キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

ホセア書 第7章

7章1節

イスラエルをいやそうとしてもかえって、エフライムの不義、サマリアの悪が現れる。実に、彼らは偽りをたくらむ。盗人は家に忍び込み…。

ホセアは、姦淫する淫乱の女ゴメルをめとり愛しました。本来ならば、ゴメルはホセアの愛に応え、自分を捧げて生きようとするものです。しかし彼女は夫の愛を逆手に取り、さらなる不真実を重ねました。

「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(Ⅰヨハ1章7節)は事実ですが、赦されることを言い訳にして、さらにその愛を逆手にとって生きることも可能です。まさに、ゴメルがホセアに対し、イスラエルが神に対してそうでした。

そこで神は、赦すともっと罪を重ねる民をどうするのでしょうか。なおも忍耐することでしょうか。否、どこかでこの悪循環を断ち切らねばなりません。神は「恵み(赦し・寛容)」に終わりを告げる「恵み(痛み・悔い改め)」を与えねばならなくなります。

愛は、最も優しく最も厳しいものです。なぜなら命だからです。命は、不完全な弱いものをも包み込んで完成する優しさを持ちます。しかし、命に半端はなく、厳しいものです。その厳しさは、相手に自分を委ね合う「真実」です。その真実が命を作り出し、その命が不完全と弱さを包んで完成する愛だからです。

神に赦され続けている友よ。ゴメルとイスラエルの場に居続けてはなりません。悪とサタンの入る不真実を作らず、今日も主に自分を真実に献げてください。

7章2~3節

わたしは彼らの悪事をすべて心に留めている。しかし、彼らは少しも意に介さない。…彼らは悪事によって王を、欺きによって高官たちを喜ばせる。

神はイスラエルを愛し、何度でも悔い改めの機会を用意します。しかし、「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」(ロマ2章4節)とのみ言葉が示す現実から抜け出せません。

そのようになる根本原因は、彼らが信じる神が違っていたからです。頭と習慣と世間体においては「ヤーヴェ・エロヒーム(主なる神)」を信じていますが、本心は「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」(フィリ3章19節)です。

このことをホセアは、「彼らは悪事によって王を、欺きによって高官たちを喜ばせる」と冒頭のみことばで示していました。パウロも、「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません」(Ⅰヨハ2章15節)と厳しい口調で言いました。

友よ。愛には悲しい愛と熱い愛があります。悲しい愛とは、人の罪を止めようと忍耐をもって悲しみながらただ見守る神の愛です。熱い愛とは、人が罪に気づき、神の言葉に従って生きようと立ち上がるとき、御自分のすべてを与えて助けようとする神の愛です。神の悲しい愛でなく、熱い愛を受けてください。

7章4節

彼らは皆、姦淫を行う者、燃えるかまどのようだ。パンを焼く者は小麦粉をこねると、膨むまで、火をかき立てずにじっと待つ。

王や支配階級の人々、それに宗教的指導者たちも姦淫を行う者たちだと断言します。姦淫を行う者たちの共通した心は、間違ったものへの情熱が「聖と汚れ、義と不義」の見境をなくしてしまうことです。

支配者たちの中にある「燃えるかまど」とは、

  • 自分の計画で忙しく、いつでも熱くなっている
  • パン生地が炉に入れられてないのに熱くなっている
  • 自分の好みのパンを焼くことだけに熱くなっている

いずれにしても、彼らの心は炉のように燃え制止することができません。それは、「神の御心を知り、それをいかに実現しようか」という祈りと隣人への愛に燃えるのではなく、人同士が互いに相手を持ち上げ、自分の計画を遂げようとする欲望の熱です。

主が神殿から羊や鳩を売る者や両替人を鞭で散らした時、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」(ヨハ2章17節)と語られました。動物犠牲も神殿税も、神を愛し隣人を愛するためですが、むしろ神殿の中心であるイエス御自身を見失わせました。

友よ。あなたを粉ねて生地を作り、時間をかけて成長させ、聖霊の火で焼き上げるのは神です。自分で自分を作ろうとすると偽善者になります。あなたを完成するのは三位一体の神です。あなたの心のかまどは、主の愛を受け取る熱情で燃え立たせてください。

7章6節

燃えるかまどのようなたくらみに心を近づける。夜の間眠っていた彼らの怒りは朝になると燃え盛る火のように炎を噴く。

「燃えるかまどのようなたくらみ」があると言います。そして、そのたくらみは夜の眠っている間に作られ、朝に怒りとなって燃え上がるとも。

「夜の間眠っていた」とは…無意識の時…幼い頃から育まれた潜在意識…もその一つです。人格は、意識しない間に形成され、それが行動の原点となります。その中で、傷ついた人格は、他者を破壊して自分を建て上げようとし易いものです。

神の子たちは「互いに受け入れ」るために、「互いに戒め合う」(ロマ15章参照)必要があります。そのためには、愛に合って真理を語り合わねばなりません。

それには、最初に「兄弟と二人」(マタ5章24節参照)だけで戒め(他者の前で兄弟の罪を告発することは人格攻撃になります)、次に「二人あるいは三人の証人」(ヘブ10章28節・Ⅰテモ5章19節)によって行われる必要もあります(罪を指摘することが、独りよがりや偏見の思いか否かを確かめるためにも)。

友よ。①神の前に正しくあれば。隣人を愛することができる・②隣人との関係で罪を知り、悔い改めるから神の前に立てる。両方事実ですが②があってこそ①に行けるのです。刃物は石で研がれ、人はその友によって研がれます。できれば、燃え盛る炎となる前に、主の聖別を受け取る者となりたいものです。

7章7節

彼らは皆、かまどのように熱くなり、自分たちを支配する者を焼き尽くした。王たちはことごとく倒れ、ひとりとして、わたしを呼ぶ者はなかった。

王も高官も宗教家も民も、自分たちの欲望の計画に熱くなって神を忘れています。そして、その結果を受け取らねばならないことが預言されます。

冒頭に、「自分たちを支配する者」とある支配者は、もちろんイスラエルの大牧者イエス・キリストです。このお方は(イザ9章参照)、

  • 驚くべき指導者=素晴らしいカウンセラー
  • 力ある神=「神はなんでもできる」と言うお方
  • 永遠の父=父の愛を持って愛するお方
  • 平和の君=父なる神と人の隔ての垣根を十字架で取り除き、正しい関係(平和)を作ってくださるお方

しかし、彼らの欲望が神を「焼き尽くした」とは、神の熱い愛を退けたことを意味します。神を焼き尽くした王たちはやがて倒れます。そうです、神を焼き尽くす者は、自分こそ倒れていく者だからです。

友よ。「神を焼き尽くす」と「神に焼き尽くされる」では違います。前者は、神を自分の手に握る主人ですから、自分の能力を超えると倒れます。後者は、神が主人ですから、「四方から苦しめられても行き詰まらない…。いつもイエスの死を体にまとって…イエスの死にさらされています」(Ⅱコリ4章参照)」の人です。パウロは、いつも主イエスに倒されている人(イエスの死に一体化)だったので倒れませんでした。

7章8節 ①

エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。

誰も自分の好みの菓子(命・パン)を焼いて食べたいと願うものです。それは、自分の計画通りの人生を設計して生きようとすることです。

エフライム(イスラエル)はそのように計画し、一生懸命に生地を作り、かまどで焼き上げてパンを完成させました。しかし、それは不良品でした。なぜなら、「裏返さずに焼かれた菓子(パン)」で、表は焼けていいても裏側は生のままだったからです。

半焼とは、「二面性」を持つことの指摘です。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。…神と富とに仕えることはできない」(マタ6章24節)。

二面性とは、神も富も、神もこの世も、神もバアルも…と、両方から命を得ようとすることです。愛は、「あなた(神)と私」の関係に成り立ちますから、二面性こそ欺きであり、愛の裏切りであり、姦淫罪です。

この菓子は、本来は神に私たちが焼かれて完成するものなのに、人が自分の欲望を満たすために作ったために「霊と肉」が混在する半端な命になりました。

友よ。主が、「あなたの富のあるところに、あなたの心(命)もある」(同21節)と言われました。あなたが富とするものがあなたの命です。お金や財産、家族、仕事や地位、過去の栄光…それらを富としていませんか。主イエスだけを愛する告白の全焼のいけにえ(両面が焼かれた)を献げてください。

7章8節 ②

エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。

片方が焼かれてもう片方は生、という半焼の菓子は、信仰生活のあらゆる面に顔を出すものです。

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタ6章22節・新改訳)とあります。目は人の存在を表すもので、目にその人の人生が映し出されるものです。

「目が健全」であるとは、両目が正しく物事をみる、と解釈することもできます。人は霊とこの世の両方の世界で生きます。「霊と世」を正しく見、そのバランスを整えることが必要です。片目は神を、片目は世です。

ある人は、神だけが見えて、「神さま、神さま」と言いながら世(生活)をおろそかにします。ある人は、この世の常識を重んじ神を軽んじます。彼らの目は、片目だけで見て判断するので不健康です。

神と世をはっきりと見、判断し、さらに両方のバランスをとらねばなりません。それは、「神」によって「この世」がコントロールされることです。神にコントロールされると、この世のものは聖別され、神の賜物となります。この人は、両面を神によって焼かれた聖別された神の子となることができます。

友よ。あなたの目は健全ですか。肉体をもって生きる限り、神も世も必要ですが、世を上にして神を下にしてはなりません。神によってあなたの肉が焼かせる(十字架につけられる)生活を求めてください。

7章8節 ③

エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ、エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。

半焼の菓子は、信仰生活にさらに多く存在します。

主が湖で弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸に渡らせましたが、逆風に漕ぎ悩まされます。そこに主が湖の上を歩いて近づきました。感激したペテロが、歩いてそちらに行かせてくださいと頼みます。ペテロは水の上を歩き出しますが、途中強い風に気付き恐れ沈んだ記事があります(マタ14章22~33節)。

ここでも、「神と世」を見る健康な目が必要です。主が来いと言わないのに行く人、主が来いと言うのに行かない人がいます。前者は、信仰万能主義で現実を無視してしまいがちです。後者は、神よりも現実が大きく重くなり神に近づけません。いずれも、「半焼の菓子」となりバランスが崩れます。健康な目は、「人に不可能な水の上だが、主が来いというからあなただけを見つめて行きます」と判断します。

「信仰によって…この世界が神の言葉によって創造され…見えるものは、目に見えているものからできた…」(ヘブ11章3節)という、目に見える世界と見えない霊の世界目で見る健康な必要があります。

友よ。神の子は主の十字架によって罪を赦され復活の命をいただいた者です。しかし、もう反面にも十字架が必要です。それは自分の十字架を負うことです。主の十字架と自分の十字架、それこそ両面焼きの神の子の姿です。

7章8節 ④

エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。

イスラエルは、半分焼かれた菓子と呼ばれました。

神の子たちにも、半焼の神の子と、全焼の神の子がいるのではないでしょうか。

神を知らない罪人が、聖霊に導かれ「イエスは主」と告白した時、罪はゴルゴタの主の十字架にて完全に贖われました。と同時に、復活の命も授けていただきました。その時から、完全な神の子となりました。

しかし、ゴルゴタの十字架で原罪は消されましたが、肉が消され無力にされたのではありません。地上で生きる限り、肉は付きまといます。そこで、「聖霊に満たされなさい」と命じます。新生の聖霊は一度受け取ればよいが、聖霊の満たしは継続されねばなりません。

聖霊によって新生した者に、「聖霊の満たし」が必要なのは、「肉」の働きに対してです。神の子の命を得ても、それを覆う「生まれながらの命なる肉」が、聖霊の働きを塞ぐからです。それが、「聖霊を悲しませる」(エフェ4章30節)ことです。

「半焼の神の子」とは、神の子になっているが、「聖霊に満たされない(支配されない)神の子」のことです。神の命が半分、自分の肉も半分の者です。

友よ。旧約聖書の「全焼のいけにえ」は、すべてを祭壇の火で焼き尽くしました。それは、新約聖書における「聖霊の満たし」のことです。聖霊の満たしは、献身を表すことで、「主の弟子、キリストの花嫁」のことです。キリストの花嫁として生きてください。

7章9節

他国の人々が彼の力を食い尽くしても、彼はそれに気づかない。白髪が多くなっても彼はそれに気づかない。

ホセアの預言の後、約30年後にこの国はアッシリアに滅ぼされ捕囚として連れ去られます。「風雲急を告げる」ことに気づきません。さらに、「白髪となっても気づかない」とは、これだけの経験を積んだにも関わらず、です。気付けないのは、半焼の菓子となっているので見えないからです。聖書は預言の書であり、幻と夢が多く記されます。

アブラハムは、父テラの死後、「主の言葉が幻の内にアブラハムに臨み」ハランからカナンに向かいました(創15章1節)。ヤコブは、「その夜、幻の中で…エジプトに下ることを恐れてはならない」と聞いて決意ができました(同46章2節)。ヨセフも夢を見る人でした。パウロは「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言う幻を夜見て宣教に出かけました(使徒16章9節)。

幻・夢・預言は、人の知識や経験を超えた見えない霊の世界から始まり、現実の世界を造ります。その見えない世界を見せるために、神は人類に聖書を与えました。聖書こそ、神の幻と夢と預言の書です。

聖書を持つ友よ。その聖書から見えねばならないものは、何よりも「イエス・キリスト」です(ヨハ5章39節参照)。さらに、主イエスの十字架と復活です(Ⅰコリ15章3~4節参照)。旧・新約聖書66巻からの神の最大の幻と預言は「イエス・キリスト」です。

7章11~12節

エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。エジプト…アッシリアに頼って行く。彼らが出て行こうとするとき…網を張り…引き落として捕らえる。

ホセアが預言していたこの時代のイスラエルは安定し豊かでした。それなのに、なぜエジプトやアッシリアを求めて行くのでしょうか。

ある本に、「富の中で暮らすともっと富に魅力を感じる。貧しさの中で暮らすと、目に見えない豊かさを求める」と。まさに、「心の貧しい者は幸いなり」です。

さらに、海外から帰った姉妹曰く、「…国では、言葉や生活全体が思い通りにゆかず、主に祈らねばできない。しかし、日本は豊かで便利なので、自分の力でできてしまうので主に頼ることが難しい」と。

神は、エジプトやアッシリアの富を慕って行くエフライム鳩を網で引き落とすと言います。しかし、神が引き落とさなくても彼らが自分で必ず落ちます。聖書で「富」の言葉の意に「重い」があると聞きます。

「金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます」(「Ⅰテモ6章10節」。

友よ。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14章11節)の言葉を、「だれでも自分を生かそうとするものは引き落とされ、神に引き落とされる者は高くあげられる」ともできます。「神を用いて自分が生きようとする者は命を失い、神のために自分の命を失う者は得る」でもあります。

7章13節

なんと災いなことか。彼らはわたしから離れ去った。わたしに背いたから、彼らは滅びる。どんなに彼らを救おうとしても、彼らはわたしに偽って語る。

神は、御自分から離れ、背いているイスラエルをなおも救おうとしますが、彼らの偽りに心を痛めます。

ヨブ記は、多くの人の心を動かしますが、「信仰深いヨブが、なぜ苦難に…」に釘付けにされて理解を難しくします。しかし、神の取り扱いは明確です。それは、ヨブを祝福したいからです。

ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ」、財産や家族が取られてもなお「ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」とある言葉にとらわれます。

神が取り扱わねばならない彼の罪は、「私の信仰」でした。彼は、神の恵みを多く受けるうちに、「私の信仰が…」となっていました。彼の命は、財産でもなく、子供達でも、自分の肉体の病気ですらなく「私の信仰」になっていました。だから、彼は耐えられました。

しかし、友人たちが来て「あなたの信仰が本当は偽物だから苦難に遭うのだ」と責められると、ヨブの心は怒りで燃えます。命を攻撃されたからです。特にヨブ記29章にヨブの本心、「私は…した」が出てきます。

友よ。人は、「信仰深い」ことを用いてでも神から離れ、背き、神を偽る(自分を偽っているから)ことができる者です。しかし神は、友人のエリフを用いてヨブに罪を示し、立ち返らせ、何倍もの祝福を与えました。神の愛の真実を疑ってはなりません。

7章14節

彼らは心からわたしの助けを求めようとはしない。寝床の上で泣き叫び、穀物と新しい酒を求めて身を傷つけるが、わたしには背を向けている。

民は神を求めて泣き叫び、儀式ばなんでも一生懸命行いますが。しかし肝心のところ、「主御自身を求めること」が欠けていると言います。

「回転木馬信仰」なるものがあります。同じところを上下しながら動き回るが、目的地には着かない信仰のことです。この罠に気付くべきです。礼拝も交わりも祈りも励んでいるが、実際は少しも進んでいません。

そのような神の子の特徴は、

  1. 行くべきところが分かっていない
  2. 現在の自分の信仰に満足している
  3. 木馬(教会など)が動いているので満足している

まさに、今「富み、満腹し、笑う」者たちです(ルカ6章24~26節参照)。箴言も、「怠け者は寝床の上で寝返りを打つ。怠け者は鉢に手を突っ込むが口にその手を返すことをおっくうがる」と(26章14~15節)。

これらの人の問題は、あらゆること理解しているが、決断し実行しないことです。その決断と実行とは、「主御自身とそのみことばに真剣に自分を委ねることです。

友よ。回転木馬信仰になっていませんか。ただ足りないのは、最後の一歩です。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」(フィリ4章9節)。

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