に起こっている出来事から判断しようとします。その基準は、「自分にとって良いか否か」で、悪いとするならば行き着く先は「主の御手がくだされた」となります。出来事と神との関係を考える時、二つの見方があります。
友よ。あなたがナオミならば、二つのどの見方を選びますか。出来事の中に神を探してください。神はその者に御自分から必ず応えてくださいます。
1章13節 ②
「…あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
ナオミのような状況に追い詰められるとき、人がさらに考える神との関係は、「神は人を教育するために人を苦しめる」というものです。
これを裏付ける代表的なみことばは、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。」(ヘブ12章5~7節)です。
ある時主は、「パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイ福音書7章9節)と言われました。
ここで「パンと魚」を「主イエス」と置き換えて読めます。すると、「石(命の無いもの)や蛇(サタンの働き)を与えることでパンと魚(神)を求める者にすることなどはしない」となります。ナオミたちを襲った出来事は、彼らの罪(贖い主を信頼しない)のために、神が助けの手を出せなかったからでした。
友よ。神は信愛なる父です。愛の父は、スパンクしてから教えることはせず、教えても従わないとき、正しい道に戻すためにスパンクを用います。人はパンと魚ではなく、石と蛇を求めたがります。神の試練は、石と蛇から解放しパンと魚を食べさせるためです。
1章13節 ③
「…あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
ナオミのように追い詰められた神の子は、そのことを①「神は神だから…」②「私を教育するために…」とも考えます。さらには、③「神は御自分の目的を達成するために、自由に人を用いる」とも考えます。
その良い例がイスカリオテのユダです。「イエスは十字架に行かねばならなかった。そのために裏切る者としてユダを十二使徒の中の人に加えたのだ」と。
ユダは主イエスの権威と力による王国を望みますが、神の計画は、一人の罪を贖う十字架と復活から造られる愛の王国でした。それを知る主は、ユダに気づかせようと、「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」(マコ14章20節」と言ってユダに愛の忠告をしました。
ボアズにルツが必要で、そのために飢饉を起こしてエリメレク家をモアブへ。息子の一人にルツを嫁に迎え、主人と息子たちが居ては帰れない。そこで彼らを殺しナオミとルツだけを帰しボアズの嫁とし、後にダビデ…イエスと誕生させるために…、は間違いです。
友よ。「私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」(ロマ8章32節)こそ神の御心です。神は人を犠牲にして目的を達成する方ではなく、御自分が人のため犠牲となるお方です。
1章13節 ④
「…あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」
不幸な出来事に対し、①「神だから…」②「人を教育するために…」、③「自分の目的を遂げるため…」と考えますが、一体それらはなぜ起こるのでしょうか。
神は十戒を与えました。戒めは、神と人の契約書です。契約が必要なのは各々が独立した存在だからです。無人格の動物との間に契約は不必要です。神は人と継がり交わる「愛と命」を望んで人を創造しました。
愛する者同士に一番大切なことは、互いが「あなただけ」となることです。夫婦の最大の罪が愛人を持つことと同じに、神と人の最大の罪は偶像を持つことです。命の無い偶像と交わるところに命はありません。
それを知っても人は罪を犯すことができ、それを神は力で阻止することもできません。その時に神ができることは、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出20章5節)ことです。
相手が別の相手を選ぶとき、もう一方は手出しができなくなります。三代、四代に及ぶ罪を、「神の罰」と考えてはなりません。それは、神から離れて偶像に繋がる者が、自分の罪の結果を自分で負う姿を教えます。
愛する友よ。罪とは神に手出しさせないことです。パウロはそのことを、「するにまかせられた・渡され」(ロマ1章24・26・28節)と言いました。あなたの主ボアズが待っています。さあ、主に帰ってください。
1章14節
二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。
ナオミの説得に嫁たちは泣きだしましたが、兄嫁だったオルパはナオミに口づけして故郷に戻って行きました。先に、オルパの道を「常識の道」と記しましたが、それは具体的にどのような道でしょうか。
マフロンとオルパの短い結婚生活は幸せだったと思えます。この家族は真の愛の神を知っていたので、偶像に仕えるモアブの男性のようではなく、神の愛で夫も家族もオルパを包んでくれたと思えます。
オルパが途中までナオミに着いて来たのは、家族としての愛の絆の強さと共に、ナオミも相嫁のルツも自分も、共に夫を失ったという悲しみの共有でした。
しかし、モアブ(異邦人)からカナン(神の国)に入ることは、家族の血も強い共有意識でも入れません。「兄弟たち…肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリ15章50節)。人が人を神の国の戸口までに導いても、神の国に入れることはできません。
友よ。ナオミがオルパを救うことはできませんが、途中まで連れて来ることはできます。それは、「救いの道を辿る者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」(Ⅱコリ2章14節)。あなたこそ良き香りとなってください。
1章16節
ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。…あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」。
ナオミは追い詰められてモアブから帰ろうとしています。オルパは常識の道を選び帰りました。しかし、ルツは帰ろうとせずどこまでもナオミに着いて来ます。
ルツは「信仰の道」を歩もうとしています。エリメレク家の息子と結婚し、短い結婚生活の中で彼女はあるものを掴んでいました。それは、彼女にエリメレク家の信仰の弱さはまだわかりませんが、今まで自分が生きて来たモアブの神々との違いを感じ取りました。
日常会話の端々に出てくる「神(ヤーヴェ・エロヒーム)の名。そして一家の生活様式、それらがルツには新鮮さを超えて、魂に分け入る不思議なものでした。
伝道者(コヘレト)は、「神は時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を与えられる」(3章11節)と記しました。ルツがこの家族の者と結婚したこと、夫を失ったこと、姑と共にベツレヘムに行こうとしていること、これら全てが「神の時宜」でした。ルツの「あなたの神は私の神」の言葉は、「あなたの神を私も神としたい」だったのではないでしょうか。
友よ。あなたも、「主なる神を信じます」ではなく「神を信じたい」から始まりました。信仰の始まりは、自己中心な「私と神」の信仰から始まりますが、「神も私も」を通り、「神と私」へ成長していくものです。
1章17節
「…死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」
ルツ記から「神」を取り除いても後世まで残る嫁姑物語になりそうですが、聖書の物語は「神あっての人の歩み」なので真理となります。神が中心とならない人生物語は、何時しか消えてしまいます。ある人が、「何人(なんびと)の自伝にも、神登場の一字が入らねばその者の人生は空しい」と言いました。
しかし別の人々は、「人が一生懸命生きたのだから、全ての人の人生は尊い」と。確かに、地上においては神を信じても信じなくてもほとんど変わりないと言えます。しかし、永遠の観点から見ると違います。
その尊さは、人生が「完成したか否か」です。神なき人生に完成はなく、神を信じる者の人生は、皆のレベルに届かない貧しいものだったとしても、完成させてくださる神がいて、その方によって尊くされます。本当に自分の人生を理解できるのは召天後です。
このルツの人生も、「姑に尽したので富める人と結婚し幸せになった」で終わりですが、神が入ると「神から離れていた人が、神の家族と出会い神を信じ、神と共に生き、多くの神の子孫を残した」となります。
友よ。「…神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブ13章7節)。
1章18~19節
同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。 二人は…ついにベツレヘムに着いた。
ナオミと共にイスラエルに行こうとするルツの固い決意は、どこから出たのでしょうか。
聖書は人間の構造を、「あなたは『心』を尽し、『精神・魂)』を尽し、『力』を尽して、あなたの神、主を愛しなさい」(申6章5節)と三つの言葉で示しました。
ここで、「力(ソーマ)」は肉体を指します。「心(プシュケー)」はそのまま心(知性・感情・意志)と理解できます。しかし、「精神・魂(プニューマ)」は、日本人が「大和魂」などと表現する精神性とは違います。
この「精神・魂」は、この世界にはありません。それは、「主なる神は、土(自然生命)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2章7節)のみことばで理解できます。「精神・魂」とは、神からだけ与えられる「命の息」、神の「息・命・霊」のことです。
神は、「また、永遠を思う心を人に与え」(コヘ3章11節)られました。ルツの強い欲求は、「永遠・神」を求める「霊」から出てくるものでした。
友よ。あなたの様々の欲求が霊の領域から出ていると知っていますか。霊が満たされないので心に求め、心は肉体に求め、肉体は親や社会や物質に求めます。しかし、外側のものは霊を満たせません、しかし、霊が満たされると、心と体と外部の世界を正しくコントロールできるようになります。
1章19~20節
ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、
新共同訳聖書は、前記のみことばの前に、「うつろな帰国」の見出しを付けています。
ナオミは喜んで故郷に帰って来たのではありません。錦ではなくボロ布をまとった帰還でした。ナオミの姿は、一度教会を離れた兄弟姉妹に対する、教会にとどまった人々の姿を表しているともいえます。
二人を見て、「町中が…どよめき…声をかけた」とある声掛けには、「私たちを棄てたのに今更帰って来た。やはり…」と言う声。あるいは、「帰れてよかった」と心から喜んでナオミを受け取ろうとする声。後者は、彼女たちのことを心配し祈っていた人々からです。
ナオミこそ放蕩息子その者でした。父(ボアズ・贖い主)を信頼できず、財産(生存)を自分で握り、遠い国(モアブ)へ行き、全てを失い(夫、息子たち)帰って来た弟息子でした。それに対して、兄は「自分勝手に出て行き今更帰ったのか。やはり…」。しかし父は、「走り寄って首を抱き、接吻し、良い服を着せ、手に指輪を、足に履物、肥えた子牛を屠り…」ました。
友よ。ナオミになったこと、ナオミを受け入れたこと、はありますか。大事なことは、「教会に行けば大丈夫・私たちの教会に連れてくれば大丈夫」と言える教会、主イエスが頭である教会であることです。
1章20節 ①
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。」
故郷に着いたナオミの心は、自分自身を否定したいほど深く沈み、「ナオミ(快い)」ではなく「マラ(苦い)」と呼んでくださいと言いました。彼女は自分の目でしか自分を見ることができません。神の目で今の自分を見るならば、全く正反対の見方ができるはずです。
主は、「今飢えている人々…今泣いている人々は幸いである」と言い、しかし「富んでいるあなた…満腹している人々…今笑っている人々は不幸だ」(ルカ6章21~25節)と言いました。ナオミはかつての自分が「ナオミ」で今の自分を「ラマ」と見ています。
イスラエルから出て行った時のエリメレク夫婦は、放蕩息子のように自分という財産に富み満腹する不幸者「マラ(苦い)」でした。そして、すべてを失った今の彼女は、飢えて泣いて神にしがみつくしかない富める者「ナオミ(快い)」になっていました。
友よ。あなたは自分をどちらの目で見ますか。自分の目だと、過去を引きずる現実の「マラ」になります。神の目からだと、過去と現実を超えた神の希望に生きる「ナオミ」が登場してきます。 「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレ29章11節)。
1章20節 ②
ナオミは言った。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」
ナオミは、快く生きてきた自分(ナオミ)を、悲しみ嘆く者(マラ)にしたのは神であると言います。
「有力な親戚・ボアズ」に依存しないからでした。また、依存しなかったのは、ボアズのことを良く知らない知識不足からとも言えます。
主と人の関係も同じです。主イエスに頼まない最初は知識不足からです。次は、すでに与えられた恵みや賜物を用いないでいる不信仰です。
神の子とは、
以上、Ⅰヨハ1章12~17節参照信仰とは、徹底的に自分の弱さと限界を知って神に依存することです。
聖書は続けて「世(モアブ)も世にあるものも愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません(神はその人を助けることができません)」(15節)
カッコ内は筆者友よ。自分の信仰を棚に上げて神を責めていませんか。それでも神は、あなたを愛して御自分を与えます。
1章21節
「…出て行くときは、満たされていたわたしを主はうつろにして帰らせたのです。…主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」
ナオミが主に不平を言うのはこれが三度目です(18・20・21節)。
パウロは不平を言うコリント教会に、「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。…主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるため」(Ⅱコリ8章9節)と。
彼は、「主は御自身が貧しくなったほど、あなた方に十分に与え尽した」と言います。十字架上のイエスこそ、私たちのために貧しくなられた姿でした。
貧しいのは「受け取らない」からですが、もう一つは「与えないから」です。愛の豊かさは、「互いに与え合う」が原則です。「受け取らないから与えられない」も、「与えないから受け取れない」も共に事実です。
イザヤは、「彼は自らを償いの供え物(十字架で人々に献げ尽した)」…。それゆえ、私(神)は多くの人を彼(イエス)の取り分とし…戦利品としておびただしい人を受ける」(イザ53章10~12節)と預言しました。
友よ。父の神はイエスを、イエスは御自分を私たちに与えました。それでは私たちが主に与えるものは!それは「あなた」です。あなた自身を与えないから、主と主の恵みを受け取れないのではないですか。
1章22節
ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れてモアブの野を去り、帰って来た。二人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころであった。
ナオミが十年ぶりに嫁のルツを連れて帰って来た時、ベツレヘムは大麦の刈り入れ時期でした。
夜通しの漁で何も捕れないペトロは、主の「舟の右側に網を降ろせ」との声に従い多くの魚を捕りました。魚が捕れなかったのは、左側に網を降ろしていたからです。同じ教会で、同じに信じ、同じ舟の上にいるはずなのに、豊かな霊の人と貧しい霊の人がいます。
ある人曰く、「ケジメのある人と、無い人の人生には大差が着く」と。ケジメある人は、「目的に自分を合わせ」、無い人は「自分に目的を合わせる」と。
「神の子たちのケジメ」とは、「神に自分を合わせるか、自分に神を合わせるか」です。主も生涯の中で、弟子たちを選ぶ時、十字架目指して歩み出す変貌の山で、ゲッセマネの園で、と三回大事な祈りを捧げました。それは、父に従うケジメの祈りでした。ナオミの人生は神を自分に従わせてケジメがなく、ルツは神に従おうとするケジメある歩みを始めました。
友よ。あなたは舟のどちらで漁(信仰)をしていますか。舟の左側とは「自分の中に主を入れ(自分が主)」、右側は「主の中に自分が入る(イエスが主)」ことを教えます。ルツがベツレヘムに着いた時が大麦の刈り入れ時期だったのは、霊の法則によって当然でした。