キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ルツ記 第3章

3章1節

しゅうとめのナオミが言った。「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。

ルツ記の一章はモアブから戻り(悔い改め)、二章は神の恵みの落ち穂を拾い(福音を信じ)、三章はイエスを主と告白する(花嫁となる)章となります。聖書の神を信じることは神の恵みを知ることではなく、神の一人子キリストを知ることです。

「知る」とは、知識によるものではなく、「アダムはエバを知った」(創2章 節)とあるように、結婚による一体と同じ意味を示します。ナオミがここで突拍子もなく、「あなたが幸せになる落ち着き先を」といった結婚の勧めは、聖書信仰の大事な真理です。

神を知識において知る信仰は、自分自身で作る救いで、思い込みの域をでません。結婚による救いは、相手との関係によって作られます。聖書の救いの神髄は、「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」(黙21章9節)と言われる主イエス・キリストの花嫁となり、主イエスと一つになることです。

神と人の関係には、①部外者(未信者)、②賛同者(興味と知識のある人)、③恵みだけ必要とする人(自分が主で神を利用する者)、④イエス御自身を必要とする者(キリストの伴侶となっている人)に分かれます。

友よ。あなたは①から④へと進み、キリストの花嫁になっていますか。人の幸せはまさに「落ち着き場所」なるキリストの下にいることです。

3章2節

あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。

ナオミはルツの結婚のことを考えていますが、結婚相手は誰でもよいという訳にはいきません。同じく、人にとって一番大切な信仰もどの神でも信じればよいという訳にはいきません。信仰が回復したナオミは、「ボアズ(親戚・贖い人)」を紹介しました。

自分の内に持つ確信の信仰であるならば、それはただの「悟り」です。しかし人の救いは、罪人の中に命はないので誰かに救っていただかねばなりません。すると、自分よりも相手がどんな方であるかがより重要になります。それは、自分の決意以上に、相手の存在と能力で救いが与えられるからです。

落ち穂を拾う恵みは、麦の収穫時期に限られる不安定な恵みです。しかし、落ち穂ではなく、落ち穂を落とす畑の所有者の妻になるならば状況は一変します。落ち穂拾いの生活は恋人同士のように不安定ですが、伴侶になれば何時も一緒にいて全てを共有できます。

友よ。主が、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハ17章21節)と祈りました。「互いの内に・一つ」こそ、救いであり命です。「わたしは、平和を与える」(ヨハ14章27節)と言われた平和は、真の親戚・贖い主・主イエスの内にあります。

3章3節

体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。

ナオミがルツに授けた知恵は、一見ふしだらにさえ聞こえますがそうではありません。ナオミはイスラエルの律法、「その人はわたしたちと縁続きの人です。私たちの家を絶やさないようにする責任のある人」(2章20節)のみことばを握り締めたのです。

ナオミはボアズを信じ、そのために自分たちがせねばならないことを行うことを考えています。それは、「体を洗い香油を塗り、肩掛けを羽織って」出て行くこと、まさに「私を受け入れてください=あなたを信じ、身を委ねます」の表明でした。

神は、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザ46章4節)と約束し、「主の名を呼ぶ者は皆、救われる」(ヨエ3章5節・口語と新改訳2章32節)とも宣言されました。そして、天の父なる神は、「移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もない」(ヤコ1章17節)真実なお方です。

イエスの花嫁を望む友よ。みことばを掴む者は、みことばを語った方を掴むことです。なぜなら、「言は肉体となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハ1章14節)からです。ボアズなるイエスこそ、罪人を十字架で贖い、天国への復活の命を与えて家を絶やさないお方です。あなたもナオミの勧めに従ってください。

3章4節 ①

あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれる…」

夜、男性一人いる所へ女性が近づいて行くことでも危ういのに、「あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい」は常軌を逸しているようにさえ見えます。

しかし、キリスト教信仰の神髄はここにあります。信仰することは、神の恵みをいただくためではなく、神御自身を受け取ること、それ以上に、神と一つとなって生きることだからです。

「信じるなら誰でも救われる」はキリスト教のキャッチフレーズになっていますが、それは「否」であり「然り」です。否とは、知性でイエスは主であると理解するだけでは救われません。然りとは、結婚が相手に自分の体も財産も全てを委ね合うように、主イエスを信じ、彼に自分自身の全てを委ねることです。

委ねるとは、相手が自分に何をしても良いという同意書を渡すことです。それを受け取った神は、御自分の思いをその人に行い始めます。神が人に行う最初は、十字架による罪の赦しです。次に、復活の永遠の命を与えることです。さらに、御霊の内住によってその人と愛によって共に生きることです。

友よ。あなたとボアズの間は、落ち穂拾いですか。それとも、彼の衣の裾に身を投げ出す関係ですか。彼の「救いの衣」(イザ61章10節)に覆われてください。

3章4節 ②

あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれる…」

ナオミはルツに、「ボアズのそばに行き、あの人の衣の裾で身を覆って…」と勧めます。その先の結論は言わず、「その後すべきことは、あの人が教えてくれる」とだけ言って送り出しました。

復活の主はトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハ20章29節)と言われました。科学の世界は「見たら信じる」ですが、信仰の世界は「信じたら見る」世界です。なぜなら、「神は霊」(ヨハ4章24節)だからです。

さらに、「信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って、見えるものは見えているものからできたのではない」(ヘブ11章3節)とあります。それは、見えないもの(霊・神の言葉)から見えるもの(現実・出来事)が出たと言います。

この時のルツには、その後自分に起こる現実は見えていませんが、彼女は信仰で出かけました。その信仰とは、ナオミとボアズに対する信頼という信仰でした。

友よ。現実が大きくなると自分の力に、神の言葉が大きくなると神の力に頼ります。自分の力に頼る者は空しくされ、神の言葉に頼る者はさらに信仰へと進ませられます。なぜなら、「あの人(ボアズ・主イエス)が、次のことを教えてくれる」からです。

3章5~6節

ルツは、「言われるとおりにいたします」と言い、 麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられたとおりにした。

ルツは、「言われるとおりにいたします」と言い、「…命じられたとおりに」実行しました。口で従うと言えても、実際に行動することは難しいものです。

ヤコブが、「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わないならば、何の役に立つでしょうか」(ヤコ2章14~21節)と言いました。

ここで彼が言った「行い」が、自分の力によって相手の言うことを確実に実行することであるならば、律法主義になります。彼が言う「行い」の言葉の本意は、「委ねる」ことに関わります。

ナオミがルツに命じたのは、自分の言葉に従うか否かを超え、「ルツよ、ボアズに自分を委ねなさい」でした。神が人に望む「行い」とは、自分の能力を磨き努力することを超え、「神に自分を委ねる」という行いのことです。「行いが伴わないなら(委ねないなら)、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)。

友よ。神に自分を委ねるとき、神があなたに自由に働くことができます。それは、「信仰が行い(委ねること)によって完成された(神の御心・良き行い・愛の業を神がその人に実現させる)」(22節)となります。それこそ、本物の信仰となります。

3章7節 ①

ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった。

ルツは少し離れたところで、ボアズの夕食が終わるのを待ち、夕闇が包んだ頃を見計らい、ナオミに言われたようにボアズの衣の裾に身を潜ませました。

裕福な地主は、刈り取って山と積まれた麦束を守る夜の見張りは僕たちにさせるものです。しかし彼は、その一番辛い仕事を自ら引き受けていました。

ボアズが僕たちに辛い仕事をさせず、自分が引き受けている姿は、主イエスの姿です。人にとって一番厳しいことは、自分の罪の代価を払うことです。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタ16章26節)。

主は、「罪の価は死」から解放するために、罪人の代価を十字架で代わって支払ってくださいました。それが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マコ15章34節)であり、「私は渇く」(ヨハ19章28節)の叫びでした。

友よ。ルツが夜ボアズに近づき、その姿を見てより信頼したように、あなたも十字架の下に身を投げ出してください。「十字架のもとぞ、いとやすけし、神の義と愛のあえるところ、嵐吹くときの巌(いわお)の陰、荒れ野の中なる、わが隠れ家」(讃美歌262番)。

3章7節 ②

ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった。

ヤコブは、行いの伴わない信仰の空しさを言いました。彼は、律法主義も大切だと言ったのではなく、本物の信仰があれば、行いがついてくると言ったのです。

ルツがボアズの所へ行って身を横たえたことは、聖書の他のところに数多く出てきます。

罪の女
「涙でぬらし…髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7章38節)
悪霊に取りつかれた男
「イエスを見ると、わめきながらひれ伏し」(8章28節)
ヤイロ
「イエスの足元にひれ伏し」(8章41節)
マリア
「主の足元に座って…聞き」(10章39節)

彼らが主の前にひれ伏した時から、今まで決して動かなかったものが動き始めました。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザ43章19節)。

友よ。「あなた方が私を選んだのではなく、私があなたを選んだ」は、すべての主権と始まりは神であることを教えます。しかし、その神の御心は「求めよ、さらば与えられん」に繋がります。神の前における私たちの正しい行いは、求めること、ひれ伏すこと、ボアズ(主イエス)の衣の裾に入って行くことです。

3章8節

夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた。

もし、この物語がラブストーリーであるならば、ここが物語の山場です。しかし聖書は、「エロースの愛(男女間の愛・価値追及愛)」ではなく、「アガペーの愛(完全愛・神の愛・自己犠牲愛)」です。

するとここは、男女間の愛欲で代表される「エロース」と全く反対の、「自己否定・悔い改め・救いを求め・神に委ねる」など、自己放棄して相手に自分を委ねる聖なる信仰の行為となります。

ルツは、ナオミからボアズのことを、「家を絶やさないようにする責任のある人(2章20節)」と聞き信じました。そして、家を絶やさないためには、相手の行動をただ待つだけでは実現しません。自分が相手に対してなすべき行為が求められます。ルツの行為こそ、自分の命を賭けた必死の行動でした。

「恵み」は、一方的でも成り立ちます。それは、誰かが一方的に犠牲になって備え、一方は受け取るだけで良いからです。しかし「愛」は、一方通行では成り立たちません。愛は、二人がそれぞれ相手に自分を犠牲にして捧げ合う時に成立するからです。

友よ。主イエスはゴルゴタの丘で十字架を背負われ、私たちに御自分を与えてくださいました。それに対し私たちも、「自分の十字架」という犠牲を主に捧げるべきです。その時に神と人の愛(命)が成立します。

3章9節 ①

「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」

ボアズは、夜半に衣の裾に横たわる女に気づきました。その時、ルツはためらわず、「私はあなたのはしためルツです…私を覆って(救って)ください。あなたは家を絶やさない責任のある人です(贖いの責任を果たしてください)」と大胆に願い出ました。

聖書は神と人の契約の書です(旧・新約聖書の「約」は契約の「約」です)。契約の成立には、

知る・聞くこと
「信仰は『聞く』こと…キリストの言葉を聞くことに始まる」(ロマ10章17節)
契約者の所へ行くこと
一人の百人隊長が(主イエスに)近づいて『来て』」(マタ8章5節)
願うこと
「百人隊長が…来て『懇願』し」(同上)

ルツこそ、ナオミを通して救い主ボアズを「知り」、恐れずに彼の所へ「行き」、衣の裾に身を投げ出し、あなたは私たちを救う責任のあるお方ですから救ってくださいと「願い」ました。

ルツなる友よ。あなたは、①みことばを本当に聞いていますか。②自分を主に委ねていますか。③切に祈り(願い)続けていますか。「聞き(知り)・行き・願う」は、初めて神を信じた時の行動だけでなく、神と自分の関係に、今もこれからも常に必要です。

3章9節 ②

「「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」

聖書は、神と人との契約です。しかも、特定の国や人種も超えたすべての人との契約です。

一般に契約は、両者が集い互いの責務の条件を話し合い合意できた時に、契約書にサインして成立します。しかし、神と人との契約は、契約の場に人は加わらず、神の一方的な意志に基づいて成立しました。

しかも、この契約書に書かれたこと…神は御自分の独り子を罪人の罪を贖うために人類に送ること。彼を信じる者は罪を赦され永遠の命を受け取ること。人が神の道を歩むために助け主の聖霊を遣わすこと…など、ほとんどはすでに成就しています。

契約には、「主従の契約(主人と奴隷)」・「ギブ・アンド・テイク(商取引など)」・「双方の信頼(結婚)」などの他に、「愛の契約」があります。親と幼子のように、親が一方的に子供に必要なことを決めて備え、子どもが従順によって受け取る関係です。

神は人の必要を全て御自分が用意した「愛の契約」を備えました。しかし、人の同意なくては実行できません。そのサインは、「信仰による告白」だけです。

友よ。子どもの無いアブラハムは百歳で子を得ました。この百歳は、「百%人の可能性ゼロ。百%神の御業」を表しました。信仰により義人とされるのです。

3章10節

ボアズは言った。「私の娘よ。…あなたは、若者…富…追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。」

ボアズの言葉を表面的に読むと、「あの娘が若い男性やお金持ちを選ぶでもなく、自分のところに身を寄せて来た」という自己満足の高ぶりの言葉に聞こえますが、ボアズの真意はそれと反対です。  神の愛(アガペー)は自己犠牲愛で、自分のことより相手の幸いを優先します。ボアズの「若者や富を…追いかけず、私の所へ…」の言葉は、彼の自己満足ではなくルツが選んだことへの賞賛の表現です。

ボアズ(イエス)は、「ルツよ。若者(魅力的な伴侶)やこの世の富(繁栄や健康や能力…)は、あなたを救うことはできない。でも今、あなたは最も大切な人間として歩む「道」、基準としての「真理」、永遠に継がる「命」を与えることのできる私(イエス)に来たのだよ」(ヨハ14章6節参照)という愛の言葉です。

実に皆が求めるのは、「若者、富」で代表される世の幸福です。「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(Ⅰコリ7章31節)。 

友よ。あなたはルツのように、「若者…富…」以上にボアズなるイエスを求めていますか。神によって世のもの(恵み)を求めるのでなく、世のもの(恵み)を用いてさらに神(命)を求める者になってください。

3章11節

わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。

「初めに言あった」から聖書は始まります(ヨハネ1章1節)。すべては神から始まりますが、その神に人は応えねばなりません。神の言葉に人が応えると、次は神が御自分の約束をその人に成就せねばなりません。

宣教師で探検家でもあったリビングストンが召天し、1974年ウエストミュンスター教会に葬られた。それを見守るアルコール中毒の老人がいた。彼は、「私は彼と同じ村に生まれ、同じ学校、同じ教会に通い、同じ機械で働いた。彼は国民的栄誉と神からの報酬、私は大酒のみの落伍者…」とつぶやいた。

二人の違いは、一方は神の前にひれ伏し、一方は神の前で胸を張り、頭を高く上げた。ひれ伏した者には神は約束したことを実現し、もう一方は罪人の自分の能力で生きねばなりませんでした。

ルツは神の約束を信じ、来て、ひれ伏し、嘆願しました。それに対して神は、「心配しなくていい。きっと、あなたが言う通り(私が約束した通り)にします」と応えました。そして、ここからは人の業ではなく、神が御業を行う番です。人は信じて待つだけです。

友よ。主は、「私が来たのは、(律法…神の約束)を完成するためです」(マタ5章17節)と言われました。ですから、「聞き・来て・願い・待って」ください。

3章12節

「確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。」

ルツがボアズのことを「聞き、来て、願い」ボアズの憐れみを受けるはずでしたが、「待て」と言われます。その理由は、「あなたにはもう一人の、しかも私以上に責任のある人(親戚)がいるからだと言います。

神は、御自分の約束したものを成就するために最善の準備をします。その準備こそ、「自分よりももっと近い親戚」との関係を清算することです。

神よりも近い「親戚、贖い人」とは、アダムとエバまで遡ります。彼らは、エデンの園の命の木(イエス)との関係(継がりと交わり)で生きる者でした。しかし、善悪の木(真理)を取って食べ(自分を神とし)園の木の間(自然界)に隠れ(守ってもらう)ました。

イエスこそ一番近い親戚でしたが、そこから離れ、自分を神(自分の肉によって生きる)としました。その時から、神より近い親戚(贖い人)を、「肉(自分)」と「この世」に移しました。

「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となる…。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」(ヤコ4章4節)。

 友よ。この世を友(親戚・頼る人)にしたいのは、肉が望む「富・名誉・快楽…」が世にあるからです。しかしそれらは、あなたを利用しても贖ってはくれません。肉と世を親戚にしてはなりません。

3章13節

今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」

ルツはこの時、ボアズからの確証はいただけず、翌日まで待つように言われます。

アブラムがカルデアで、「父の家を離れ、私が示す地に行きなさい…あなたを大いなる国民とする」の約束を聞いて出たのは六十歳頃でした。そして、ハランを経てカナンに入ったのは七十五歳でした。

そこでも約束の子は与えられず、彼の信仰は恐れに代わり始めました。その時、神が再び現れ、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められ」(創15章)ました。しかし、子が与えられるまでには、さらに多くの年月を待たねばなりませんでした。

そして、妻サラがイサクを産んだのは彼の百歳でした。六十歳から「四十年」後の「百歳」にはメッセージがあります。聖書で四十はいつでも試みられる数字で、その試みは、「肉」が「霊」に代わるためです。そして、百歳は「百%人の業(肉)がゼロ」で、「百%神の業(霊)」であることを教えます。

神の約束の言葉がなかなか実現しない、と嘆く友よ。神にムダはなく、待っているその時間にも意味があることを考えてください。あなたの肉の親戚が、まだ居座っているからではありませんか。

3章14節

ルツはまだ人の見分けのつかない暗いうちに起きた。麦打ち場に彼女の来たことが人に知られてはならない、とボアズが考えたからである。

ボアズが、「彼女のことが人に知られてはならない」と言ったのは、この世の男女間の噂が立てられることを恐れたのではなく、ルツが持ち始めた信仰が挫折することなく正しく導かれるための配慮でした。

信仰を持つことは、今までこの世と肉で生きてきたことを、神との関係で生きることに変えることです。その時、ボアズがルツに正しい道を示したように、同時にサタンとこの世と肉も介入してきます。

主が、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタ6章3節)と言いました。ここでの「右」とは神の側、霊の世界のことです。「左」とは人(世と肉)の側を指します。神を愛して捧げたはずのものが、いつの間にか他者の評価による自分の誇りへ変わってしまう危険を諭しました。

パウロはその理由を、「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」(ロマ8章7節)と。

ルツがボアズの所で一夜を過ごした「右の手」の信仰の行為を、世間が知って動き出すと、「左の手」というこの世の愛欲物語に変えられます。

友よ。あなたに与えられた神のもの(礼拝・聖書を開く・祈るなど)を、この世に奪われてはなりません。

3章18節

ナオミは言った。「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」

ルツはまだ暗いうちに、ボアズの畑を離れてナオミの元に戻りました。その手には多くの大麦を抱えていました。それを見たナオミはさらに確信し、ボアズが行動を起こすまで待つようにルツに言いました。

神と人の関係は、

①まずは、神御自身と約束を知る。②契約は人格と人格の約束ですから、相手の所へ行き自分を委ねる。③ルツのように、「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」と願う。そして、④「待つ」ことです。

神と人の契約は、双方が対等の務めを果たすことではありません。神と人の契約を最もよく表しているのは、「主の十字架」と「自分の十字架」という言葉です。

「主の十字架」は、罪のない神が人の罪の代価を払い復活の命を与える百%神の業です。

「自分の十字架」(マタ10章38節・他6箇所)は、神に対し果たす人の業です。それを「信仰」と言います。信仰は①~④すべてを含みます。そしてそれは、一回性のものではなく。連続した人の神への業です。

友よ。「待つ」は「待ち続ける」です。人が自分の十字架を負う時、神は約束を果たさねばなりません。①~④の項目をいつも思い浮かべ、時には①に戻り②に進み…と、確認しつつ待ち望んでください。

ページトップへ