キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第13章

13章1節

エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので、彼は死ぬ。

新共同訳ではこの章に、「エフライムの終わり」と見出しがついています。しかし以前のエフライムは、語れば恐れられ、人々に重んじられていました。

国家が南と北に分裂したのは、ダビデが計画し、ソロモンの時代に建築された神殿と宮殿に端を発していました。この建築は20年の年月と莫大な費用と多大な人足を使いました。いつしかユダ族が管理者、他の10部族が労働者にされる差別が始まりました。

ソロモン王死後、10部族は3代目レハブアム王と交渉するも破局します。そこで彼らは、断交し神殿をエフライム領地に造り決定的分裂に至りました。

分裂の主因は、レハブアム王にありました。しかし、レハブアム王を罪人にして彼に向って行くと、罪を犯すのは北イスラエルになります。不条理に立ち向かうと、罪を犯すのは正そうとした者です。不条理にではなく、不条理を生む罪に向かわねばなりません。罪を相手にすると、神に向かうことになり、その結果不条理を超える恵みを受け取る者となります。

友よ。迫害を受けたステパノは、自分を迫害する者の罪が赦されるように祈りました。彼は、罪人を取り除こうとせず罪を取り除こうとしました。そして多くの魂を主の元に獲得しました。彼は、罪人に対して罪を犯さず、神によって罪を打ち破りました。

13章2節

彼らは…偶像を鋳て造る。銀を注ぎこみ、技巧を尽くした像を。それらはみな、職人たちの細工だ。彼らは…「犠牲をささげる者たちよ、子牛に口づけせよ」と。

ここにでも偶像礼拝の罪を断罪します。偶像自体が自分を神だとは言えません。それを言わせているのが人であり、助長しているのがサタンです。

神が創造した中で、唯一主体性を持たされた被造物は人間と天使です。ただし、堕落天使でも制限が加えられ人の意思・信仰は超えられません(ヨブ2章6節)。

偶像の出所は、人が「エデンの園の中央(霊の世界)」から離れ、「園の木の間(自然界)」に身を隠したからでした。神は、「産めよ、増えよ…地を従わせよ」と命じ、人を自然界の主人に定めました。それを逆転させるのは、人が自分を神とするに都合がよいからです。

しかし、人には神から受けた「永遠の思い」があるので、直接自分を神とはできません。そこで、自分の身代わりの神を出現させます。それこそ偶像の本質で、まさに冒頭のみことば、「職人たちの細工」です。

そこから、「「犠牲をささげる者たちよ、子牛に口づけせよ」とは、自分が造った子牛こそ自分ですから、偶像礼拝は「自分自身を礼拝」することになります。

友よ。神の子たちは仏像や神棚を拝みませんが、教団や教会、牧師や兄弟姉妹、教理や信条などを偶像にすることが度々あります。しかし、本当の偶像は自分の中にある、「私が主」という自己中心ではないでしょうか。「主」は、私ではなくイエスです。 

13章3節

彼らは朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のように、煙出しから消えて行く煙のようになる。

朝霧がかかると、同じ場所なのに幻想的な世界へ一変します。しかし、霧が去ると辺りは現実に戻ります。偶像も、苦しみや悲しみを一時忘れさせてくれるかに見えますが、それらは時が来ると朝霧や露や煙のように消え、何も変わっていない現実に戻します。

なぜ、理想が現実に戻されるのか。それは、霧や露や煙のように実態がなく、一時の現象にすぎなかったからです。偶像も同じです。偶像は、実態がないからこそ、周りの物で代用させないと成り立ちません。

聖書の神は、人の罪の代価を十字架で払い永遠の命を与える神です。それでは、その実態はなにか。もちろん歴史の事実の中にありますが、その事実が「今、私の中にある」と断言できるからです。

さらに、これは一個人の体験だけでなく、そのキリストが他者に伝わるとき、その人の中で、「主イエスは生きている神です」と告白される実態になります。だからこそ二千年経た今も、聖書は「一点一画」も変えられることなく同じ実態を保ち続けます。

友よ。神とあなたは、朝の霧や露や煙のような関係になっていませんか。「神と私」の継がりと交わりが、息がかかり合うほどになっていますか。「実に主は生きている」が初代教会の信徒間の挨拶でした。私たちも「主は生きている」と告白し合いましょう。

13章4節

わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。

上記の言葉に、完璧なまでに神の心が表されています。しかし、「わたしこそ」かと、「わたしのほかに」と、自己主張を戒める神なのに、なぜ御自分は「わたし」と主張するのでしょうか。

この個所はモーセの第一戒と同じく、人にとって二番目のない一番大切なことです。なぜなら、愛は排他的でなければ成立しないからです。「私と妻・夫」に他の異性が入ると愛は壊れます。「愛=一体=命」ですから、聖書はこの一点に関し徹底的に排他的です。

「夫と妻」が一体となると、「愛=命」が派生します。その愛と命が豊かであるほどに、子供へ惜しまず分け与えることができます。その命と愛が貧しいと、相手から奪うようになり、夫婦・親子関係は悲しい愛へ発展します。それでも人同士の愛は、罪人同士の不完全な愛であって本当の命は作り出せません。

人の本当の命は、「義・聖・愛」の神との一体にあります。罪人でも神と一体となると、神の御業により義人とされ、永遠の命を持つものとされます。

友よ。神が「わたしだけ」と主張できるさらなる根拠は、あなたをエジプトから贖い出した事実があるからです。「あなたがわたしを愛したなら、あなたを愛する」ではなく、「わたしはあなたを愛しました。だからわたしを信頼して、わたしに委ねなさい」と言います。

13章5~6節

荒れ野で、乾ききった地でわたしはあなたを顧みた。 養われて彼らは腹を満たし満ち足りると、高慢になり、ついにはわたしを忘れた。

過ぎ越しの祭りを通してエジプトから出て、紅海を渡って解放された民でした。しかし、民を待ち構えていたのは、乳と密の流れる地ではなく砂漠でした。

ここは、彼らを聖なる民にするために備えられた地でした。ただし、「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反する」(ガラ5章17節)という「霊と肉の戦いの場」でした。人の肉は、知識や努力や世のあらゆるものでもコントロールすることはできません。それは「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる」(ロマ8章1~11節参照)という一つの方法しかありません。

霊と肉は、奪い合いの関係です。それは、肉の人だった者が、主を信じて霊の人となりました。それは完璧な神の子の命をいただいたことですが、イシュマエル(肉)がイサク(霊)を押しのけ主導権を握ろうとしたように争い合います(同・4章21~参照)。

肉が大きくなれば霊は小さくされ、霊が大きくなれば肉は小さくされます。神の子の成長とは、さらに新しいものを受け取ることではなく、霊において肉を支配する、霊と肉の奪い合いによります。

友よ。あなたの神の子の命が成長せねば、肉がその分だけ支配者となります。「霊によって体の仕業を断つならば、あなたがたは生きます」(ロマ8章13節)。

13章7~8節

わたしは獅子のように、豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように…。その場で獅子のように彼らを食らう。野獣が彼らをかみ裂く。

優しかった神が急変したように、獅子や豹や熊などの野獣になり、イスラエルの人々に襲いかかります。

獅子や豹が獲物に襲い掛かって倒す姿を見ると、相手の喉に咬みつき一気に窒息死させます。神も不従順な子をそのようにするのでしょうか。否、神はイスラエルに、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」(ロマ10章21節)と言います。

それでは、神が野獣のように襲い掛かり一気に殺さないとすれば、罪人を一体どうするのでしょうか。

  • 罪に進む人の道に塞がり、唸り声をあげて脅し、引き返えさせる
  • 足に噛みつき、悪の道をふさぐ…試練を与える

神の目的は、人を罪の道から悔い改めさせて命の道を歩ませることです。事実、罪に走る者たちをすぐに裁かず、悔い改めの機会を与え続けています。

友よ。神に吠えられ、足に噛みつかれ先に進めなくされたことはありませんか。その乱暴な行動は、死の道を塞ぎ命の道へ連れ戻す神の愛です。さらに神は、罪人を殺し(十字架)、復活させるお方です。神は人の罪を、神自ら負われました。神(父なる神)が神(子なる神)を裁いた時の叫びが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」(マタ27章46節)でした。

13章9~10節

イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。…どこにいるのか、お前の王は。どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは。

イスラエルに破滅が来る最大の理由は偶像礼拝ですが、その根本問題は、頼る相手を間違えたことでした。

モンスーン気候(高温多湿)の地域では、自然が人を養ってくれるので「自然を神」とできます。しかし、砂漠地域は水も草も乏しく農耕にも適しません。乏しい水と草はいつでも他部族との戦いへ発展します。そこで必要なのは、呼べば応える神(人格神)です。

乾燥した砂漠地方で生きるには、敵に勝利せねばなりませんが、より強い敵に遭遇しては殺されてしまいます。そこでなおも生きる方法は、「同盟」を結ぶか、あるいは「服従」する以外になくなります。

しかし、この同盟と服従は、必ず「相手国の神々を認める」ことなしにはあり得なくなります。それは、相手部族も神なくして生きられないと信じているからです。イスラエルの偶像礼拝は、自分より強い敵に遭遇して生きる処世術ともなりました。

今日の日本において、武器による戦いはありませんが、霊における戦い、「誰を頼るか(神とするか)」は同じです。神よりもお金、仕事、家族、政治経済機構…と、偶像になるものは日常の中にあふれています。

友よ。神棚や他宗教などの偶像に行かなくても、日常の中に神以上に頼るものはありませんか。日常の小さな偶像から敵は入り、魂を滅ぼそうとします。

13章12~13節

エフライムの咎はとどめておかれ、その罪は蓄えておかれる。 産みの苦しみが襲う。彼は知恵のない子で、生まれるべき時なのに、胎から出て来ない

神は、民の中に宿った姦淫の罪の実を胎内の子にたとえ、それを宿す母親の姿と共に語ります。

神の民イスラエルは、罪を贖われて夫キリストの花嫁となるべく召されました。そして、夫に忠誠を尽くし、多くの神の子を産む存在でした。しかし、今宿している胎の実は、夫キリストの命の実ではなく汚れた命のもので神の国を継ぐことはできません。

冒頭のみことばを、「その罪は蓄えておかれ(悔い改めない)。産みの苦しみが襲う(罪の苦しみを受ける)、…「生まれるべき時が来たのに、胎から出てこない(罪を捨て新生しようとしない)」とも読むことができます。

そこで聖書は、「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。(箴28章13節)と言います。ただし、「罪を捨てる」力は人にありません。それを実行できるのは唯一主の十字架です。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ロマ8章3節)。

友よ。悪いものを持ち続ける母体は、苦しみつつ死に至ります。だから一日も早く悪いものを主の十字架に差し出し、「告白して罪を捨てる者」となってください。そして聖なる命に生きてください。

13章14節

陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。

「罪から救われよ」と聖書が教えるのは、「罪からくる報酬は死」(ロマ6章23節)だからです。そのことを、「死のとげは罪であり、罪の力は律法です」(Ⅰコリ15章56節)とも言いました。

ただし、律法が罪をつくるのではありません。律法は、人の罪を示し、悔い改めさせて神に連れて行く養育係です。そうすると、律法は悪ではなく、むしろ実行されるべきものであることが分かります。

しかし、人は守れません。その理由は、命の質の問題です。神の御心である律法を満たすのは、神の命によってです。神から離れた罪人には不可能です。

「正しい者はいない。一人もいない。…彼らの目には神への畏れ(神を信じる信仰)がない」からです(ロマ3章10~18節参照)。これを逆読みすると、「神を畏れ信じる者は正しい者とされ、律法を全うできる」となります。そうです、律法は福音(キリストの十字架と復活の御業)によって全うされるものです。

友よ。冒頭のみことば、「陰府の支配・死からの解放・死の呪い・陰府の滅び」など、その根本原因は、「罪」にあります。「主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました」(詩30・4)との叫びは、罪を赦され、罪から解放された者のさんびです。

13章15節

エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、全ての富、すべての宝は奪い去られる。

砂漠から襲ってくる熱風の恐ろしさは、あらゆる「水」を奪うからです。水がないと生命は死にます。

主イエスは、サマリアの井戸に立ち寄り一人の婦人に、「この水を飲む者はだれでもまた渇く、しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語りかけました。

女はこの言葉に、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と即応します。女は、「渇く・渇かない」の言葉に捕らえられました。彼女は「命の水(守り・命・永遠・真理)」を求めていました。五人の夫と今の男の存在こそ、魂の遍歴でした(ヨハ4章参照)。

あらゆる水・命を枯らす熱風は、主から目をそらした者に襲います。それは「行いの良し悪し」ではなく「方向」です。たとえ倒れ掛かり、心が乱れていても、それでも主に目を向け続ける時、水が注がれます。

友よ。主に目を向ける者に、命を与える聖霊の風が吹きます。聖霊は、真の命の泉であるイエスをあなたにお連れします。あなたが泉に行くのでなく、あなたの中に泉を持つのです。まさに、「「その人の内で泉となる」です。イスラエルの歴史は、あなたの歴史です。熱風ではなく、聖霊の風を受けるための歴史です。

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