キリスト教プロテスタント教会 東京鵜の木教会

エレミヤ書聖書講解文 第五回「宗教と信仰」

ユダの人々は、「神を信じる」ということに真摯に向き合わず、甘い考えのもと生きてきました。それを助長させてきたのが、偽預言者と祭司たちでした。彼らは、「狭い門、細い道」については語らず、「広い門、広い道」について語ります。

主がニコデモに、「人は、新たに生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)と語られたとき、彼は「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」、と聞き返しました。すると主は、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(同3章5.6節) とお答えになりました。つまり、「人(肉)は、自らを十字架につけ(死ぬ)、神の人(霊の人)へと新に生まれなければ、神の国を見ることはできない。そして、肉の親から生まれたままで神の国には入れない」と示されたのです。

そして、神さまが備えられている「細い道」は、「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ信徒への手紙2章20節)からこそ歩める道であり、人の「考え、経験、能力」で歩める道ではありませんでした。なぜなら、「細い道」は、神さまの方法だけが通じる道だからです。そして、その道は、人にとって最も安全で祝福された道でもありました。

前回は、これらを「二つのつまづき」として、「偽預言者」と「神さまのご計画」について解き明かしを進めました。今回は、「宗教と信仰」と題し、偽預言者が行っていること、そしてクリスチャンが陥りやすい「宗教」の怖さ、また「信仰」とは、ということに焦点をあて進めていきます。

エレミヤ書7章1~13節

  • 主からエレミヤに臨んだ言葉。
  • 主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。
  • イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
  • 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
  • この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。
  • そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。
  • しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
  • 盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、
  • わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。
  • シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。
  • 今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、
  • わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。
  • わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」

真実の信仰の難しさ

エレミヤは、神殿の門に立ち「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ」(エレミヤ7章3節)と、厳しいメッセージを語りだします。中でも、この「道と行いを正せ」という言葉は、宗教指導者たちに向け、発せられた言葉でした。

ヨシヤ王は、ユダの宗教改革に着手しましたが、改革は思うように進みません。それは、ヒゼキヤ王(715年~687年)、「マナセの罪」と呼ばれたマナセ王(687年~642年)、そしてその息子アモン王(642年~640年)が統治した75年間に亘る偶像礼拝が、ヨシヤ王の想像以上に民衆を偶像礼拝漬けにしていた結果でした。その中でも特に、祭司や預言者と呼ばれる宗教的指導者たちの抵抗が、大きな障壁となりました。ここに述べている祭司や預言者は、第4回講解文「二つのつまずき」で取り上げた、偽預言者のことです。彼らは一見すると、ヨシヤ王の改革を支持し、積極的に偶像の除去に力を尽くしたかに見えますが、実際には、改革の要ともいうべき正しい神さまの信仰に、人々を導きませんでした。そして、その改革の主要となる事柄は、つねに彼らの反対により変更を余儀なくされていました。この宗教的指導者(偽預言者)たちは、民衆に心地の良い信仰(義と聖のない罪の赦し)を説くことで民衆の支持を獲得し、彼らに都合のいい宗教(ユダヤ教)を造り上げようとしていたのです。

ここでわたしたちは、「偽預言者が与える(提供する)ものが、『宗教』であり『信仰』ではない」ということ、そして「聖書がわたしたちに求めていることは、『信仰』であり、偽預言者が行っているような『宗教』ではない」ということを深く理解する必要がります。

このメッセージが語られた時代は、ヨシヤ王からヨヤキム王の時代になっていたとの説もあります。

エレミヤの弾劾

偽預言者である宗教的指導者たちの心を見抜いたエレミヤは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(7章4節)と、冒頭から彼らの信仰の本質を暴露しようと、問題の核心を突いてきます。そして、「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく」(同5~6節)と続けます。エレミヤは、偽預言者たちが「神殿に行って、主を礼拝し、犠牲をささげて…」と示す一方で、平気で人を傷つけている行いに、彼らの信仰の現状が見て取れる、と語っているのです。

ヤコブの手紙2章に「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。…信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(同・14節)とあります。そして、「…信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう」(同・22節)。さらに、「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(同・26節)と語っています。ヤコブは、「本物の信仰は、よい行いを伴う。もし、よい行いを伴っていないのであれば、それは信仰に問題があるからだ。だから行いによって、自分の信仰がどのようなものかを見定め、正しい信仰を持つように」(ヤコブ書全体から)と勧めているのです。エレミヤは、ユダの人々の行動に、正しい信仰を見ることができない、「それ故に、あなた方の信仰は真実でない」と迫ります。

「真実な信仰」とは、「神さまとの真実な愛に生きる」ことあります。神さまとの愛に生きることは、イエスさまが示された第一の戒め「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイによる福音書22章37節)にあります。この第一の戒めを守り実践することで、第二の戒め「隣人を自分のように愛しなさい」(同39節)が自然に守れるようになります。人は、神さまに自分を受け止めてもらい、神さまの愛(いのちの繋がり)をいただくことにより、初めて隣人を愛することができるようになります。ここに「信仰」があります。

「第一の戒め、第二の戒め」については、聖書講解文第三回「献身」をご参考ください。

しかし、この「真実な信仰」(神さまとのいのちの交わり、繋がり)がわからない、偶像漬けにされてきたユダの偽預言者や人々は、形式(宗教)を熱心に行うことで、自分たちが気付かない内に、真実な信仰からくる行いを隠してしまっていたのです。そして、自分たちに都合のよい行いを取り入れ、信仰深いよう振る舞っていました。当の偽預言者たちは、「これでいいんだ」と自らを信じ込ませ、熱心に行っていましたが、それは「信仰」ではなく、「宗教」を行っていたに過ぎませんでした。同様のことが、今日の教会においても行われています。

長期にわたり日本経済が「右肩上がり」であったことは、すべての人の思考に様々な影響を及ぼしました。それは、「宗教界」においてもいえることであり、教会にはその影響が「効率中心主義」や「成功主義」として、表面化してきました。その一例として、この影響を大きく受けた教会の「弟子訓練」を取り上げてみます。この教会は、「弟子訓練」を始めたことにより、信徒の数は増えましたが、その反面「教会から弱い人がいなくなった…」という結果を出してしまいました。一体、この教会に何が起こったのでしょうか。それは、訓練を受け止められない人たちが、いつしか教会にいられない立場に追い込まれたのではないでしょうか。

「弟子訓練」というものは、イエス・キリストの弟子となるための、とても大切な信仰訓練です。それを「成功主義」や「可能思考」を重視した「弟子訓練」にすることで、自らの「能力」を計りにかける「宗教」へと転じさせてしまったのです。もし、神さまが望む実を結ぶ「弟子訓練」が行われたなら、そこは「弱い立場の人が多く集う教会」へと変えられるはずです。なぜなら、福音書には、「行き場のない人々が主のもとに集まった」とあるからです。聖書に記されている「弟子になる」とは、「キリストのような愛の人になる」ということであり、そこに「信仰」へと向き合う姿を見て取ることができるのです。

宗教と信仰

宗教と信仰の離反

神さまは、「主の神殿、主の神殿、主の神殿…」(7章4節)と口にするユダの人々に、「…むなしい言葉に依り頼んではならない」(同)と諭します。これは、現代のクリスチャンが、「神の教会、神の教会… 教理、教理… 礼拝、礼拝… 奉仕、奉仕…」と語っていることと同じです。エレミヤが見たユダの人々、そして現代のこれらの人々も一生懸命に宗教を行い、信仰はしていない…、これこそがユダに起こっている問題でした。また、神さまは、「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしている…」(7章10節)と、神さまが祝福できない行いに対し、「救われた、恵まれた」と、神さまの御前で自らを祝福している…、と述べられ、「お前たちがやっていることは、神殿を『強盗の巣窟』(同11節)にしているだけだ」、と指摘されます。

偽者を本物とし、人の手で刻んだ像を永遠の神と崇め、宗教をあたかも信仰のごとく表現し、人々の魂を癒したかのように振る舞う…。これこそ、サタンの巧みな「業」だといえます。サタンは、人々がのめり込む「宗教」を愛しています。なぜなら、「宗教」には、「信仰」にある「いのち=神さまとの繋がり」がないからです。そして、「宗教」に取り込まれた人たちに、人が刻んだ像を生きて働く神のように見させ、身の毛もよだつほどの危機にあっても「平和だ」と自覚させ、自らの栄光のために権力をふるう牧師の指導を「神の人による愛の鞭」だと思わせる…そして、律法による行いを「信仰深さ」に置き換えることまでも可能にしています。

これら「宗教漬け」にされた人々は、わずかなミルク(信仰)を大量の水(宗教)で薄め、飲ませ続けられているようなもので(信仰の栄養失調状態)、「神さまを信じている」と思わせながら「殺す=神さまとの断絶」マジックを造り出します。中でも、「伝道集会だ、牧会だ、○○大会だ、世界に起きている新しい運動だ…」と、これらのことを懸命に行うような人は、ある日突然、燃え尽き症候群のように行き詰り、殺されていきます。この人たちの多くが「死ぬ」その時まで、自分の置かれていた現状に気付いていません。これが、「信仰」していると思わせ、実は「宗教漬け」にして殺してしまう、サタンの業(マジック)です。

宗教と信仰の違い

ここから、ディートリヒ・ボンヘッファー著「キリストに従う」(キリストのかたちーp.346)を引用しながら、進めていきます。

「神はあらかじめ知っておられる者たちを、さらにみ子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、み子を多くの兄弟たちの中で長子とならせるためであった」

ローマ人への手紙8章29節

彼は、上記のみ言葉を冒頭に引用し、神さまのご計画の説明から始めています。そのご計画の目的は、「人々をみ子の兄弟として招くため」だとしています。そして、この「み子の兄弟」とは、「自分をささげキリストに従う者」だと続けています。

「神は昔、アダムをご自分に似せて造り給うた。『それは、はなはだ良かった』(創世記1章31節)。アダムにおいて、神はご自身を認識し給うた。こうして、人間は被造物であってしかも創造者と同じでなければならないということが、初めから、解き難い人間の秘密である。造られた人間は、造られたものではない神のかたちを身に負わねばならない。アダムは『神のよう』である。今や彼は、被造物でありながら神と同じであるという自分の秘密を、感謝と従順をもって担わなければならないのである。蛇はアダムに向かって、先ずアダムが神のようにならねばならない、しかもそれは自分の行為と決断によるものだといさめたが、これは蛇のいつわりであった。そこでアダムは恵みを投げ捨てて、自分自身の行為を選んだのである。アダムは、被造物であって神と同じであるという自分の本質の秘密を、自分で解明したいと思った。彼は、自分が神によって既にそうなっていたものに、自分でなろうとしたのである。それこそ堕罪であった。アダムは、自分なりの仕方で『神のように』(sicut deus)なった。彼は自分自身を神に仕立て上げた、そして、その時はもはや彼には神はなかった。彼は、神を奪われ・隷属状態に甘んじているこの世にあって、ただひとり創造者である神として君臨したのである。」 (p.346~p.347)

ディートリヒ・ボンヘッファー(Dietrich Bonhoeffer, 1906年2月4日 - 1945年4月9日)は、ドイツの古プロイセン合同福音主義教会(ルター派)の牧師。20世紀を代表するキリスト教神学者の一人。第二次世界大戦中にヒトラー暗殺計画に加担し、別件で逮捕された後、極めて限定された条件の中で著述を続けた。その後、暗殺計画は挫折。ドイツ降伏直前の1945年4月9日、処刑を急ぐ国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)により、フロッセンビュルク強制収容所で刑死。ベルリン州立図書館の一階には、絞首台のロープが首にかけられたボンヘッファーを描いた大理石の胸像が展示されている。

Wikipediaより抜粋

上述した引用文に、直接「宗教と信仰の違いと本質」について説明されている個所はありませんが、ボンヘッファーの鋭い洞察力により、それらについても読み取れることから、引用させていただきました。

神さまは、「人を創造」されました。神さまの被造物である人は、「神」の性質をもつ「神の子」として造られました。ですから、人は造られた時点から、人でありながら神さまと同じでなければならないという秘密を担っているのです。アダムはそのことを深く認識し、感謝と従順(信仰)の中で生きなければいけませんでした。しかし、そこに蛇が登場し、「アダムよ、お前は神のようでなければならない」とアダムを諭します。これ自体は、嘘ではありません。なぜなら、アダムには「神と同じでなければならない」という定められた真理があるからです。しかし、蛇の次の言葉「神のようになるには、自分の行い(宗教)でなるものだ」には、偽りがありました。結局、アダムは、恵みを投げ捨て(神の子を放棄し)自分の行い(能力や努力)で「神」になろうとしたのです。

ここに、「信仰の本質」が明らかにされています。この「信仰の本質」とは、神さまが人に用意してくださった「恵みを受け取ること」にあります。その恵みとは、「御子イエス・キリスト」であり、御子イエス・キリストに対する「従順の中に生きる」ことが「信仰」です。人は、このことで神さまのいのちをもつ「神の子」とされるのです。

また、「宗教の本質」も明らかにされています。「宗教の本質」とは、自分で自分を「神」にしようとする「自分なりの仕方・行い」のことであり、神の子になろうとする「人(肉)の業」を指しています。アダムは、すでに自分が神の子であるにもかかわらず、愚かにも自分の力で「神」になろうとしました。そして、自分自信を「神」としたとき、自分の中の「真の神さま(神さまとのいのちの繋がり)」は、消え去っていました。そこから人は、己の真の姿(罪の奴隷の身分)に気付かず、偽りの姿(自分は神)を信じ、ピエロを演じ生きていくことになりました。

電気機関車と蒸気機関車

「しかし、彼の存在の謎は、依然として解かれてはいない。人間は、神から得た自分自身の・神と同じものである本質を失ってしまった。彼は今や、神の似姿であるという自分に定められた本質的な規定なしに生きている。人間であることを抜きにして生きているのである。彼は、生きることが不可能であるのに人間は生きねばならないのである。これこそ、われわれの存在の矛盾であり、われわれのすべての困窮の源泉である。」(p.347~348)

ピエロを演じている人には、「神さまと同じものである本質を失っている」ことがわかっていません。これは、「生きるために必要なこと」を知らずに生きていることであり、まるで自分が人(神の子)であることを忘れ、猿(動物としての人)として生きているようなものです。そのような人の人生を、電気機関車(人)とレール(御子イエス・キリスト)にあらわすことができます。電気機関車(人)は、敷かれている(神さまが敷かれた)レール(御子イエス・キリスト)上を、電気(キリストの命=聖霊)を動力として走行していました。それは、「われ生きるにあらず、キリストがわが内で生きるなり」の姿です。

ある時、電気機関車は、敷かれたレール上ではなく(神さまと断絶し)、自分自ら道を決断する(自らを神とする)選択をします。その結果、電気(キリストの命=聖霊)を得られず、自分の力で薪を燃やし、蒸気を噴き上げる蒸気機関車へと変わり果てました。それも、レール(御子・イエスキリスト)がない、道路を走る蒸気機関車となっていたのです。蒸気機関車は、本来いるべきでない道路を走るので、車輪は食い込み、望む方向にも行けず、思い通りに進むことができなくなります。そのような状況の中で、蒸気機関車(人)は、もがきながらも自分の肉体を使い果たし、死んでいきます。ボンヘッファーは、「電気機関車(神の子)であるにもかかわらず、蒸気機関車(人)となり、しかもレール上(神さまの恵み)ではなく、不可能な道路上(自分の人生を生きる)を走らなければならない、このことに人の根本的な矛盾がある」と語っています。

宗教の終着駅(律法主義)

「それ以来、誇り高きアダムの子孫は、失われた神のかたちを、われとわが力で自分のうちに再建することを求めている。しかし、失われたものを取り戻そうというその努力が、まさに真剣で献身的であればあるほど、またその見せかけの上の成果が核心と誇りを感じるに足るものであればあるほど、神に対する矛盾はますます深い。彼らが自分で考え出した神のかたちにかたどって刻んだその誤りのかたちは、知らず知らずのうちにますます悪魔のかたちを帯びるのである。創造者の恵みとしての神の似姿は、この地上では依然として失われたままである。」(p.348)

この箇所では、さらに深く「宗教の意味」と、「宗教が作り出すもの」を明らかにしています。蒸気機関車である人は、自力で走る矛盾を抱えながらも、なんとかしてレール上を走る電気機関車(神の子)となり、電気を動力とし(神さまからのいのちの供給を受け)生きたいと願います。そして、自らを神の子(電気機関車)とするために、懸命に努力します。つまり、この蒸気機関車(人)は、自分が救われるために電気機関車(神の子)になろうと、懸命に努力しているのです。これが「宗教」です。

同じことが教会でも起こっています。真の信仰ではなく、「教会活動、奉仕、あれも、これも…」と宗教をやらされ、気が付くと「宗教」を行っている自分に生きがいすら感じるようになっています。このように一生懸命「宗教」をやればやるほど、その人は「神さまの似姿」ではなく、「サタンの似姿」に近付いていく…すなわち、「悪魔の虜」にされているのです。そして、それはもはや「偶像礼拝」です。

教会が「イエス・キリストへの従順=信仰」ではなく、「教会活動、奉仕、礼拝など=宗教」に支配されるようになり、そこに自分を見い出し努力してしまう者は、「神さまの恵み」とは逆の「律法主義」に深くのめり込んでいくようになります。それは、主の時代における「律法学者とパリサイ人」の姿です。

サタンの願いは、「自分の力で救いを達成しなさい」ということにあります。しかし、神さまは、それとはまったく逆に「イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストに対する従順だけで、あなたは神の子とされる」と仰っています。これが「信仰」です。

エレミヤ書7章21~23節

  • イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの焼き尽くす献げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。
  • わたしはお前たちの先祖をエジプトの地から導き出したとき、わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない。
  • むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」

宗教と信仰が生み出すもの

神さまが求めていらっしゃることは、「聞き従う=信仰」であり、人が「自ら行う=宗教」ではありません。21節に示されている「焼き尽くす献げ物」とは、「神さまへの献身を表す献げ物(燔祭)」のことであり、動物の皮から内臓まですべてを焼き尽くし、自分を神に献げることを表明したものでした。つまり、儀式(宗教)を用いて、神さまに対する「献身=従順(信仰)」をあらわしたものです。しかし、当時のユダにおける偽預言者たち(宗教指導者たち)が行っていたことは、信仰が伴わない形ばかりの(行いだけの)宗教でした。ですから、神さまは「…わたしは焼き尽くす献げ物やいけにえについて、語ったことも命じたこともない」(同22節)と、偽預言者たちの行いを「そのような信仰のないただの儀式など、語ったことも命じたこともない」と、指摘されたのです。そして、「むしろ、わたしは次のことを彼らに命じた。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る』 」(同23節)と続けられています。この「むしろ」という言葉があらわしているように、神さまが求めていらっしゃることは、「ただの行いによるささげ物(宗教)」などではなく、「聞き従う(信仰)」にこそあるのです。ここに「宗教と信仰の違い」が明確にあらわされています。

燔祭(口語訳聖書)の詳細については、出エジプト記38章、レビ記1章をご参考ください。

ここから、もう少し具体的に「宗教と信仰の違い」を説明していきます。

【宗教 = 人が差し出す】

「宗教」を行う人は、自分自身で懸命に「救い」を造ろうとし、神さまに「造った行為」を受け入れさせようとする人、つまり「神さまにもの申す者」だといえます。これ自体は、自分で行う行為が対象ですから、「何」を「どれだけ」神さまにささげるのか、自分が主体者となり行動できる合理的な方法でもあります。たとえば、「今月は礼拝にすべて出席したから…、いつもより多めに献金したから…、忙しかったけれど牧師に従ったから…、福音を語り人を導いたから…、たくさん奉仕をしたから…」、このように考える人たちは、神さまに聞き従う以上に、神さまに自分の働き(いけにえ)を評価させているのです。ボンヘッファーは、このような人たちを「自分なりの仕方で『神のように』なった」と表現しています。そして、これこそが「語ったことも命じたこともない=宗教」となるのです。

では、「宗教」のすべてが悪なのでしょうか。いいえ、そうではありません。「肉」である人が、「霊」である神さまとの「いのちある交わりを持つ」ための手段、つまり「信仰」をするために用いられる手段こそが「宗教」なのです。ですから、手段である「礼拝」をいくら守っていたとしても、「神さまとのいのちの交わり」は得られないのです。そして、この「宗教」を「信仰」にすり替え、神さまとのいのちの交わりを隠してしまったのが、ユダの宗教指導者(偽預言者)のしたことでした。

【信仰 = 神が差し出す】

神さまは、御子イエスさまを人の罪の贖いのために差し出されました。人は、その事実を受け取り「救い」にあずかることができたのです。そして、神さまが「神の子」とされた人に求められていることは、「神さまに聞き従う」こと「信仰」です。英語の「obedience=服従、忠実、従順」の由来であるラテン語の「oboedire」には、「注意深く聞く」という意味があるそうです。英語のobedienceもそうですが、本来の意「注意深く聞く」、この態度にこそ「信仰」があるといえます。なぜなら、人は、創造者である神さまと被造物である自分の立場の違いを明確に認識し、神さまが自分に立てられているご計画を注意深く聞き従うことにより、神さまとのいのちの交わりを深くし、信仰に生きていくことができるからです。

「宗教と信仰」には、切っても切れない密接な関係性があります。たとえば、礼拝(宗教)を行っている間、賛美に、祈りに、証に、神さまの存在を確認し、愛あるいのちの交わりを持つことができる(信仰)…。ここから、礼拝という「器」と、「神さまの愛を受ける」という「信仰=中身」の関係を見て取ることができます。つまり、「宗教」だけでは、ただの「器」に過ぎませんが、そこに「信仰」という「中身」が入ると、「神さまとのいのちの交わり」が生まれるのです。

宗教の結果

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソの信徒への手紙2章8~9節)。この聖書における恵みの原則「信仰によって救われました」、この箇所を「宗教」に置き換えたその結果は、とてもみじめで悲惨なものです。それをエレミヤ書8章から、見て取ることができます。

  • そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される。
  • それは、彼らが愛し、仕え、その後に従い、尋ね求め、伏し拝んだ太陽や月、天の万象の前にさらされ、集められることも葬られることもなく、地の面にまき散らされて肥やしとなる。
  • わたしが他のさまざまな場所に追いやった、この悪を行う民族の残りの者すべてにとって、死は生よりも望ましいものになる、と万軍の主は言われる。
  • 彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか。
  • どうして、この民エルサレムは背く者となり いつまでも背いているのか。偽りに固執して立ち帰ることを拒む。
  • 耳を傾けて聞いてみたが 正直に語ろうとしない。自分の悪を悔いる者もなく わたしは何ということをしたのかと 言う者もない。馬が戦場に突進するように それぞれ自分の道を去って行く。
  • 空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。
  • どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で 主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き それを偽りとした。

死んだ者は墓から掘り出され、非常な屈辱にさらされ肥やしとなり、生ある者も生きるより死を願うほどに苦しむことになります。なぜなら、「…偽りに固執して、立ち帰ることを拒む」(5節)からです。その「偽り」とは、「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で 主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き それを偽りとした」(8節)と示されているように、彼らが持っている律法の書は、偽預言者によって書かれた「宗教の書」であり、「信仰の書」ではありませんでした。そして神さまは、それに従うものに対し「平和を望んでも、幸いはなく、いやしのときを望んでも、見よ、恐怖のみ」(15節)になる、と語られています。「信仰」のない「宗教」を続けていると、ある種の「恐怖」が付きまとうようになります。それは、「どうして、救われた頃のような平安がないんだろう…」、「いくら頑張っても、神さまを感じることができない…」など、「神さまとのいのちの交わり」という土台がないことからくる「恐怖」です。しかし、それに気付かない人々は、その「恐怖」を打ち消すべくより律法的になり、牧師の言うことに聞き従いますが、その人の内側に広がる「恐怖」はなくなることがありません。「神さまとのいのちある交わり」は、「信仰」を伴わない「宗教」から得ることはできないのです。

そして、宗教を行い続けた結末が「刈り入れの時は過ぎ、夏は終わった。しかし、われわれは救われなかった」(20節)にあらわされています。一生懸命に働き、刈り入れのときが過ぎ、夏も終わったけれど…しかし、わたしたちは救われていない…。非常に恐ろしいことです。

信仰とは

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

ヨハネによる福音書14章6節

ここでイエスさまは、「わたしが、道、真理、命について教えよう」と言われたのではなく、「道と真理と命は、わたしなのだ」と示されています。この「道・真理・命」について教えるのが「宗教」であり、「道・真理・命」であるイエスさまとつながり、一体となることが「信仰」です。ローマ信徒への手紙6章において、パウロは見事にこの「信仰」をあらわしています。

  • それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
  • わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
  • もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
  • わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
  • このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。

「キリスト共に」、「キリストに結ばれて」…これが「信仰」です。そして、ここには「いのち」があります。ボンヘッファーは、上述したパウロの言葉を受け、以下の文章を残しています。

「キリストは、この人間の姿をとり給うた。彼は、われわれと同じような人間になり給うた。彼が人間であることとその卑賤(ひせん)とにおいて、われわれ自分自身の姿を再び認識するのである。彼が人間と同じになり給うたのは、人間が彼と同じになるためである。」

p.351

人となられたイエスさまは、人の罪を贖うため十字架につかれましたが、このときイエスさまは、人(罪人)を抱えたまま(一体となり)十字架につかれ、人を抱えたまま(一体となり)復活されました。そして今、聖霊によりわたしたちの内に住んでくださり、内側で抱き抱えてくださっています。ですから、わたしたちは今、イエスさまと一体となっているのです。「信仰」とは、「キリストと共に、キリストに結ばれて、キリストと一体」となることであり、ここに「いのち」があるのです。やがてイエスさまは、人に肉なる体を脱がせ、霊だけによる交わりに招いてくださいます。

ユダの宗教指導者と民衆は、哀れな状態にありました。何より哀れで悲しいことは、自分たちの姿がわかっていなかったことにあります。彼らは、「宗教」と「信仰」の関係を正しく取り扱うことができませんでした。

「宗教と信仰」は、「いつのどの時代」においても重い課題です。日本のキリスト教界隈が、信仰よりも宗教に傾いている現実が「主のいのち」を小さくしているのだと思わされます。それぞれの教会がバビロン捕囚の前に気付き、「いのちの神さま」が喜ぶ教会になって欲しいと願います。 これは、決して他人事ではなく、皆さんが通われている教会が、どこよりも正しい信仰の道を歩めるよう祈らねばならないことです。

この世界には、「宗教」と称されるものが、山のように存在しています。しかし、人が「信仰」と呼ぶべきものは、世界に一つしかありません。それが、主イエス・キリストへの信仰です。

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」   

使徒言行録4章12節
1998年6月10日
エレミヤ書聖書講解第六回に続く…

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