キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第2章

2章1節

口語・新改訳では1章10節

イスラエルの人々は、その数を増し海の砂のようになり量ることも、数えることもできなくなる。

みことばは、突如として希望と祝福の言葉に変わります。実に、これこそ神がイスラエルに与えたいものです。それなのに与えられない理由は、姦淫の罪・偶像礼拝を止めないイスラエルの側にありました。

神は「ヤーヴェ(存在・創造主…出3章15節)であり、エロヒーム(我々・三位一体・愛…創1章26節・Ⅰヨハ4章8節)の神です。神は、人を造っただけではなく、人と愛の交わりを求めます。アガペーの神が人に求めるは、もちろんアガペーの愛です。それは、人の人格の完全ではなく、「あなただけ」という応答における完全です。神は全知全能の創造者であり、人は土の器を持つ有限な者です。有限な者を完全にできるのは、ヤーヴェ・エロヒーム(主なる神)ですから、人の完全はこのお方との継がりと交わりにあります。

アガペーの神だからこそ「熱情の神・ねたむ神(口語訳)」(出20章5節)ともなります。人を不幸にする根源は、神に自分を委ねないことです。委ねられないのは、自分自身も含めた神以外のものに心を置くからであり、それが偶像礼拝・姦淫の罪です。

友よ。神はあなたが完璧な者になることを望んでなどいません。それができないことは創造主がだれよりも知っています。求めるのは一つだけ、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20章3節)だけです。

2章1節

彼らは、「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになる。

冒頭のみことばこそ神の本心です。偶像礼拝の姦淫罪を持つまま進むならば、すべてに「ロ(否定)」が付けられます。ある人が、「人生の誕生から死まで、( )の中に入っており、( )の前にはマイナスがついている」と言いました。そのマイナスこと、罪です。

愛の神なのに、「神の怒りが彼らの中に燃えさかり」(詩78・31)とあるように、怒る神の姿は聖書の中に多く記されます。しかし、神の怒りは、相手を退け打ちのめす怒りではなく、「悲しい愛」のことです。悲しい愛は、愛する者の不真実から作られます。そして、愛を捧げようとする者の身動きを縛り、たとえ良い行いでも相手に与えられなくします。

神の怒りとは、神がその人から御自分の手を引くこと、神の不干渉こそ神の怒りです。悲しい愛は、神を身動きできなくさせます。神に手を引かれると、世と肉に自由に支配され、罪の価を自分で払わねばならなくなります。「神の怒りは不従順な者たちに下るのです」(エフェ5章6節)。

「アンミ・生ける神の子」と呼ばれる友よ。「ロ(否定)」なる罪こそ、主以外のものに身を寄せる淫行です。神はあなたに手を伸ばし、もっと御自分の似姿に作り変え、自由にしたいのです。「御霊のある所には自由がある」(Ⅱコリ3章17節参照)。

2章2節

ユダの人々とイスラエルの人々はひとつに集められ、一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。

2章1節から3節までは、主なる神を信じ、救い主を待つすべての人への預言です。やがて興されるダビデの末なる主イエス・キリストの来臨とともに、再臨の主の到来をも預言しています。

「ロ・アンミ(我が民でない者)から「ロ」が取り除かれ「我が民」とされる預言に続き、ここでは悲惨極まりない虐殺の地であった「イズレエル」が、神の栄光に満ちたところに変えられると言います。

この預言がいつ成就されるかについての手掛かりは、「一人の頭を立てて…上って来る」時であると記します。それは、「彼(イエス)はお前(サタン)の頭を砕き」(創3章15節)から始まり、「見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」(イザ35章4節)とのキリスト来臨と再臨の預言が成就する時です。

イズレエルが栄光に満ち、ロ・アンミの「ロ」が取り除かれるのは、頭として登って来る主イエスの降臨と、彼の十字架による罪の贖いによる救いです。

かつて、罪の暴走列車で呪いの地に走っていた友よ。あなたの前に立ち塞がり跳ね飛ばされ、十字架で死んだお方は、イズレエル(ゴルゴタ・虐殺)の地から復活して来られました。そして、呪いを取り除き、尊く聖い神の命を注ぎ、神の子としてくださいました。

2章3節

あなたたちは兄弟に向かって、「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって、「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。

口語・新改1章12節

父なる神は、エデンで失った御自分の子たちを取り戻すために、「一人の頭」である主イエスを遣わします。そして、「ロ」なる罪を取り除き、「憐れまれる民」に回復します。しかし、回復は自動的に成就するのではなく、「罪の悔い改め」が必要です。

人は、罪を神から離れている距離と考えがちですが、「罪」は「的外れ」の意ですから、神からの「距離」ではなく、神への「角度(方向)」のことです。罪を神から距離と考えると、少しでも神に近づこうとする律法が働き出し、「神の義を知らず、自分の義を求め」(ロマ10章3節)ることになります。

人の救いは、神に自分の顔を真っすぐ向けることです。たとえ今、神から百キロ離れていても、目を神に向ける(方向・角度)のです。すると、神は百キロ下って来て、御自分の胸に抱き、肩に担いでカルバリーに運び、罪を贖ってくださいます。「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる」(イザ1章18節)とは主の御業であり、私たちの行いではないからです。

友よ。神に目を合わせる悔い改めとは、「あなただけ」となることで、その裏側には「ほかのものではない」が付いています。それが、罪の悔い改めです。すると、神は御手を自由にその人に差し伸べることができます。

2章4節

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない。

神は、御自分とイスラエルの民の姿を知らせるために、ホセアにゴメルをめとらせました。ホセアの寛容を逆手に取るがごとくゴメルの淫行は止まりません。そして、ついに神の厳しい声が下されました。

「お前たちの母を告発せよ」とは、お腹で自分を産み胸で育てた母を、です。子の幸福の根本は両親の聖い愛にあります。それを何よりも求める子が、自ら母を告発せねばなりません。母と子のへその緒は、親の愛を受けて切れてゆくべきなのに、罪に切られ、その傷はいつまでも深く残ります。子から告発されねばならない母は、それ以上に夫の告発を受けて当然です。「妻でも、夫でもない」こそ離婚宣言です。

聖書でいう罪とは、神との距離ではなく角度(的外れ)でした。さらに、「罪」は神からの「断絶と孤独」でもあります。なぜなら、「命」は、「継がりと交わり」にあり、それこそ「愛」そのものです。その命を失わせるものが「罪」です。愛は「あなたと私だけ」で、それ以外の者を入れてはなりません。それ以外こそ、罪であり断絶であり死であり姦淫の罪です。

友よ。「神は愛です」を軽く考えてはなりません。愛だからこそ厳しいのです。それは、命の厳しさです。ネズミとコウモリ、馬とキリンの中間の化石が無いように、命に中間や曖昧いはありません。「命には命」以外は通じません。主に全てをささげてください。

2章4~5節

彼女の顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ。さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし、生まれた日の姿にしてさらしものにする。

神がゴメルを責めるのは、バアルへ心を寄せるイスラエルへの憎しみからではありません。それは、愛しているからで、愛には妬みが伴います。愛がなくなる時は、むしろ相手が離れることを喜ぶものです。

人は、自分が傷つきたくないから相手を責めます。一方神は、相手の罪を責め、相手が悔い改めると、傷つくのはむしろ御自分です。それは、主は私たちの罪を負うために来られたからです。「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに私たちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と」(イザ53章4節)。

神はなぜ偶像礼拝(姦淫)に厳しいのでしょうか。それは、自分の妻が殺人を犯したと知った夫は、妻の側に行き、「私もお前と一緒に償う」と抱きしめることができます。しかし、妻が愛人に行った場合、夫は妻の所に行けなくなります。すなわち、夫なるイエスは、罪人を抱きしめて罪を償うことができなくなり、妻は自分の罪の責任を自分で負うことになります。

友よ。第一の戒め、「わたしのほかになにものをも神としてはならい」を破る最大の罪は偶像礼拝です。なぜならば、神の救いの御手を差し出せなくさせるからです。神は、姦淫の罪以外については干渉することができます。神の干渉こそ、人の救いなのです。

2章5~6節

また、彼女を荒れ野のように、乾いた地のように干上がらせ、彼女を渇きで死なせる。わたしはその子らを憐れまない。淫行による子らだから。

神は、真理の言葉に逆らう者をどのように扱うでしょうか。それは、真理の言葉を成就させること、その実を刈り取らせることによっても取り扱われます。

神は、かつてエリヤを遣わしアハブ王の偶像礼拝と戦いましたが、王は罪から離れませんでした。そこで、「主がアハブの家に対してお告げになった主の言葉は一つも地に落ちることがない」(列下10章10節)の預言は、彼の七十人の子供がイエフからイズエレルで虐殺され、「主はその僕エリヤによってお告げになったことを実現された」と締めくくられます。

ダビデのバテセバとの姦淫事件は、やがて彼女との間に産まれた子の死を実として刈り取らせました(サム下12章参照)。さらに、神の御心に反し、自分の力を見ようとした人口調査では、疫病による七万人の民の死を実として受け取らせました(同24章参照)。

神が語られた言葉が、ただの言葉だけであるならば、それは真理ではなく恐れる必要もありません。聖書が神の真理の言葉であるのは、その言葉が歴史上に、一個人の中に成就し続けているからです。

友よ。あなたの人生を荒れ野ではなく、豊かな命の畑にせねばなりません。両者の違いは、みことばを受け入れたか拒んだかの一点によります。真理のみことばは、必ず成長して実をつけます。

2章7節

彼女は言う。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

独身の人が伴侶を求めるのは当然ですが、既婚者がそれをすれば罪となります。すべての人はアダムの末ですから「自分の運命について不平不満を鳴らし、欲望のままにふるまい、大言壮語し、利益のために人にこびへつらい」(ユダ1章16節)生きる他ありませんが、キリスト者は違わねばなりません。

キリストの花嫁は、夫に聞き従うべきですがそれができません。それは、夫が与えたいと願うものは霊の糧ですが、花嫁が願うのは「パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物」などの肉の糧だからです。

人々が、偶像なる「愛人」に欲しいものを求める結果は悲惨です。愛人(世・偶像・諸々の宗教など)は「パンと水、羊毛と麻…」などを与えません。愛人こそ、自分を満たす人(パンと水、羊毛と麻…)を求めているからです。偶像は人を喜んで迎えますが、人を自分の命を養う「パンと水」として食べ(利用し)、見栄えよく着飾る「羊毛と麻」にします。

愛情深い夫・イエスに愛される友よ。あなたの欲望のままに愛人について行くなら、「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇る」(フィリ3章19節)世界です。しかし主イエスは、「わたしを食べて飲め」(Ⅰコリ11章23~26節参照)と、聖餐のパンと葡萄酒をもって、いつも御自分をあなたに与え尽してくださいます。主に感謝しましょう。

2章8~9節

1月20日 №20 それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ、石垣で遮り、道を見いだせないようにする。彼女は愛人の後を追っても追いつけず、尋ね求めても見いだせない。

伴侶がいるにもかかわらず愛人の後を追うゴメルの姿は、神を知りながら世を追い求める者の姿です。人を引きつける愛人の魅力はどこにあるのでしょうか。

日本中に数えきれない稲荷神社があり、狐が祭られています。境内の中に何十体の狐の像が並ぶ参道さえあります。狐が人を幸せにする神なのか、否、だれが見ても狐は狐(動物)以上ではないのに、なぜ?

一節によると、狐が祭られるようになったのは、狐が田んぼや畑にいる害虫を食べてくれるので、「豊穣の神の使い」となった…と。しかし狐は、自分の欲(商売繁盛…)を満たす「欲望の像」に置き換えているだけです。まさに、「彼らは腹(欲望)を神とし、恥ずべきもの(狐)を誇る」(フィリ3章19節)だけです。

愛人など本当はないのであって、あるのは自分の肉の欲望です。その肉にサタンが働くと、狐も石造も仏像も人間も、魅力ある神に変身します。

友よ。あなたがかつて愛人を追って万事うまく事が進んだことはありましたか。むしろ、進むほどに痛みが増される茨で傷を負い、石垣にぶつかって怪我をし、進めないように道を塞がれたのではないでしょうか。それは、主の働きです。「見よ、わたしはあなたの前に使いを遣わして、あなたを道で守らせ(道を塞ぎ)、わたしの備えた場所に導かせる」(出23章20節)。

2章9節

そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった」と。

愛人の後を追って行ったのに何も得るものがなく、空しいどころか傷を負わねばなりませんでした。そして、やっと初めの夫・ホセアのところに帰ろうと思い始めます。ここに自分勝手に行動し、行き詰まってから帰る神の子の姿を見ます。

ゴメルはホセアに愛されたのに、なぜ愛人の所へ行ったのでしょう。それは、本当の愛を知らなかったからです。愛は、「受け取り(愛され)→ 信頼し(信じ)→ 愛する」という過程を繰り返して成長していきます。

ゴメルが汚れ多い生き方をしてきたのは、本当の愛を受けたことがなかったからです。それが、ある時からホセアの妻とされても、愛されたことがないので、愛することがわかりませんでした。

罪人だった人間は、等しくゴメルです。その罪人の夫となってくださった主イエスの愛は最初から完全ですが、人はそれを理解できません。なぜなら、本当の愛を知らないし受けたことがないからです。

友よ。自己弁護はさておき、罪人の自分を知ることは大切です。弱さが罪ではありませんが、弱さに甘んじると罪になります。愛を知らないで育った自分を認め、だからこそ主のアガペーの愛をより積極的に求めるべきです。「主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように…我々を訪れてくださる」(6章3節)。

2章10節

「彼女は知らないのだ。穀物、新しい酒、オリーブ油を与え、バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのはわたしだということを。」

統計では、日本の宗教人口は二億人を超えると言われるのは、一人が幾つかの宗教に属しているからです。その信仰の目的は御利益であり、豊かさ・健康・安楽・成功を求めるものです。しかし、それらはヤーヴェなる神が人間に備えていたものであると言います。

聖書はその理由を、「彼女は知らないのだ」と言います。「知らぬが仏」と言う人間こそ本当は何も知りません。紙に書き、木で彫り、動物を祭り、人を崇めること、それらが神でないことは百も承知です。人が陥る無知は、「意図的無知」で、それを造るのは人の欲望と都合、すなわち自己中心です。自己中心は自分を神とし、意図的無知を容認します。

信仰は、「知る・信頼する(信じる)・委ねる」の順序を通るものですから、正しい知識を得ることが最初に必要です。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」(詩100・3)。

友よ。「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」(箴9章10節)です。知恵は神に関し、分別(知識)はこの世に関することです。霊のことを弁えると、世の道理がわかるものです。あなたは「天国のことを学んだ学者」(マタ13章52節)ですから、聖書(知恵・霊)から現実を見てください。

2章11節

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を、取り入れのときに新しい酒を取り戻す。また、彼女の裸を覆っているわたしの羊毛と麻とを奪い取る。

穀物、新しい酒、羊毛や麻を与えていたのは主なる神なのに、彼らは偶像の神々から得たと信じています。しかし、彼らが得たと信じたものは錯覚で、「刈り入れ」の時には何も収穫できず、むしろ自分の裸(恥)を晒しものにすることになります。

地上で得ねばならないものは「神」であり、神御自身と一体化させる「信仰」です。すべての衣食住も家族も出来事も、神と継がり交わるためです。しかし、偶像から得たものは災いを生み出します。それらのものが、神からその人を離すことになるからです。

山羊と羊は一緒の囲いの中で、同じ草を食べ同じ行動をしていました。しかし、最後の時に、羊と山羊は天国と地獄へ分けられます。その理由の一つは、羊飼いに対する信頼です。羊は無力を知って羊飼いに依存し、山羊は角で自分を守り、他の羊をさえ守るのが自分の役目と思っているので、羊飼いに依存しなかったからです(マタ25章23節参照)。

友よ。「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(同29節)の「持つ・持たない」は「イエス御自身」を指します。すべてのことで主イエスに目を注いで歩むとき、衣食住も家族も仕事も、すべてのことは神に喜ばれる聖なるものになります。

2章13~14節

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち、祭り、新月祭、安息日などの祝いをすべてやめさせ…ぶどうといちじくの園を荒らす。「これは愛人たちの贈り物だ」と…。

愛人に向かうゴメルに対し、夫ホセアなる神がなす意地悪は激しいように見えます。神も人間と同じように仕返しをし、懲らしめるお方でしょうか。

大学の授業科目に「結婚学」を最初に取り入れたスイス人のボヴェーという教授がいました。彼は、「愛が結婚を造るのでなく、結婚が愛を造る」と言いました。それは、「愛(好き)が結婚に進ませますが、本当の愛は結婚において造られる」との意見です。彼の言葉から、「夫婦の愛は、感情からではなく契約(結婚)から造られる」とも理解できます。

実に聖書でいう「命と愛」も、好き嫌いからではなく「契約」によって造られます。聖書の新約・旧約の「約」は、神と人との「契約」を表す言葉です。

ただし、人同士と神と人の愛には大きな違いがあります。人同士の愛は「エロース(価値追及愛)」ですが、神の愛は「アガペー(完全愛・自己犠牲愛)」です。神は、人の自己中心な愛を、御自分の完全な自己犠牲の愛によって包んで完成してくださいます。

神を愛すると契約した友よ。契約は双方に果たすべき義務があります。神は独り子イエスを与え、あなたは「イエス・キリストは主」(フィリ2章11節)と告白し続けることです。「私の他に神としてはならない」と「偶像を造るな」は表裏一体で一つの言葉です。

2章15節

バアルを祝って過ごした日々について、わたしは彼女を罰する。彼女はバアルに香をたき、輪や首飾りで身を飾り、…わたしを忘れ去った、と主は言われる。

姦淫とは、伴侶がいるのに他の人を愛することです。ゴメルにとっては、夫に愛されていながら他の男へ行くこと。神の子にとっては、主に贖われ父なる神の子とされ、主エスの花嫁にされたにもかかわらず、バアルなどを神として慕うこと、となります。

それでは、それがどうして罪となるのでしょうか。何よりも聖書が告げる「命」の理解が必要です。命は、個人の中には存在できません。命は、「私」と「あなた」がいて、「私はあなたを愛します」と互いが告白する「両者の中」に存在します。すなわち、夫の中にも妻の中にも命はなく、両者の間に存在します。そして、愛と命の本質は同じで、表現が多少違うだけです。

姦淫は、互いの間に存在する愛と命を失わせる罪です。「罪が支払う報酬は死です」(ロマ6章23節)とは、「姦淫」=「愛の破綻」=「命を失う」=「罪」=「死」となります。それが人と人の間であれば、他の人との再婚も可能ですが、こと永遠の命に関しては真の神以外との関係しか持てません。ゆえに、霊的姦淫は死罪となります。

友よ。神はあなたの少しの罪も見逃さない告発人なのでしょうか。否、一時もあなたを自分から離しくない花婿です。「バアルを慕って過ごす日々」を造ってはなりません。花婿から決して離れないでください。

2章16節

それゆえ、わたしは彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

神は姦淫の罪から離れない者に、「ぶどうやいちじくの園を荒らし、茂みに変え、野の獣に食い荒らさせる」(14節)と迫ります。それは、偶像礼拝する人が憎いからではなく、偶像から得たと思っているものを破壊し、偶像の虚しさを知らせるためでした。

偶像の虚偽を暴く行為は愛の消極面ですが、積極的な愛の行為は「彼女をいざなって、荒れ野に導きその心に語ろう」の言葉にあります。神は、アブラハムをカルデアからなにもない荒れ野カナンに導きました。「荒れ野」の意は「聴く」から出ており、「神の声を聴く」とも理解できます。

荒れ野で必要なのは、人が造る神仏や人の力も超えた、呼べば応えてくれる「大能と英知」をもつ愛の神と出会うことだけです。

また、荒れ野は自分の力が通じず、思い通り行かない場所でもあり、私たちの日常生活の中にも出現します。そこは、偶像(仕事・家族・能力・健康)から離されるところ、「裸を覆っている羊毛と麻を奪われ、恥をさらされる(11~12節)」試練の場です。

今、荒れ野にいると思う友よ。ヨブが財産も家族も奪われた荒れ野に閉じ込められた時、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」と言いました。彼は、出て来たところに(神)に事実帰ったのでした。荒れ野は父なる神の中に入って行くところです。

2章17節

そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。

神は、偶像に心を奪われた者を荒れ野に連れ出し、その心に語りかけ、そこでぶどう園を与え、さらにアコルの谷を希望の門として与えると言います。

アコルの谷は、エリコを滅ぼした民でしたが、次の敵アイに敗北しました。原因は、アカンが神の言葉に背き、分捕り物を所有物にした罪でした。その罪人アカンを石打ちの刑で殺した場所でした。

神は、罪人を荒れ野に連れ出し罰を与えるのでなく、ぶどう園を与えると言います。ぶどう園とは、神に継がって実を結ぶ、命の回復と豊かさを表します。ただし、荒れ野に行けばぶどう園があるのではなく、アコルの谷を通って与えられる命の回復です。

アコルの代名詞は、「罪人の処断」で、ゴルゴタの丘の十字架です。そこでぶどうの枝が幹に継がり、「おとめであったとき、エジプトの地から上ってきた日のように」(同節)、再び神の子の命を取り戻すところです。

友よ。あなたのアコル(苦悩)は、「私は罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。私は言いました、『主に私の背きを告白しよう』と。その時、あなたは私の罪と過ちを赦してくださいました」(詩32・5)。と記されるように、そこは罪の告白の場です。罪の告白は、自分を十字架に付けることです。しかし、よく見てください。あなたが付いた十字架は主の十字架です。

2章18節

その日が来ればと主は言われる。あなたはわたしを、「わが夫」と呼び、もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

「その日」とは、「「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける」(箴28章13節)」日のことで、主の十字架によって罪を赦され、再び妻の座に戻る日です。先に記された、アコルの谷(苦悩)が、回復の「希望の門」とされる日です。

アメリカでは二組に一組、日本では三組に一組が離婚していると言われます。その根本原因が、「罪」にあることに気づかないので、自分や相手の未熟さや愛の無さを探す「罪人捜し」になるので破局します。人生の問題は離婚によってではなく、「アコルの谷」と言われる「罪から命へ」移す、主イエスの十字架と復活という「希望の門」をくぐる以外にありません。

人の救いは、善行を積んでも、多くの知識を得ても、血筋や権力でも与えられません。それは、ただ一つの方法、人格と人格の「継がりと交わり」によります。ただし、罪人と罪人が継がり交わっても、罪から逃れられません。罪の無い方と継がり交わるならば、そこに罪のない命が与えられます。

友よ。「その日」とは、バアルなる偽夫を離れ、本当の夫・主イエスへ戻る日です。かつて信仰告白した洗礼の日がそうですが、その日は今も続いています。それは、小バアル(肉)をアコルへ連れて行き、日々イエスを「わが主・夫」とする日々です。

2章19節

わたしは、どのバアルの名をも、彼女の口から取り除く。もはやその名が唱えられることはない。

神はバアル(バアルの名も「主」の意)から離れて、自分だけを「夫・主」としなさいと言います。さらに、「どのバアルの名」との記述から、バアルが複数あることも知らされますが、その複数のバアルとは?

ゴメルが多くのバアルと犯す姦淫罪を、神の子に当てはめるならば、「霊」によらず「肉」で生きる者、とも表現できます。すると、ホセアを夫とする者は霊で、バアルを夫とする者は肉で生きる者と呼べます。

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです」(ロマ8章5~7節)。

命と愛の法則は、夫と妻の間に何ものも入れないからこそ愛が成り立つように、極端なほど排他的です。不純な愛は、中途半端な命を作りだし、その命は動植物の世界でも生きることはできません。ゆえに神が、「どのバアルも…取り除く」と言うのは、霊と肉の対立する中途半端な生き方を止めさせたいからです。

友よ。神と世の両方を愛そうと思う「二股氏(天路歴程に出てくる人物)」は、あなたの中にいませんか。神の思いと自分の願いの両立を図り、うまく利用しているようですが、最後には両方から捨てられるのが二股氏です。聖霊に支配されて生きてください。

2章20~21節

その日には、…わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。わたしは、あなたと契りを結び、正義と公平を与え、慈しみ憐れむ

メルが自分の伴侶であったなら、非難して捨てるに違いありません。しかし神は、そのような者と再び「契りを結ぶ」と言うのはなぜでしょうか。

  1. 神が御自身で造った責任から
  2. 御自分の権威や尊厳を守るため
  3. 神は愛だから

1.も2.も大きな理由ですが、結論は「神は愛なり」に帰します。

「罪人だから罪を犯す」も、「アダムとエバの末裔だから」も正当な意見ですが、それらの論理を並べ立てても、人は神の御心に適うようにはなれません。

罪人ゴメルの人格を正す以上に、「彼女が姦淫の罪を犯し続けるのは、罪に支配されているからだ」という現実を受け入れなければなりません。「罪人」を正す前に、「罪」を取り除いてあげなければ、本当にその人を正すことはできません。主は、ゴメルの姦淫に目を注ぐ以上に、ゴメルにそうさせる罪に目を留め、それを解決しようとします。それが、何度でも新しく「契りを結ぶ」理由でした。

友よ。愛するには、「罪人」を見ず、罪人に仕立てる「罪」に目をとめることです。すると、相手も自分が受け入れられているとわかり、あなたが信じる主にも心を開きます。「反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べる」(イザ65章2節)慈しみと憐れみの主に感謝しましょう。

2章22~24節

私はあなたと…契りを結ぶ。あなたは主を知るようになる。…地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ、それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

神が差し出す契約に人がサインするならば、人は新しくされ、「主を知る」ようになれるのですが、人は簡単に契約にサインできません。

人が変わるのは、「知識」ではなく「命」によってです。人は、神の知恵を持つ者として創造されたので、その賜物の知識を命の代わりにしてしまいます。しかしどんな命も、命は命によってのみ生み出されます。

そして人の命は、他者との継がりと交わりによりますが、罪人と罪人の継がりと交わりは、罪人の命以上にはなりません。聖なる神と継がり交わる中に、神の子の命を受け取ります。さらに、自由意思を持つ人格と人格の交わりは、「契約」によって成り立ちますから、誰と契約するか(継がり交わるか)がさらに重要です。

イズレエル(イエフ家が虐殺された所)は地名ですが、「虐殺・流血・報復」などを含ませる罪の結末の形容詞とされていました。しかし、どんなに悲惨なところでも、神との新たな契約を結ぶとき、本来の「イズレエル」の意味、「神が種を蒔く」に変えられます。

友よ。あなたが生きている場所は、「悲しみのイズレエル」ですか、命の回復を見る「喜びのイズレエル」ですか。どちらを選ぶかはあなたの選択です。なぜなら、神はあなたにイエスの名による契約書をすでに差し出しているのですから…サインしてください。

2章25節

わたしは彼女を地に蒔き、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ、ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって、「あなたはアンミ(わが民)」と言う。」

神から離れ罪の中に住む者は、虐殺と流血のイズレエルに住む者でした。しかし、神と契約を結んだ時から、地名は「神が種を蒔く」という本来の意味を取り戻します。地名の変更は、人の存在の意味が変えられたことを示します。

そこでは、「憐れまれぬ者」が「憐れまれる者」に、「わが民でない」者が「わが民」に変えられます。それは、彼らについていた名「ロ・ㇽハマ」「ロ・アンミ」から、「ロ(否定形)」が取り除かれるからです。この「ロ」こそ、「罪」のことでした。「東が西から遠い程、私たちの背きの罪を遠ざけてくださる。(詩103・12)。

だれも自分の名から「ロ(罪)」を消すことはできませんが、その家の子になることと結婚することによって名前(存在)を変えることができます。聖書もそのことを教え、父なる神を信じて「神の子」になり、「イエスを主(主人)」とすることで主の花嫁になります。「父なる神の子」と「イエスの花嫁」、いずれも名前が変わるように、人の存在が変えられます。

友よ。神は「彼女(あなた)を地に蒔き」と言われます。そうです、あなたをこの世ではなく、神の国に新しい種として蒔かれます。神の国では、父と御子と聖霊の三位一体の交わりの中に入れられ、「私の子・花嫁」と呼ばれ、神の家族とされます。

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